ヒンドゥー教のターラー デーヴィッド・キンズリー 宮本神酒男編訳 

 マハーヴィディヤー(大いなる知識。女神のこと)のリストのなかで、ターラーはつねにカーリーのつぎに挙げられる。このことはこのグループにおけるターラーの重要性を示している。実際彼女の外見はマハーヴィディヤーのいかなる女神よりもカーリーに似ている。以下に見ていくように、彼女の意義を解釈していけばいくほど、ますますカーリーに似てくるのだ。

 チベット仏教においてターラーは中心的な位置を占めている。チベットの「国家の神」という役割を持っているとさえいえる。仏教においてターラーはつねに、慈悲深く、やさしく、恩恵をもたらす若々しい女なのだ。帰依者は彼女に甘えることができ、危険な目に遭わないように導いてもらえる。一方ヒンドゥー教において、とくにマハーヴィディヤーの女神として、ターラーはつねに荒々しく、ときには見るだけで恐ろしく、潜在的には危険でさえある。ターラーは仏教においても荒ぶる側面を持つことがあり、逆にヒンドゥー教においてやさしい面を見せることがあるが、一般的には前者においてやさしく、後者において荒々しいのである。歴史を見ると、ヒンドゥー教マハーヴィディヤーのターラーは、仏教のボーディサットヴァ(菩薩)ターラーから発展したものであり、ヒンドゥー教がその荒々しい面を好んだ結果と考えられている。

 

仏教におけるターラーの位置 

 ターラーははじめ仏教において重要になり、のちにヒンドゥー教においても知られるようになったように思われる。ターラーのもっとも早い記述は7世紀成立と推定されるスバンドゥ作の物語「ヴァーサヴァダッター」であり、そこでは仏教と関連づけされて記されている。その地口のなかでターラーは述べられている。

「仏教の尼僧がターラーに身をささげ、赤い衣を着るように、薄明婦人は星々に身をささげ、赤い空の衣を着ている」

 タントラ仏教の神話学と図像学において、ターラーはディヤーニ・ブッダ・アモーガシッディ(不空成就仏)の一族に属する。同時にディヤーニ・ブッダ・アミターバ(無量光仏)の一族であるボーディサットヴァ(菩薩)のアヴァローキテーシュヴァラ(観音)とも関係が深い。ターラーの起源についてのある考察では、アヴァローキテーシュヴァラがニルヴァーナ(転生からの最終的解放と自由)に達しようというとき、世界中のあらゆる生きものが嘆き始めた。それは彼がこの世界を去ることを意味していたからである。そのことを知ったアヴァローキテーシュヴァラは、すべての生きものの苦悩のために、慈悲の涙を流した。その涙が、慈悲の精髄中の精髄として理解されるターラーとなった。

あとで見ていくように、チベット仏教におけるターラーの本質的な役割は、帰依者を危難から救う慈悲深い救世主となることだった。それゆえアミターバ一族の一員として数えられるのは当然だった。アミターバもアヴァローキテーシュヴァラと同様、偉大なる慈悲を持つ者として知られていたからだ。   

 チベット仏教では、ほかにもターラーの起源に関する伝説や神話が知られている。ある伝説によれば、ターラーはチベットの最初の国王ソンツェン・ガムポ(617650)の妻である。国王自身がアヴァローキテーシュヴァラの生まれ変わりであり、中国人王妃は緑のターラー、ネパール王妃は白のターラーの生まれ変わりだった。(仏教のターラーにはいくつかの異なる姿があった)

 もうひとつの古代の、あるいは仏教以前の伝説によれば、チベット人は猿と岩魔女の結合から生まれたのだという。しかし14世紀までに仏教がチベットで支配的になると、猿はアヴァローキテーシュヴァラと同一視され、岩魔女はターラーの生まれ変わりであると認識されるようになった。チベットの伝説の興味深い側面は、ターラーとチベット人および王室の系譜の起源を関連づけたことである。チベット人にとって女神ターラーは特別な存在であり、いつもやさしく見守ってくれていると確信していた。ターラーはチベット人にとって女王であり、母でもあった。

 歴史を見ると、ターラーはどうやら8世紀までにはチベット仏教にも知られていたようだ。それはちょうど仏教がインドからチベットにもたらされた時期にあたった。しかし11世紀、アティーシャがチベットに来たとき、ターラー崇拝がチベットに広がっているようには見えなかった。アティーシャは一般的に、ターラー崇拝をチベットにもたらした張本人と目されている。アティーシャの伝記によれば、彼はターラーやターラーの儀礼のヴィジョンをたくさん見たという。彼はターラーに関するたくさんのサンスクリット語経典をチベット語に翻訳した。翻訳経典はまたたく間に流通し、「偽りの死」として知られるようになった。チベットで一般的になったもうひとつの経典は、11世紀に霊的な導師ダルマドラによってもたらされた「21のターラーへの賛歌」だった。この讃歌は今日にいたるまでチベット人のあいだではたいへんポピュラーである。

 ターラーにはさまざまな姿と役割があるが、チベットの社会でよく知られているのは、そのとてつもないパワーと魅力である。彼女は何よりも救世主だった。どんなみじめな状況にあっても、帰依者が求めれば、劇的な登場の仕方で現れた。森の中で道を失っても、海上で嵐に遭って船が沈没するときでも、処刑される寸前でも、罠にかかり監獄につながれたときでも、帰依者はターラーによって救出された。

多くの民間伝説で、帰依者が死の口に飲み込まれそうになったとき、ターラーは願いを聞くと、救出にやってきた。苦悩する生きものへのターラーの慈悲によって、死をだます者としての彼女の役割があきらかになる。この点において帰依者にもたらされるのは長寿である。ターラーを主役とするほかの物語においても、ターラー崇拝からもたらされるのは、やはり長寿である。

チベットの僧院の伝統によると、ターラーに捧げる儀礼の段に入ったとき、新入りの僧は「人生の加入儀式」を行う。豊穣の体現として人生と関連づけられる女神と違って、人生を守り、保護し、助けるものとして、ターラーはあがめられる。彼女は豊穣の神ではない(ときには恩恵をもたらすこともある)が、帰依者の苦悩を放っておけない大いなる慈悲の持ち主である。

 仏教におけるターラーの第一の魅力は死のだます者、寿命を延ばす者、チャーミングでいきいきとした、若い娘であることだが、彼女はそれだけでなく、さまざまな姿を持っていた。そのなかには荒々しく、おそろしいものもあった。「21のターラーの讃歌」はとてもポピュラーだが、そのなかのいくつかの歌には荒々しく恐ろしい姿のターラーがよまれている。

 

マーラ(魔物)を撃退する淑女に敬礼! 

トゥレ、恐ろしい淑女よ 

蓮の顔の眉をひそめるだけで 

すべての敵をなぎ倒す淑女よ 

 

手で大地を破壊し 

足で大地を踏みならす淑女に敬礼! 

眉をひそめるだけで「フーム」の音を作り出し 

七つの地下世界を閉じ込める淑女よ 

 

トゥレの足で破壊する淑女に敬礼! 

その種子は「フーム」の種字の形をしている 

須弥山(メール山)、マンダーラ山、カイラーシャ山、 

そして三世のすべてを揺るがす淑女よ 

 

 ターラーのとくに恐ろしい姿は、ターラー・クルクッラーである。彼女はつぎのように描かれる。

 

(ターラーに)敬礼! (ターラーを)ほめたたえよ! 

踊りの姿勢のまま立ち 

怒りに駆られて傲慢であり 

5つの頭蓋骨を串刺した王冠をかぶり 

虎の皮を着た者よ 

赤い色の者に敬意を表します 

牙をむき、その体は恐ろしげである 

5つの獰猛なしるしで飾り 

その首飾りは50の人頭を貫いている 

マーラを征服した者よ 

 

 ターラー・クルクッラーの特別なパワーは、悪い霊や個人的な敵を征服し、破壊する能力の中にこそあった。クルクッラーが召喚される儀礼を通じて、修行者本人のなかに彼女は住むようになった。(テキストは男の熟達者を仮定している)

 儀礼をおこなうには、強くて熟達した修行者が要求される。というのもクルクッラーは潜在的な力だからである。熟達者は赤い衣を着て、自分自身を女神としてビジュアライズする。それからターラーのマントラを1万回唱える。そしてターラーに捧げものをしながら、儀礼の対象である人物や悪魔を征服するよう頼む。

 

 これら儀礼の予備段階が終了し、女神の姿と自我が明瞭に現れたとき、観想(ヴィジュアライゼーション)の準備は整ったことになる。実践者の心のフリー(HRIH)から光が輝きだし、人を従順にさせ、ヤム(YAM)から起こった風のマンダラの上に髪を結わないで、裸の状態で置く。すなわち、風の種子は気の元素を示す丸いシンボリックな形になる。この風が人を従順にさせる。彼の首には、実践者の――クルクッラーの――蓮の花から輝き出た投げ輪がからまり、鉄の鉤(かぎ)が彼の心臓をひっかける。そしてマントラの強さによって呼び出され、修行者の足の前で助けもなく横たわる。征服されるのが男であるならクルクッラーの鉄の鉤は彼の心臓にひっかかるが、女ならそれは彼女の女性器にひっかかる。

 

 荒々しい姿の仏教のターラーには青いメス狼と呼ばれるマハーマーヤー・ヴィジャヤヴァーヒニー・ターラーとマハーチナ・ターラーも含まれる。マハーチナ・ターラー(ウグラ・ターラーとしても知られる)は仏教とヒンドゥー教の両方の経典に描かれる。つぎに挙げるのは仏教経典の「サーダナマーラー」の一節である。

 

 信仰する者は彼自身をプラティヤーリーダのふるまい(左足を前に投げ出した攻撃的な姿勢)をする者(すなわちマハーチナ・ターラー)とみなし、首に人頭の首飾りをかけて恐ろしげな雰囲気を出している。彼女は背が低く、おなかが出ていて、おぞましい見た目である。彼女の肌の色は青い蓮のようで、顔はひとつ、目は三つ、神々しいが、笑い顔は恐ろしい。彼女は楽しげではあるが死体の上に立ち、蛇の装飾で身を飾っている。赤くて丸い目を持ち、腰には虎の皮を巻いている。彼女は若い盛りで、5つの吉祥のしるしを持ち、舌を突き出している。彼女の顔は恐ろしく、牙をむきだして荒々しい。剣を携え、2本の右手にカルトリを、2本の左手にウトパラとカパーラ(頭蓋骨)を持っている。彼女のジャタームクタ(巻いた髪)は茶色で炎のようで、そのなかにアクショービヤの仏像を蔵している。