ギルギット写本とカルガーの大仏の謎

宮本神酒男

ギルギット写本をめぐる謎

 ある風の凪いだ日、牛飼いは丘の上の土の盛り上がりを鍬で掘り返し始めた。盛り上がり方が不自然で、過去にだれかが何かを埋めたのではないか、もし埋められているならそれは宝ではないか、とずっと思っていたのだ。丘の端から見下ろすと、ナプル村の百軒余りの家が木々の緑の合間に揺れて見えた。家々の上方、丘の麓に王宮の址がわずかながら残っていた。

「王様がいたっていうことは、財宝ぐらいあったんじゃないか」

昔からナプル村の男は「アムサリ・ミール」(アムサルはナプルの旧名、ミールは王)という尊称で呼ばれ、ギルギット国の議会に招待された。ギルギットの主な水源は、南面の山の斜面に並ぶバルマス・ガー(渓流)、ジュティアル・ガーとこのナプルのシュコー・ガーであり、いわばナプルがこの国の首根っこを押さえているといっても過言でなかった。

二つの家族から毎日一人ずつ丘に上って放牧を担当するという古くからのしきたりも、奇妙といえば奇妙だった。草場を守るにしては丘の上は瓦礫が多く、ろくに草も生えていないのだ。牛の番というより、隠された財宝の番ではないのか。

 刃先がなにかに当たった。牛飼いが拾い上げると、それは「土のお金」だった。「これじゃ何も買えねえ」と牛飼いはひとりごちた。実際は丸い土のタブレット(銘板)だった。

さらに掘り進めると、梁らしき古い木材が出てきた。牛飼いは財宝どころか墓を掘り当てたのだと思って、とたんに怖くなり、あわてて土をかけて村にもどった。緊急に村の会議が開かれ「祟りがあるかもしれない」という声が大勢を占め、これ以上掘らないことで一致した。

 しかし眠る財宝の噂は村中に広がった。ある日の未明、別の男がひそかに丘に上り、土がかぶされたところをまた掘り返した。男は木の箱を発見し、そのまま村に持ち帰った。多くの村人が見守るなか、箱があけられた。なかには古い本のようなものがあった。

「おい、これ宝じゃねえよ。それに悪魔の文字が書いてあるぞ」

 と誰かが叫んだ。村人らはそれが金目のものでないことに失望し、手元に置くのも祟りの危険性があるので、町の警察に届けることにした。警察はのち、その丘を勝手に掘ることを禁止する通達を出した。ギルギットの知識人のなかでそのとてつもない価値に気づいた人がいたのだろうが、それがだれかはわからない。

 

 これがいわゆるギルギット写本の発見の経緯である。中央アジアの探検で知られるオーレル・スタイン卿が同様の木箱に入った写本を見たのは1931年のことだった。同じ年、はじめて考古学チームがナプルに入り、本格的に発掘する。1938年の発掘やその後の発掘によって、白樺樹皮にシャーラダー文字で書かれた三千葉もの写本が見つかっている。それらは仏教史学においてお金に換算できないかぎりない価値があるが、世界の古文書マーケットという視点からお金に換算すれば、何億ドルもの価値があるだろう。NHKスペシャルで取り上げていたが、ノルウェーのスコイエン・コレクションがかなりの分量の写本を蔵しているようだ。

 ちなみに、はじめ悪魔の所業と恐れられた写本は、その後聖なるものとみなされるようになる。表紙に描かれた縦線がアレフ、すなわち神の名の省略形と考えられたからだ。巨万の富を生み出すのだから、神様であっても、欲望を駆り立てる悪魔であってもおかしくない。

 ギルギット写本に関してあまりに謎が多い。どういうふうに発掘されたのか、なにが発掘されたのか、意外と明瞭でない。「蜂蜜ハンターが洞窟で発見した」という記述をどこかで見かけたことがあるが、目に付く洞窟といえばナプル村の上の崖にふたつあるだけだ。洞窟の前の狭い耕地には麦畑があり、蜂蜜ハンターは必要ない。もちろん目に付きにくいところに洞窟があるのかもしれないが……。

 重要な写本の大半はマウンドA、B……などと分類された遺構から出土している。それらは大きな建造物のなかの巨大なストゥーパ(たとえば一辺が6m60cm)に入れられていた。そのなかのとくにひとつのストゥーパから写本が大量に出てきたという。

 そもそもなぜストゥーパに入れられ、そのストゥーパならびに建造物が土に埋められたのだろうか。考古学者カール・ジェトマルは、差し迫った事情があったのではないかと推定する。これらの写本は大ボロール(大勃律、現バルチスタン)の最後のパトーラ・シャヒ(後述)によって運ばれ、チベットでいうテルマとして(ジェトマルはテルトンと呼んでいるがこれはまちがい)地下に隠されたと考えられるのだ。チベットでは現在理解されない、あるいは破損される可能性がある場合、未来のよりよい時代が来てテルトンに発見されると信じて洞窟や地下、ストゥーパに隠すのである。それがジェトマルの推測するようにペルシアの旅行家フドゥード・ウッ・アラームのサカ旅行記(982年)の時代だとすると、迫りくるイスラムの脅威を感じてのことだったかもしれない。


ギルギットとチベット

 ギルギット写本が書かれたのは、5世紀か6世紀頃ともいう。この時期、ガンダーラやウディヤーナは白フン(エフテル)の支配下にあったと考えられるが、ギルギットにはどういう人がいたのだろうか。

 中国の『旧唐書』に登場する勃律(Palola, Patola, or Balol)の小勃律がギルギットを指すのはまちがいない。彼らは唐やカシミール(はじめは白フンの支配下、のちカルコタ朝)と友好関係を保っていたが、それはチベットに対抗するためだった。722年には唐・小勃律軍が吐蕃を撃破している。しかし737年、ついに小勃律はチベットに屈してしまう。

 新羅出身の求法僧慧超の証言からわかるように、勃律の人々は仏教徒であり、侵略者のチベット人は当初、仏教徒ではなかった。おそらく8世紀のあいだにチベットの軍隊のなかでも仏教を信仰する人が増えたのではなかろうか。

 小勃律の人々がどういう人種であったかはわからないが、碑文などから七人の王の名前が知られている。たとえばパトーラデーヴァ・シャヒ・ヴァジラディティヤナンディ(Patoladeva Shahi Vajradityanandi)のように、サンスクリット名である。早計に決め付けるわけにはいかないが、ダルド人(インド・アーリア系。しかしイラン・アーリア系とする学者もいる)説が有力である。白フンはおそらくイラン系だろう。

 パトーラ・シャヒ(勃律王)の最後を飾るのはスリ・デーヴァ・チャンドラ・ヴィクラマディティヤ(Sri Deva Chandra Vikramaditya)である。750年頃、この最後の勃律王からトラハ(Trakha)すなわちトルコ系の王に替わっている。その後混血が進み、王族でさえ出自がトルコ系であることを忘れてしまったという。実際現在ギルギットで話される言語はインド・アーリア語族シナ語(Shina)である。混血の結果シナ語が形成されたのか、もともと勃律の主体民族がインド・アーリア系だったのか、判然としない。典型的なコーカソイドとしてしられるラダック西北(地理的にはバルチスタンに入る)のダ・ハヌーの人々、通称ブロクパもシナ語を話す。彼らがなぜ飛び地にいるのか、移民したのならなぜ移民したのか、謎は深まるばかりだ。

 チベット人が伝統的に小勃律(ギルギット)をブルシャと呼んできたのも興味深い。チベット人以外だれもギルギットをブルシャと呼ばないのである。しかし歴史上ときおりブルシャという名前はあらわれる。たとえばギルギットの奥のプニアルの王系はブルシェと呼ばれる。これはフシュワクテ家(Khushwakte)から分派したシャー・ブルシェ(Sha Burushe)という王からはじまる系統だったからである。またフンザやナガルに住む人々はブリシュ(Burish)、そのダルド語(インド・ヨーロッパ語族)に属する言語もブリシュキー(Burishki)と呼ばれる。なぜそう呼ばれるのか、由来はわからないが、歴史の闇に埋もれてしまったなにかがあり、それとチベット人は関係があったのである。ちなみにビッドゥルフによると、ダ・ハヌーのブロクパ(自称Rom)はブルシャ人との通婚を避けるとのことである。

この台形の丘の右端にカルガーの大仏があるが、よく見えない。丘の麓がナプル村。丘の左側をシュコー・ガー、右側をカルガー・ナラが流れる。

丘の左側にシュコー・ガーが流れるが、その水を引いて灌漑用水路を通す。左手に写本の出た丘が見える。

これがおそらく王宮址。村の最上部にある。

写本が収められたストゥーパが出土したあとではないかと思われる。新しく作られた墓が迫ってきている。

イスラム教徒には聖地に墓を作る傾向がある。この向こう(茂み)はバシーン村。