幸せの錬金術 

ハズラト・イナーヤト・ハーン 宮本神酒男訳 

 

1章 幸せの錬金術 

 ヴェーダーンタ(インド哲学の主流派)において、魂はサンスクリット語でアートマンと呼ばれる。それは幸せ、あるいは至福という意味である。それは幸せが魂に属するということではなく、魂そのものが幸せということである。

 現代のわれわれは幸せと悦楽を混同しがちである。しかし悦楽は幻影、すなわち幸せの影にすぎない。この幻惑のなかで、悦楽を求め、しかし満足を得ることができず、人生全体を過ごすことになるかもしれない。

 ヒンドゥー教のことわざに言う、人は悦楽を探し、苦痛を得る、と。すべての悦楽は外側からは幸せのように見える。それは幸せを約束しているかのようである。なぜならそれは幸せの影だからだ。人の影が、人のかたちを表わしているにせよ、その人でないように、悦楽は幸せを表わしているが、現実的に幸せそのものではないのだ。

 この考え方によれば、この世界で、幸せが何であるかを知っている魂にはめったにお目にかからない。かれらの失望の種は尽きることがない。それがこの世界の人生の本質である。そのあざむきぶりはじつに見事なので、千回失望したとしても、人はおなじ道を進むことだろう。なぜなら彼はほかの道を知らないのだ。

 人生を学べば学ほど、「私は幸せだ」と偽りでなく言うことのできる魂がまれであることを理解するようになる。ほとんどすべての魂は、この世界での位置がどんなものであれ、「私は不幸だ」と言っている。もし彼にその理由をきいたなら、おそらく地位や権力、資産、財産、働いてきた年数に見あった評価が得られないからとこたえるかもしれない。おそらく彼はお金がほしいのだろう。所有が満足をもたらさないことを彼は知らないのだ。おそらく彼は自分には敵がいるとこたえるだろう。あるいは愛している人々から愛されないと言うかもしれない。不幸には心が作り出す都合のいい千の言い訳があるだろう。

 しかしこれらの言い訳のひとつでも正しかったことがあるだろうか? これらの人々がほしかったものを手に入れたとき、かれらは幸せであるとあなたは考えるだろうか? すべてを所有したとき、それは満足をもたらすだろうか? いや、またあらたな言い訳の種を見つけるだけのことである。

 これらの言い訳は人の目を覆うカバーのようなものである。なぜなら心のずっと奥では、これらからでは得られることのできない真実の幸福を求めているからだ。本当に幸せな人は、どこにいようと、すなわち宮殿のなかであろうと、田舎の家であろうと、金持ちであろうと、貧乏であろうと幸せである。というのもかれ自身の心のなかにある幸福の泉を発見しているからである。この泉を発見しないかぎり、かれは真の幸せを得ることはできないのだ。

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