神はふたたび語る 1部 1 ケネス・E・バウアーズ 宮本訳 

 

夜明け 

 あたかも世界史における偉大な精神的ドラマが開幕するのを待っているかのように、アジアの心臓部でイラン高原は祭壇のように鎮座していた。歴史が記録されるようになって以来、ここは文明の十字路であり、その人々は人類の精神的、文化的発展に主要な役割をはたしてきた。

 ここは古代ゾロアスター教の信仰が確立された土地であり、その善と悪の勢力が戦う神話はその後何世紀にもわたってユダヤ人やヨーロッパ人の哲学者の考え方に影響を与えてきた。また、預言者ダニエルは実際にそこでしばらく暮らし、将来、神の人々が解放されるという神秘的なヴィジョンを見た。王は「時の終わり」までこのヴィジョンを隠匿せよと命じた。

何世紀ものち、ここはイスラム教の思想がもっともさかんな地域になり、偉大な科学者、詩人、哲学者、神学者らを輩出した。そうした果実はヨーロッパにまで届き、ルネサンスの基礎を築くのに大いに貢献した。またイスラム教シーア派の強固な拠点となり、宗教指導者たちが地上における神の国の到来を信じたのもここだった。

 アレクサンダー大王の時代(BC336323)に先んずる時代、ペルシア、つまりイランは大文明が栄えた地域だった。このあとには衰退と復活が交互につづいた。このパターンの繰り返しは産業革命の時代まで見られたが、そのときまでにゆっくりと、確実に衰退していた。

 19世紀になると、古代ペルシアの栄光は過去の記憶となっていた。広大な版図も、われわれが知る現在のイランほどに縮小した。その衰退ぶりは、過去の輝かしい時代を知る者には耐えきれないことだった。当時、ヨーロッパや北アメリカの国々は前例のないテクノロジーの進んだ、物質的な、政治的な発展を遂げようとしていたが、ペルシアは旧態依然の姿で、政治的、宗教的腐敗の泥濘から脱せないでいた。

 同時代のヨーロッパ人であるカーゾン卿はペルシアのことを「教権の国家」と呼んだ。国は民間と宗教両者の権力者によって統治されていたが、その支配の仕方というのは圧政的で、専制的だった。カーゾン卿が描写する統治システムを見ると、その潤滑油となっているのは単純で、人目をはばからないワイロだった。それは村のレベルから宮廷にいたるまで、業務や統治のすべてにおいて見られた。究極の権力は、絶対的な支配者であったシャー(王)の手の中にあった。

 ほかの作家(ジョージ・タウンシェンド)は当時の状況をつぎのように描いている。

 

 形としては宗教的ということだが、腐敗、残虐、不道徳がはびこっていた。ムスリムの正統派の土台はそのようであったし、その核心まで、また庶民の生活にまでその風潮は浸透していた。法律も条令も、民衆を導く綱領もなかった。(国会)上院も枢密院も、教会会議も議会もなかった。

 シャーは専制君主であり、彼の圧政は大臣や総督からもっとも低い官吏や遠く離れた地方の族長にまで及んでいた。専制君主や権威の横暴をチェックし、調整するべき市民のための法廷も存在しなかった。権力者は都合のいい役人を臣民のもとに送ることができたのである。法律があったとしても、それはシャーの言葉だった。彼の好きなようにできたのである。大臣や官吏、軍人、判事、そのすべてを彼は任命することも罷免することもできた。

 公民であろうと軍人であろうと、議会や宮廷に諮ることなく、いわば生殺与奪の権力を施行することができた。命を奪う権利は彼に与えられていたのである。そして政府のすべての機能、立法、処刑、審理も彼の権限だった。彼の特権を抑制するものは何もなかった。

 シャーの子孫たちは国のなかでもっとも割のいい地位を占めてきた。何世代にもわたって、彼らは無数のマイナーなポストを作り出してはその地位に就いていった。王室のオス蜂の血統が物言うかぎり、どこまでもその傾向は広がっていた。ペルシアのことわざにも「ラクダと蚤と王子はどこにでもいる」と言うほどだった。

 

 この独裁的な支配は残虐な刑罰制度によって支えられていた。カーゾン卿はつぎのように記している。

 

 ペルシアの法律とその執行というテーマを離れる前に、刑罰と刑務所に関することを付け加えておきたい。ヨーロッパの読者にとってショッキングなのは、犯罪がしみついた血塗られたペルシアの歴史を見ると、前王朝の、そして幸いにもやや少なめだが現王朝において、過酷な刑罰や残忍な拷問がおこなわれてきたことである。それはまるで悪魔の野蛮さやけがわらしさに眼をつむれるかどうか試されているかのようだ。

 ペルシア人の特質として、工夫を凝らす想像力に富むが、苦痛にたいしては冷淡というところがあった。刑罰における処刑に関してはそういった面が発揮されているのである。ごく最近まで、現在の版図のなかで有罪判決を受けた犯罪者は、磔(はりつけ)にされたり、銃で吹き飛ばされたり、生きたまま焼かれたり、突き刺されたり、馬のように蹄鉄を打たれたり、二本の木具に縛り付けられて引き裂かれ、また元の位置に戻されたり、人間たいまつにされたり、生きたまま皮をはがれたりした。

 

 訴訟に関して彼はつぎのように書いている。

 

 それぞれの訴訟の最高法廷は王その人である。その絶対的権力は揺るがしがたく、従属者による審理はたんなる代理人のおこなう権力行使にすぎない。もっとも、都から離れた地方からの嘆願者による不平は聞き入れられたことすらないのだが。ペルシアにおいて政府の官吏によって発せられた判決は、法律に従ったものでも規則によるものでもない。世間に知れ渡ることが唯一公正さを保証するものだった。

 しかし実際に役立つのはもっと低次元の手段、すなわちワイロである。行政長官のダルギスは過酷で、腐敗していることで有名だった。ペルシアでは官吏が、とくに高官が刑に処せられることはなかった。なぜならそれはお金で買えることができなかったからだ。

 

 カーゾン卿はペルシア政府と社会の徹底した腐敗ぶりについてつぎのようにまとめた。

 

 今詳しく述べたような二重の統治システムのもと、演者は全員さまざまな役割を持っている。たとえばワイロを渡す側、渡される側両方になりえるのである。そして審理の過程は、法律や法廷すらなく、政府は存在しないかのように理解された。そこには個人的な義務の感覚も名誉の誇りもなかった。互いの信頼や協力も(悪いことをする場合は別だが)なかった。親切さがあらわれることはなく、美徳を信じることもなかった。結局のところ国の魂、すなわち愛国心がなかったのである。

 

 19世紀半ばまでには間違いなく愛国者の数は増えていた。彼らはヨーロッパやアメリカの勃興するパワーに対抗すべきと考えた。この時期、ロシアや大英帝国は国に侵入し、力を弱めて従わせようとしていた。上述のように、近代化の波に直面した時、その対処がいかに難しいか、容易に想像できるだろう。交通や商業、教育、その他の分野においても、近代化に必要なプロジェクトは、官僚が自己利益をはかるのにつかわれ、王族のサポートの熱意のなさに屈することになった。彼らの特権を損ねるかもしれない、いかなる革新をも歓迎しない官僚によって困難はもたらされた。変化を欲しない権力者たちはしばしば残忍に処遇した。

 状況はすさまじく悪く、西側世界とは文化も異なっていたが、その宗教の変化の仕方には共通点があった。19世紀前半、これらの国の人々は新しい時代に入りつつあると感じていた。しばしばこの感覚は古代聖典の予言を満たすものと受け取られることがあった。

 北米とヨーロッパの多くの人がキリストの再臨が迫っていると信じた。たくさんの著名な宗教指導者や学者が正確な年を予言して、キリストが再臨し、地上に神の国を建てると主張した。よく知られた例としては、ウィリアム・ミラー師を挙げたい。聖書の予言を丹念に研究した彼は、長い間待たれたその日は1843年か1844年だとした。何万人ものアメリカ人がこの解釈を信じた。もちろんキリストがこの世の天国に現れることはなく、のちの世代に「大いなる失望」のエピソードとして語り継がれることになってしまった。ミラーを信じる人々の運動は、しかしながら、つぎつぎと生まれてくることになる千年王国信仰の先例となった。

 中東でもおなじような動きが起きていた。新しい運動が「イスラムの約束された者」の再臨を主張していたのである。じつに多くのムスリムが2つの人物がつづけて現れることを期待していた。そしてキリスト教徒が期待したのと同様に、この世界に神の国が出現すると信じた。こうした運動のよく知られたリーダーのひとりサイード・カイムは「この時は近づいている」と宣言した。彼はコーランやその他のイスラム教の文献を詳しく読んで「最後の日々」について研究し、この結論にいたったのである。彼のまわりに集まった数多くの信奉者たちは厳格な勉強と修練にいそしみ、約束された者を認め、従うための準備を整えるのだった。