猫の歴史 

リンダ・バータッシュ=ドーリー 宮本神酒男訳 

 

猫のミニ・ヒストリー 

 家の中の網目模様の陽だまりのなかで心地よさそうに眠っている猫。なんと優雅な生活を送っていることだろう。けれどもこの美しい生き物――たんなる動物ではなく、私たちの仲間であり、友人でもある――にとって、いつも物事は理想的であるわけではなかった。

 歴史上の猫は複雑な存在だった。ときには魔術や迷信、不運と結びつけられることもあった。「行く手に黒猫を横切らせてはいけない」ということわざは、猫のイメージを悪くした迷信のひとつである。しかしながら、猫の歴史を見ると、ポジティブな面もたしかにある。

 イタリアの伝説によれば、ベツレヘムの馬小屋にイエスが誕生したとき、そこで猫の子どもたちも生まれたという。そしてその子孫は、毛並みのいい背中に十字をもつと信じられている。

 ニヴェルの聖ゲルトルードはしばしば猫とともに描かれる。彼女は猫、庭師、旅行者、やもめの守護聖人である。じっさい、聖ゲルトルードは猫とともに描かれる唯一の聖人ではない。聖アガタはフランス南西部では聖ガトー(聖猫)として知られている。猫はまた伝統的に哲学者の友人だった。聖ヒエロニムスはそのひとりで、ライオンのかわりに猫といっしょに描かれる。

 最初に猫を飼いならしたのは古代エジプト人といわれる。それ以来猫はどこでも捕らえられるとペットとされるようになった。エジプトの猫は家からネズミを追い払ったので、生きたまま聖なるものとして崇められ、死ぬとミイラの棺のなかに納められた。猫の価値は相当に高かったので、家族は喪に服し、家長は悲しみのしるしとして眉毛を剃った。もし家が火事になったら、第一に救出されるのは猫だった。

 他の国々もエジプト人の猫崇拝について知っていた。紀元前525年、エジプトとペルシアのあいだに戦争が勃発したとき、ペルシアの司令官は猫を前線に配置した。エジプト軍は猫を傷つけるのを恐れ、攻撃を控えたため、戦争に負けてしまった。エジプト人は猫の輸出を禁止していたが、フェニキアの商人たちが密輸したため、猫はギリシアに到達した。

 猫が家庭に入ったつぎの国はローマ帝国だった。ローマ軍の兵士は猫を携えてガリアを縦断し、最終的には、海を越えて英国に至った。そこでは猫は害虫駆除のために活用された。

 イスラム社会では、猫は特別な存在となった。ムハンマドはムエザという猫を飼っていた。あるときムハンマドが服を着ようとしたとき、ムエザが風の袖の上で寝ていた。ムエザの眠りを妨げないよう、ムハンマドは袖を切り落としたという。

 インドでは、仏教の僧侶は寺院の「番人」として猫を用いた。他の国々もこれにならったという。

 東南アジアに出自をもつバーマンという猫は、ビルマ(ミャンマー)では、寺院猫として奉仕した。猫は聖なるものと考えられた。仏教僧が没したとき、その魂は猫の体に入ると信じている者もいるという。

 中世の頃、猫は中国から日本にもたらされた。蚕(かいこ)の繭(まゆ)をネズミの害から守るのが猫の役目だった。日本では猫は養蚕と関係が深かった。農家はしばしばネズミの被害を受けていた。

 しかしながら西暦1000年頃になると、猫をペットとして飼うのが流行になった。猫は農家を離れ、より優雅な生活を享受するようになった。天皇は養蚕業が何度もネズミの被害を受けていることを憂い、家猫を農家に戻すよう命じた。

 4世紀から5世紀頃、猫はアイルランドにもたらされ、そこでの人気が高まっていった。猫は主婦にとっての重要な品目のリストに含まれた。

 猫は(ネズミやモグラなどの)害獣ハンターとして知られ、重宝された。カトリックの僧院は当時農地を拡大していたので、猫は農園を守るために必要だった。修道士の部屋で連れとして生涯を過ごす猫も少数ながらいた。修道女や修道士に許された唯一のペットだったのである。

 修道院での生活は、かつてのエジプトのように、猫が崇拝されていたことを意味するものではなかった。猫の皮は修道服に使われた。当時修道服は毛皮によって裏打ちされていたのである。

 カトリック教会と猫の関係はいい時もあれば悪い時もあった。キプロスには猫の聖ニコラスの聖なる僧院として知られる場所がある。この僧院は西暦325年、十字架の聖ヘレナによって建立された。ヘレナ自身が島の蛇の害を防ぐためにエジプトやパレスチナから千匹の猫を船で送ったという。猫たちは休まずに、有毒の住人の人口を減らすために、この爬虫類と戦かった。結果として多くの猫が傷つき、盲目になり、体の一部を失うことになった。修道士やほかのキプロスの住人はこの害獣ハンターを敬い、たっぷりと食べ物を与え、世話をするようになった。僧院はいま修道女たちでいっぱいで、70匹の猫の世話をしている。

 猫に関する迷信が普及するようになると、教会の猫嫌いもまた増大していった。15世紀、教皇イノセント8世は、魔女が火刑に処せられるとき、猫も火あぶりにするべきだと命じた。しかしこのときでさえ猫を助けるカトリック信者もいた。15世紀のイタリアの画家ピントゥリッキオは「聖マリアの訪問」に白猫を描いている。レオナルド・ダ・ヴィンチは「子供時代のキリスト」が猫を抱いている姿を描いている。

 時代はふたたび変化し、猫は大衆の支持を得るようになった。英国人は16世紀の終わりまでには猫に高い価値を与えるようになった。ウィンチェスターで最初のキャットショーが開かれたのは1598年のことだった。

 アメリカ人は多くのヨーロッパ人よりも猫を高評価した。猫もまたメイフラワー号に乗ってアメリカにやってきた。猫たちは人間の食糧を守ったことによって定着民の愛情を得るにいたった。

 1700年代のはじめ、中央アジアからやってきたドブネズミによって疫病が広まった。1730年までにドブネズミは船に乗って疫病をドイツやフランス、英国にも運んだ。この危機的な状況に及んで、猫は手助けをする存在どころか、救世主として歓迎されたのである。

 猫は迷信によって迫害される時代も経験しているが、多くの人々にとっては親しい友人だった。教皇レオ12世(18101903)はとくに一匹の猫を愛していた。聴衆に向かって説教するとき、膝の上に坐っていたのは愛猫ミチェットだった。

 フランスの農家の間には、18世紀版の「猫の翼」の伝説があった。猫は好きなところにそれで行き来できた。この発明を考案したのは英国の科学者アイザック・ニュートン卿だと信じられていた。

 ビクトリア女王はペット愛好家として知られていた。領地から領地へと旅するあいだ、いつも猫がいっしょだった。猫の種類はペルシア、マンクス、アンゴラにマルチーズ猫などだった。お気に入りの猫の首輪には、「私は女王に所属します」と銀色の文字が書かれていた。

 つぎのメジャーなキャットショーがスポットライトを浴びたのは、最初のキャットショーが開かれてから三百年近くあとのことだった。1871年、ロンドンのクリスタルパレスで開催されたキャットショーではブリード(品種)の基準が示された。猫はブリードとノベルティ(新奇さ)のカテゴリーによって25のクラス(等級)に分類され、170匹以上がエントリーされた。このショーが敷石となり、猫の団体とブリードの登録の体系化が確立されていった。全米猫協会(アメリカン・キャット・アソシエーション)との提携が切れたあと、1906年に誕生したのがCFA、すなわち猫愛好家協会(キャット・ファンシアーズ・アソシエーション)だった。それはすぐに広く認知され、人気を博した。現在CFAのライセンスは400以上のショーに与えられ、登録されている猫は2百万以上だという。

 兵士が戦場に行くとき、猫を連れていくことがあった。第一次大戦中、英国軍は猫を雇った。かれらの仕事は前線の塹壕でのガス探知だった。人間よりも前に知らないにおいをかぎ分けるのが役割だった。警報システムのかわりをなしたのである。またかれらの副職はネズミ狩りだった。においで感知する前に、猫は危険を察知することができたように思われた。これがどうやってなされたか、わからなかった。戦争中、差し迫る空爆の前にそれを感じとる不思議な能力を猫たちはもっていた。猫の毛は総毛立ち、かれらは走り、フーっと音をたて、ニャーオと鳴きながら近くの防空壕に逃げ込んだ。

 この才能によってかれらは戦争中人気者になった。第二次大戦中もその能力が認められ、特別賞がかれらに授与された。そのメダルには「われわれも母国のために尽くした」という一文が刻まれた。このひどい戦争中、猫たちはこうして多数の英国の人々の命を救ったのである。

 第二次世界大戦直後までほとんどの猫は家庭にいることがなく、外をぶらついていたと言われる。裏庭を利用してかれらは生活していたのである。これは家庭のごみ箱が普及していなかったせいでもあり、不妊手術、去勢手術がされていない猫たちの起こす問題のせいでもあった。

 猫にたいする人々の興味は増していき、猫のための衛生トイレがつくられるようになった。1885年から1950年代半ばにかけて出版された猫の世話の本は古新聞の紙屑やおがくず、暖炉の灰などを猫のトイレに使うようすすめた。

 現在の猫のトイレの前身となったのは、ニワトリのトイレとして売られた粒状の土だった。エドワード・ロウはすぐに猫のトイレとして粒状の土を売り始めた。試験的に5ポンドの袋を69セントとした。1964年、ロウはタイディ・キャッツというブランドをつくり、雑貨店で販売した。彼はのちに猫トイレの経営をネッスル・プリナ・ペットケア社に2億ドルで売却した。

 猫トイレの発展とともに不妊手術、去勢手術が一般化し、猫トラブルの改善につながり、より多くの猫たちがペットとして家庭に入るようになった。

 長年にわたって猫はたんなるペット以上の存在であることを証明してきた。猫は切迫する危機をいち早く察知し、他者に警告するという傑出した一面をもっていた。昔の新聞は猫の英雄物語をしばしば掲載した。

 ニュージャージーのバーリントンにタバコ栽培者の男がいた。彼の猫は主人に忠誠をつくしたことで知られた。1893年9月、彼の猫は寝室のドアに向かって爪をスクラッチし、またニャーニャー鳴き始めた。男は眠りにつこうとしたが、猫はおなじことをつづけた。ようやく男はドアをあけ、寝室の外を見ると、家が炎に包まれていることを知った。猫でさえ体を焦がしていたのだ。猫は主人の服を歯にはさみ、彼を危険から逃れさせようとした。炎は差し迫っていたが、猫のおかげでタバコ栽培者は妻と子供を火事から救うことができた。猫は家族全員の無事をたしかめるまで逃げることはなかった。

 1972年1月、ネブラスカ州リンカーンの二階建ての家の台所から出火した。オットー家の人々はみな寝ていたが、飼い猫だけは起きていた。猫が知らせてくれたおかげで、三人家族全員がけがを負うこともなく逃げることができた。しかしこの英雄猫は逃げることができなかった。もう一匹の猫と4羽の小鳥も火事に巻き込まれてしまった。消防局長メル・ケラーはレポーターにつぎのように語っている。

「もしアーノルド・オットー夫人が猫の声を聞かなかったら、全員が死んでいたかもしれません」

 何百年にもわたって猫はさまざまな場所、たとえば寺院から塹壕まで、生糸農家から船舶まで居住してきた。また世界中の図書館の受付や棚に居場所を見つけてきた。

 猫と図書館との関係を好意的にとらえた記述は、中世にまでさかのぼる。修道士たちは重要な経典類を齧歯(げっし)動物から守るため、猫を寺院に持ち込んだのである。

 1919年、裁判官ウィンフィールド・フリーマンは、カンザス州トピカの新聞上で数匹の猫を募集した。あきらかにネズミが州立図書館の法律書を食い漁っていたのである。1919年11月22日付のトピカ・デイリー・キャピタル紙には、つぎのような記事がある。「この緊急事態にあたり図書館に猫一匹では任に堪えられないことがわかった。フリーマン裁判官は数匹のよき『ネズミ捕り』の贈り物にとても感謝することだろう。とくに贈られた最初の3匹にたいして現金の謝礼を考えているかもしれない。そう約束したわけではないけれども」

 『デューイ』がベストセラーになったことで、デューイ・リードモア・ブックス(デューイのフルネーム)は図書館猫(ライブラリー・キャット)という言葉を定着させることになった。じっさい、デューイよりも何年も前からほおかの図書館猫もニュースになっていたのだが。

 今現在、世界中で300匹以上の図書館猫が生活しているといわれる。そのうちの200匹以上はアメリカ在住である。

 典型的な家猫は雑種だが、猫の品種の多くは品種基準にあわせて改良され、承認された。国際猫協会(インターナショナル・キャット・アソシエーション)が63の猫の品種を認定しているのにたいし、オハイオ州の猫愛好家協会(キャット・ファンシアーズ・アソシエーション)は41しか認定していない。

 2009年2010年のAPPAの調査によると、アメリカ人が所有する猫は9千360万匹にも及ぶという。所有する犬7千750万匹を上回っているのだ。

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⇒ 猫名録