ヘルムート・ホフマン チベットの宗教   宮本神酒男編訳 

第5章 組織化されたボン教 

 

 9世紀半ばに終了する君主制国家の宗教史を眺めると、もともと北アジアや中央アジアのシャーマニズムとアニミズムのチベット版であったボン教は、西チベット、とくにシャンシュンにおいて、仏教やおそらくペルシアの、またマニ教の影響のもと、発展した教義や聖なる経典と結びつき、融合して、新しい体系へと進化している。

 チベットの貴族たちが、政治的闘争のなかで、反王朝や反仏教を掲げたとき、彼らを鼓舞したのがこのボン教だった。彼らはシャンシュンから祭司を招き入れ、テキストをチベット語に翻訳させ、できうるかぎりボン教を国の正式宗教として認めさせようとした。その試みは失敗に終わり、ランダルマ王のもとの反仏教の動きは遅きに失し、チベットの宗教文化の崩壊を招いただけだった。

 古い、原始的なボン教と習慣は庶民の間には残ったが、新しく組織化されたボン教は仏教以上に少なからず損害を受けたので、再興する必要があった。ボン教の後期の歴史はなお不明な点が多い。というのもボンポの歴史的文献が十分に公開されていないからでもある。一方で仏教の年代記作成者は――彼らの資料をわれわれは使用することもできるわけだが――ボン教に関することについては手助けしてくれない。チソンデツェン王の時代に失墜したあと、憎き異端の運命などに仏教徒は興味を持たなかったのである。

 われわれはそれでもベストを尽くして、散逸した資料をかき集め、後期ボン教の特質を研究していきたい。ただ心しておくべきは、この形態の宗教はいまこの国の精神生活の周縁にしか存在せず、発展の主流においては、(君主国家の時代のようには)もはやいかなる重要な影響力を持たないことである。つまりチベット文化史の消失してしまいそうな流れといえる。過去においては興味深い文化の一面を担っていたが、この国で重要な役割を演じることはもはやないだろう。

 仏教の場合がそうであるように、ボン教にも最初に宗教的福音を唱道した中心人物がいた。それが伝説的開祖、シェンラブ(gShen-rab)、あるいはシェンラブ・ミウォ(gShen-rab mi-bo)、すなわち「シェンラブという人」である。しかし、ブッダが歴史上の人物であったのに対し、われわれに残された資料を見る限り、ボン教の開祖は純粋に神話的人物だった。開祖の生涯の物語と称するものは、大乗仏教経典に含まれるブッダの伝説のパターンに、他の経典や他の宗教から興味深い物語や歴史的挿話を加えてこしらえられた物語であることは明白だった。シェンラブという名そのものが文字通りの人名ではなく、ボンポがつねに意識に留める「シャーマン(シェン祭司)のなかでもっともすぐれた者」を意味する説明的名称だった。

 この神話的人物の背後に、実在したシャンシュンの輝かしい祭司がいたのかどうかはわからない。パドマサンバヴァがパドマ主義(グル・リンポチェ信仰)を創ったように、彼はシンクレティズム的な宗教体系を確立したのかもしれない。あるいは無数の祭司のかわりに、理想化され、凝縮された姿を代表する伝説的な存在なのかもしれない。

 彼の伝記を含むテキストが残存しているのは、幸運なことである。そのテキストの題である『セルミク(
gZer-myig)』は、ボンポの言葉で「記憶の鍵」を意味している。そのおよそ4分の1、1章から7章まではA・H・フランケによって英訳された。

 ここではブッダの「ラリタヴィスタラ(
Lalitavistara)」(普曜経)に類似したシェンラブの生涯の「十二の事績」、あるいは、生涯における主なできごとについて吟味することにしよう。


(つづく)