ハーツ・アンド・マインズ、そしてコーヒー  
                         宮本神酒男 

Hearts, Minds, and Coffee (Kent Hinckley 2014) を読んで

 多くの旅行者がそうであるように、私も何度かベトナムを訪ねるうちに、ベトナム・コーヒーが好きになった。ベトナムが好きだからコーヒーを飲むようになったのか、コーヒーが好きだからベトナムに行くようになったのか、わからなくなるくらいだ。いつしかおなじみの安っぽいアルミニウム製フィルターを買い、家でベトナム・コーヒーを淹れるようになった。

 写真を見てほしい。ベトナム中央部ホイアンのトゥボン川沿いのゲストハウスに泊まったとき、すぐ横の川に面したレストランでブレックファーストといっしょに注文したベトナム・コーヒーである。朝陽を浴びて黄金色に輝くフィッシング・ネット、行き交う砂利を運ぶ平底船や漁師の舟を眺めながら、濃いコーヒーを口に入れる。そのあとコンデンス・ミルクの強烈な甘みが苦味を消していく。

コンデンス・ミルクがたっぷりと入ったコーヒーはバクシウと呼ばれる。香港の食堂で注文すると出てくる激甘コーヒーと同じタイプである。昔、香港に住んでいた頃、ブラックペッパー・ステーキなどを食べたあとに口直しによくこの手の甘いコーヒーを飲んだものである。糖分が多すぎて体に悪そうだけど、病みつきになってしまった。

 そうするとこのコーヒーの飲み方は広東(華僑)の影響かもしれないが、もちろんコーヒーそのものはフランスがもたらしたものであり、コンデンス・ミルクもフレッシュミルクの代用という説もあるので、コロニアル文化のひとつであることにかわりはなさそうだ。飲み方はどうであれ、フランスパン・サンドイッチ(バイン・ミー)にはベトナム・コーヒーがよく似合う。

 フランス人によってベトナムの中央高地にコーヒーがもたらされたのは、1857年のことらしい。コーヒー栽培がさかんになるのはその30年後、コーヒー・プランテーションがはじまってからである。その後ベトナム戦争でコーヒー農園は壊滅的被害を受けるものの、ドイモイ政策のもと復興され、いまではブラジルにつぐ世界第2位のコーヒー生産量を誇るまでに成長した。

 ベトナムのコーヒーの歴史は、植民地の歴史と表裏一体だった。コーヒーがもたらされたのは、年表を見ると、まさにフランスの植民地支配がはじまった時期と重なっているのだ。(小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』より)

1847 ダナン港でフランスの軍艦がベトナムの軍艦5隻を撃沈 

1851 トゥドゥック帝がフランス人宣教師2人を処刑 

1857 コーヒーの木がフランス人によって中央高地にもたらされる 

1858 フランス・スペイン連合軍がダナン占領 

1861 ジャディン、ミトを占領 

1862 コンロン島、ビエンホア、バリア、ヴィンロンを占領 

   フランス・ベトナム条約調印。コーチシナ3省割譲、3港開港  

1867 コーチシナ全域を併合 

 ハノイの占領はこれにつづいて起こることであり、ベトナム全域が支配下に置かれるまでにはもう少し時間がかかるのだが、多数のフランス人がベトナムにやってくることが想定され、彼らに欠かせないコーヒーを栽培するのに適した場所が探されたことは想像にかたくない。まずフランスの植民地主義者たちの嗜好を満足させるためにコーヒー栽培は始まったのである。しかしプランテーションが導入されたことによって、コロニスト(植民地開拓者)のためのコーヒー栽培は、輸出のための一大産業へと変貌していく。

 『ハーツ・アンド・マインズ、そしてコーヒー』(仮題。原題はHearts, Minds, and Coffee。1974年のドキュメンタリー映画『ハーツ・アンド・マインズ』にかけたタイトル。ときどきヒストリー・チャンネルで放映されているが、衝撃的な、米国の暗部を見せる、深く考えさせられる映画である)を読む前に、これだけの知識があったほうがいいが、もちろんなくてもストーリーは十分に堪能できる。小説の舞台はベトナムのプレイクという町の近くの村のコーヒー園。上述のように、フランス人は中央高地がコーヒー栽培に適していると考えた。プレイクはそのコーヒー・プランテーション・エリアの中心地なのである。*小説とは関係ない話だが、3年前、プレイク空港の前でボッタクリ・タクシーにひっかかってしまった! 

 ベトナム戦争のとき、主人公のスレーターは反戦思想を持っていたため、他の「異分子」3人とともにベトコン(南ベトナム解放民族戦線)が支配する地域であるプレイクに配属された。暗に彼らが最前線で戦死してもかまわないとでもいうように。 

 スレーターは、ベトコンのリーダー(大佐と呼ばれていた)である31歳のトラムと交渉し、和平を築くことを提案する。その証しとして、彼は軍の上層部の反対に遭いながらも、トラムが要求する捕虜交換に応じた。そうして信頼を勝ち得たスレーターは、森の中の耕した畑のように見える空き地(実際はB52によって爆撃された場所)をトラムら地元のベトナム人たちと共同で開発することを提案した。ベトナム人リーダーはコーヒー農園を強く望んだ。

 トラムは戦争が早く終わることを願っていた。フランスのコーヒー会社に勤めていた叔父から、この地がコーヒー栽培に適していること、そしてコーヒー栽培が潜在的に大きな可能性を秘めていることを聞かされていたのだ。

 戦争のさなかに(この時点で1969年)敵味方に分かれる二つの集団(米軍とベトコン)が共同でコーヒー農園を作るというのは、魅力的だが危険な実験だったといえる。はじめ、互いの不信感を払拭するのはむつかしかったが、立場を越えて、スレーターとトラムの間に友情のようなものが芽生え始める。立場も考え方も異なったが、ふたりとも反体制的で、平和を望んでいるという点では一致していた。

彼らが植えたロブスタ種のコーヒー(アラビカ種は最低5年を要するが、ロブスタ種は2年ですむ。ただし質はやや劣る)の種は芽生え、すくすくと育ち始める。

 しかし順風満帆とはいかなかった。捕獲した北ベトナム軍の兵士から得た情報によれば、近日中に北の大軍がこの地域に総攻撃をしかけてくるというのだ。米軍がそれを迎え撃つとき、この村は砲弾が飛び交う本格的な戦場となり、コーヒー農園は破壊をまぬかれないのである。

 この小説のエピソードがどれだけの事実に基づいているかはわからない。しかし最近の作者のブログを読むと、彼自身、当時は仕方なくベトナム戦争に参加したが、北ベトナム軍やベトコンに対して悪感情を持っていないのに戦わなければならなかったのが苦痛だったと吐露している。ベトナム人のことは嫌いどころか、好きだったし、いまも好きだという。

 米国には「ベトナム戦記物」ともいうべきジャンルがある。キンドルのチャートを見ると、このジャンルの1位はトム・クルーズ主演で映画化されてヒットした、大ロングセラーの『7月4日に生まれて』(ロン・コビック)だが、大半は邦訳もなく、知らない題名がつづく。3年前ベトナム旅行中にキンドルで購入した『マッターホルン』(カール・マーランテス)も12位と健闘している。*マッターホルンは激しい戦場となったベトナム中央部の山の俗称。 

 日本にも『レイテ戦記』や『ビルマの竪琴』のような数々の名作文学が生まれたが、一方で、専門の作家でない元兵士の数々の戦争手記もまた書かれた。ただ日本人の場合は贖罪意識からなかなか抜け出せず、『永遠のゼロ』のようなエンターテイメントに徹した戦記文学が登場するのは最近の傾向にすぎない。

 それに比べると、ベトナム戦記物は正義をふりかざすこともできるし、悲惨さを強調することも、米国の矛盾点をさらすこともできるので、より多様性に満ちたジャンルだといえるだろう。それにベトナム戦争はまだ40年しかたっていないので、作者の多くは60代であり、価値観もそれほど大差はないのだ。

 この『すべてはコーヒーのために』(仮題)の作者ケント・ヒンクリーもまた、ベトナム戦争に従軍経験のある(ただし1年のみ)60代の男性である。この作品は大ベストセラーというわけではないが、戦争の悲惨さよりも人間の本性について描き、最終的にはポジティブな面を肯定するという目新しさもあって、スマッシュヒットとなったのである。


*最近学んだことだが、伝統的なベトナム・コーヒーはロブスタ種を使うだけでなく、チコリを混ぜるべきだという。なぜ代用品であるチコリ(チコリの根をローストしたもの)のコーヒーが生まれたかといえば、ナポレオンの時代にまで遡る。
 1806年、ナポレオンは大英帝国を経済封鎖するために、英国領から仏領への輸入を禁止した。しかしこの経済政策は自国民の首を絞めることになった。コーヒーが入手しづらくなったのである。そのため仕方なく庶民は カフェ・ア・チコリを飲むようになった。
 しかしチコリ・コーヒーはそれなりにおいしいだけでなく、カフェインを抑えめにして、食欲増進や肝臓の強壮の効果があった。かつ黄疸や肝臓肥大、痛風、リューマチに効くという。ベトナム・コーヒーにチコリが加えられたのは、それが安いからというより、フランス人の嗜好だったのである。