神はふたたび語る 第1部 1 ケネス・E・バウアーズ 宮本訳
約束された者を探して
サイード・カイムは1843年に逝去した。死の直前、彼は「約束された者」を探すために各地に散らばっている弟子のリーダーたちを集めた。彼の主張によれば、その者は現存していて、自分の到来について宣言する準備を整えているという。
これらの弟子のなかでももっとも有能と目されていたのがムッラー・フサインという名のペルシア人だった。師が死んだあとすぐ、彼は約束された者を探す決意を固めた。しばらくの間祈りと断食に集中し、ペルシア南部の都市シラーズへ行くべきだと感じた。
シラーズに到着すると驚くべきことがたてつづけに起こった。当時のある人(ナビル・イ・アアム)はこうした一連のできごとについてわかりやすく記している。彼はムッラー・フサインの到着に「まるで磁石に引きつけられるように」魅了されたという。
まさにその日、日没の数時間前、町の門の外側を歩いていた彼(ムッラー・フサイン)の視線が輝く顔の青年に留まった。青年は緑色のターバンを巻き、愛らしい歓迎の笑顔を浮かべながら彼のほうに向ってきた。青年はあたかも長い間の親友であるかのように愛情をもってやさしくムッラー・フサインを抱擁した。ムッラー・フサインは最初から彼がサイード・カイムの弟子ではないかと考えた。シラーズに弟子が近づいていると聞いていたので、彼がそうではないかと思ったのである。
ムッラー・フサインはつづいて起こったことをつぎのように述べている。
シラーズの門の外で会った青年の愛情表現や親切さに私は圧倒されてしまいました。彼は私を家に招待してくれました。そこで私は旅の疲れを癒し、リフレッシュすることができたのです。私はふたりの仲間が町の中で私を待っているのでお暇しなければならない、と言うと、「神のご加護がありますように」と青年はこたえました。「神はたしかに彼らを守り、警護しておられます」
このようにおっしゃったあと、青年は私にあとをついてくるように命じました。私はこのおだやかだけれど人の心を動かす、奇妙な青年の語り口に深い感銘を受けました。青年のあとを追って歩いたときに見たその歩き方、魅惑的な声、重々しさ、そういったものが最初の思いがけない出会いを特別なものであることを教えてくれたのです。
私たちはほどなくして清楚な家の門の前に着きました。青年が扉をノックすると、すぐに扉があいて中からエチオピア人の従僕が出てきました。
「平和で安全なこの場所へ入ってください」
敷居をまたぐときの青年の言葉です。そして手招きしてあとをついてくるよう私に示されました。力と尊さがこもった招きの言葉は私の魂を貫きました。シラーズという町にはなんともいいようのないすばらしい雰囲気があると感じました。そのシラーズで最初に入った家の敷居でそのような言葉の導きを受けるのは、とてもよい兆しだと思いました。もしこの家に来なかったら、探しているものに近づけなかったのではないかと私は考えました。
探索をしている間にずっと見つけられると切に願い、粘り強く物事に当り、不安が高まるのを抑えきれませんでしたが、それもこの家に来たことによって収束することになると予感しました。この家に導かれ、家の主(あるじ)のあとをついて主の部屋に入ったとき、私という存在が言いも言えない喜びに満たされるのを感じました。
すぐにわれわれは腰を掛けました。主は水差しを持ってくるよう従僕に命じ、私にはその水で手と足を洗い、旅の汚れを落とすように促しました。しかし私は隣接する部屋で沐浴したかったので、主の面前から退くことを望みましたが、主はそれを許さず、私の手になお水をそそぎつづけました。それから私は主かられフレッシュするための飲み物をいただきました。それから主はサモワールを持ってこさせ、自ら私のためにお茶を作ってくださいました。
日没から1時間後、この若い主と私は語り合いはじめました。
私は時がたつのを忘れ、私を待っている人がいたことも念頭からなくなり、魔法でもかけられたみたいに坐っていました。
と、そのとき突然呼ばれたのです。信仰深い者が朝の祈祷に呼ばれたかのように、長い間エクスタシーに浸っていた私は目を覚まさせられたのです。全能のお方が聖なる書物のなかであきらかにされているように、すべての喜び、言葉では尽くせない神の栄光、それらは天界の人々が有するかけがえのない価値があるものなのです。その晩、私はこうしたことを体験することができました。私はなんとすばらしい場所にいたことでしょう。私は言葉を賜りました。
「この地にてわれらに苦労はなし。この地にてわれらに触れる疲労なし」
「この地にむなしい教えはなし。いかなる欺瞞もなし。あるのは平和、と叫ぶ声のみ」
「この地における声は、汝に栄光あれ、おお神よ、だけである」
そして彼らのあいさつも、「平和!」であり、そのしめくくりは「すべての生きものの主である神をほめたたえよ!」でした。
その晩、私は眠ることを忘れてしまったかのようでした。私は声が綾なす音楽にうっとりとしました。それは主が歌うにつれて上昇したり、下降したりするのです。主が祈りの言葉を発すると、それは霊妙な音楽となり、不思議なハーモニーを奏でるのです。
それから主は私に言葉をくださりました。
「おお、汝、最初に私を信仰した者よ。いまこそ名乗らん、私はバーブ、すなわち神の門である」
この啓示は稲妻のようにあまりにも突然に、あまりにも激しくやってきたので、私はなぎ倒され、しばらくの間、すべての感覚機能が麻痺してしまったかのようでした。私はまばゆい光によって盲目となり、押しつぶさんばかりの力に圧倒されました。興奮、喜び、畏れ、驚異、そういったものが私の魂を底から揺さぶったのです。これらの感情のなかでも際立ったのは、喜びと信念の強さです。それらは私を別の人間に変えるほど強烈だったのです。いままでの私はなんて弱々しく、役立たずであったか、なんて期待外れで、臆病だったか、そう痛感したのです。
そのときの私は書くことも歩くこともできませんでした。なぜなら手も足もわなわなとふるえていたからです。しかしいま、主の啓示を知ったことにより、私という存在は力強く蘇りました。勇気と元気を得た私は、世界、人々、君主が束になってかかってこようとも、恐れずに立ち向かっていくことができるのです。世界は一つかみの塵芥にすぎません。私は人類すべてに呼びかける「天使ガブリエルの声」のように思われます。
「目覚めよ、朝の光が現れた! 起きよ、主の活動はあきらかにされた! 主の恩寵の門は大きく放たれた。おお、世界の人々よ! 約束された者はここにやってきた」
このような興奮した状態で私は家を出て、わが兄弟や甥のもとに着きました。権威のある聖職者や都市の官吏たちも私のもとにやってきました。私がその精神性について講義を施すと、彼らはみな驚きました。わが知識の源泉が、彼らが待ちに待っていた約束された者であることに気づいていなかったからです。