虚ろの地球  D・スタンディッシュ 宮本神酒男訳 

2 シムズの穴 

 

 地球空洞説に関するつぎの重要なできごとは、1818年4月10日、米国のフロンティア最前線にある町と言える町、セントルイスでひっそりと始まった。1764年に建設されたかつてのフランスの交易所があった地域は、ぬかるみだらけの発展から取り残された土地にすぎなかったが、西部へ向かう出発点として、人でごった返すようになっていた。ルイスとクラーク探検隊は1804年、すなわちナポレオンから当時の国土の二倍の面積214万平方キロメートルを1エーカーあたり3セントという破格の価格で買った「ルイジアナ買収」の翌年、ここから出発している。1805年、セントルイスはルイジアナ準州の政府所在地となり、1812年、ミズーリ準州の首都になっている。1810年から1820年にかけての十年間に人口は三倍にも増えている。米英戦争が1814年12月に終結したとき(遅れて勃発したニューオーリンズの戦いは含まないとして)人がそこに殺到するようになっていた。彼らはバブルに沸く都市に機会を求めているか、さらに西のフロンティアを目指す前にここで一休みするか、(ばか高い)鍋やフライパンを買っておきたかったのである。1817年、新造の蒸気船が就航すると、セントルイスは西部における交通の要としての輝く地位を確立した。しかし鉄道の時代の1840年代、1850年代がやってくると、それまでちっぽけな町にすぎなかったシカゴに主役の座を奪われてしまう。米英戦争直後の何年かは、セントルイスはすさまじい勢いのある町だった。

 米英戦争直後にセントルイスの港に上陸した人々のうちのひとりがジョン・クリーヴス・シムズ船長だった。

 1818年4月10日、彼は自身の文章を印刷したチラシを配りはじめた。そこに書かれているのは大胆な使命だった。

 

<回覧> 

光は発見するために光を与える――アド・インフィニタム(無限に) 

1818年4月10日 

北アメリカ、ミズーリ準州、セントルイス 

 

世界のみなさまへ 

私は地球が中空で、そこに居住することが可能であることを宣言します。地球内部にはいくつもの入れ子状になった同心球体があります。また両極には12度から16度の穴があいています。私は命を懸けてこの真実を守ることを誓います。中空を探索する準備は整っています。あとはこの使命を果たせるよう皆様方の支援と協力をお願いします。

オハイオ州の元歩兵隊長 

JNO(ジョン)・クリーヴス・シムズ 

 

[注記]私は事物の原理についての論文の出帆を準備してきました。そのなかでさまざまな現象に関する以上の見解の証明をしてみせます。またダーウィン博士の「黄金の秘密」を明かします。

 

 私の言葉は「これと新世界」の庇護のもとにあります。

 わが妻と十人の子供たちに捧げます。

 わが庇護者としてSL・ミッチル博士、H・デイヴィー卿、アレグザンダー・フォン・フンボルト男爵を選定します。

 

 この秋、入念に装備を整えて、トナカイが牽く橇(そり)に乗り、シベリアを出発し、凍った海面を走る百人の勇敢な仲間を求めています。北緯82度より1度北の地点に達すれば、人間がいないとしても、繁茂する植物や動物に恵まれた、温かくて豊かな土地が見つかるのは間違いありません。そしてつぎの春までには戻って来られるでしょう。

                    JCS 

 

 これは腐った魚を食べたあと、あるいは居酒屋で少し酔っぱらったあと悪夢にうなされているときに思いついた奇妙なアイデアではない。彼はこれについて何度も考えてきたのだ。なぜこの結論にたったのか、そしてどうやってかくも情熱的に、忍耐強くそのことを信じるようになったかは謎である。しかし1829年に彼が48歳で他界するまで、彼は地球空洞説にとりつかれていたのだ。それは彼の唯一の夢であり、彼にとっての悲劇でもあった。

 1780年、ニュージャージー州サセックス郡に生まれたシムズは、輝かしい実績を残した叔父にちなんで名がつけられた。叔父の大物ぶりを引き継ぐだろうと考えられたのである。叔父のシムズは独立戦争の退役軍人であり、ニュージャージー州の裁判長でもあった。彼は1787年、大マイアミ川と小マイアミ川の間、オハイオ川の北の現在のオハイオ州の南西部の33万エーカーの公有地を購入するために企業連合(注:マイアミ・カンパニー)を立ち上げている。この土地購入は「シムズ・パーチェス(購入)」として知られている。

 同名の若きシムズのスタートは順風満帆だった。父欧亜のティモシー・シムズは二度結婚し、九人の子をもうけた独立戦争の退役軍人であり、ニュージャージー州の裁判官だった。ジョン・クリーヴスは二度目の結婚から生まれた六人の子供のうちの最年長だった。彼はほぼ通常の場当たり的な初等教育しか受けなかった。後年彼は11歳のときに『クック船長の航海』の拡大版を読んだことを思い出している。彼の父親は「自身学ぶことが大好きだったはずなのに、仕事時間中に読書をしていることをたしなめ、私のことを本の虫と呼んだ」という。彼はまた「同じ頃、通りで遊び友だち相手に熱弁をふるっていた。地球がどのように自転するか、語ったのである。そして今と同様わが主張がいかに正しかろうと、賛同者はほとんどいなかった」と付け加えた。シムズはなんとあわれな子供だったのだろうか。小学生の頃、すでに幻視の見える変わり者だったのだ。

 彼は22歳になり、将校ではもっともランクの低い少尉として軍隊に入った。そして大英帝国に対して宣戦布告される何か月か前の1812年1月、大尉に任命された。彼はほとんどの期間ミシシッピ川近くの西方最前線で任務に就いた。

 シムズは1807年ナチェズより80キロ下流のフォート・アダムズにいた。このときすぐ近くでアーロン・バーの帝国建設という妄想じみた陰謀が進められていたのである。もうひとり夢想家がいたのだ。バーは武装艦艇に乗ってミシシッピ川を下った。噂では総督のジェームズ・ウィルキンソンと共謀してニューオーリンズを奪うつもりだった。しかしウィルキンソンはおじけづき、ジェファーソン大統領にバーのことを密告したのである。そしてフォート・アダムズを含む川に沿ったいくつかの要塞に軍隊を派遣し、ニューオーリンズに駐在する将校たちに攻撃に備えるよう命令を下した。バーは裏切りに気づき、ナチェズの北に上陸したが、そこで逮捕されてしまった。しかし彼は何とか言いくるめて拘束から逃れ、船頭に化けて川の東側の荒れ地に姿を消した。そしてスペイン領のペンサコラへ向かった。しかし彼のさらなる罪状が明るみに出たため、モービルの近くで再逮捕され、リッチモンドへ送られた。彼はジョン・マーシャル裁判長の前で反逆罪の罪に問われた。しかしどうにかこうにか、彼は釈放されている。

 この頃シムズは自分自身のドラマに巻き込まれている。1807年6月28日の日付、フォート・アダムズの地名が入った、兄弟のセラドン宛ての長文の手紙に彼はそれについて詳しく書いている。マーシャルという名の同僚の将校が「シムズは紳士ではない」と言い立てたとき、シムズは公衆の前で「鼻を捻じ曲げてやる」ために彼を探し出し、決闘で決着をつけるよう挑発した。決闘は運に左右された。武器はさほど手が加わったものではなく、決闘者たちの腕もあやしいものであることが多かった。実際彼らも例外ではなかった。介添人の前で二人は逆方向に十歩歩き、横目に見ながら立つ。

「準備はいいか」

「はい」

「撃て」

 

 我々は垂らした両腕を慎重に上げました。わたしは相手のお尻を狙いました。相手は(あとで知ったのですが)わたしの胸を狙いました。こうしてまずわたしは一撃を食らいました。相手はやみくもに撃ってきました。一発は下腹部を通過しました。またズボンやシャツの裾、手首の関節に近い部分を通り抜けました。相手は腿に弾丸を受けたようです。わたしは彼がもっと撃ちたいかどうか知りたいと思いました。そうではないと知らされたので、わたしは傷をハンカチで包み、相手方の様子を見ている介添人と外科医を残して家に帰り、愛情のこもった朝食を食べました。

 

 つまりマーシャルはあやうくシムズの陰部を撃ち抜くところだったのである。弾丸は彼のズボンやパンツを引き裂き、手首をぶち抜けた。当初、傷はささいなもの、ひっかき傷程度にすぎないと思われた。しかし傷はなかなか治らず、痛みと熱と足の腫れはひどくなるばかりだった。しかも下痢が六週間から七週間つづいた。1882年に刊行された『バトラー郡の歴史』中の伝記にこの長文の手紙を載せ、「シムズ船長の手首はけっして回復することがなかった。それはいつもこわばり、少しねじれていた」と述べている。マーシャルもまたケガの影響に悩まされた。傷によって彼は障碍者となり、生涯にわたって後遺症に悩まされることになった。伝記作者はさらに付け加える。「その後彼はシムズ船長と親しくしてもらうことになりました。船長はいつも決闘について後悔の念を持って語ったものです」。

 

(つづく)