心風景 inner landscape 6    宮本神酒男



 寒いという言葉ではとうてい言い表せないほど寒かったので、私は寒風干しになった脳みそをほぐして言葉を探したが、見つからなかった。冬12月、スピティ(インド北西の実質西チベット)のピン谷のサグナムという村に滞在していた。海抜は3650m、チベットのラサとほぼおなじで、天気予報によれば最低気温は零下20度以下にまで落ちる。前夜から大雪が降り、日中もこのように吹雪がやまなかった。じっとしていると足が凍りついてしまいそうで、私はうかれた犬みたいにあたりを走り回っていた。すると上の方から母と娘がロバを連れて下ってきた。不思議なもので、みな「寒くてたまらない」という共通認識をもっているせいか、心が触れあっているような気がして、なんだか胸の底が暖かくなってくるのだ。ロバさえもが人の温かみを感じ取っているのがよくわかった。

 なぜ冬のヒマラヤの奥地に来ているかといえば、ブチェン(一般にはラマ・マニパと呼ばれるが、本人たちはそう呼ばれることを好まない)の冬の活動を見るためだった。ブチェンはチベット仏教ニンマ派に属するンガクパ(在家僧)だが、各地を巡りながら石割儀礼、コメディ(喜劇)、刀の舞いと腹に刺すパフォーマンスなどを見せるいわば巡業芸能僧集団である。できれば彼らとともに村々をめぐり、パフォーマンスを見たいと考えたのだ。それについては別の項で詳しく述べたい。

 じつは冬のスピティに来るのに、すこし余計な苦労をしていた。スピティに入るには、どこかで許可証を取って、西のほうからクンズム峠(海抜4500m)を越えてくるか、東南のほうからレコンピオ(キナウル地方の中心の町)を通って来るしかなかった。クンズム峠のルートはすでに閉ざされていたので、東南からのルートしかなかった。ところがレコンピオで許可証を申請したところ、拒絶されてしまった。おなじ日に申請したフランス人には出したというのに! 私は不満たらたらだったが仕方なく、12時間のバスに乗ってHP州都のシムラに戻り、そこで許可証をゲットし、また12時間かけてレコンピオに戻った。レコンピオからスピティまでバスで二日かかるので、数日間はずっとバスに揺られていたことになる。しかもこのあたりの道は細く、崖っぷちを走り、氷結しているカーブは本当に生きた心地がしなかった。

 カザ(スピティの中心の町)のホテルはほとんど営業していなかった。そこで私はあるホテルを経営している家族(主人の出身地はチベット・カム地方のナンチェン)のもとにホームステイすることになったのである。スピティのあと私はラダックに移動するが、そこでも営業しているホテルがほとんどなかったので、レーから数キロ離れた村の民家にホームステイすることになる。正直なところ、不便なことだらけだが、現地の家族とすごすと、地元の習慣がよくわかり、家庭料理も味わえるので、いくつもの意味において楽しく、同時に意義深いことである。

 厳冬のピン谷で熱演するブチェン 

 この写真に話を戻そう。私はこのサグナムにチャーターした車で来たのだが、大雪のため車が出せなくなり、えんえんと雪の中を歩いて本拠地のカザに戻ることになった。その途中、大きなスピティ川(ほとんど氷結していた)を渡るのに、ロープを使わねばならなかった。鋼鉄のロープに吊り下げられたカゴに乗って渡るのである。ところが私の要領が悪かったのか、川の中央真上でカゴが動かなくなってしまった。カゴは犬が乗るのにちょうどいい大きさで、私は窮屈な姿勢で長い間我慢しなければならなかった。そのとき遠くにインド人(平地から来たインド人)の二人連れの姿が見えたので、私は大きな声で「ヘルプ・ミー!」と叫び、ロープを引っ張ってもらってなんとか対岸にたどり着くことができた。なんとも情けないエピソードである。

 雪に埋まったスピティのピン谷 

 スピティからレコンピオに戻る日、私はバスに乗ってカザのバスターミナルを出発した。30分ほど走ったところでバスが緑色の液体を漏らして、エンコしてしまった。それから別のバスが来るまで2時間ほど外で立ったまま待たなければならなかった。快晴だったが、気温は零度をはるかに下回っていた。

 ふと、耳にタコがくっついているのがわかった。「耳にタコができる」というのはあくまでたとえ話で、しかもこのタコは蛸ではなく、足のタコのタコである。もちろん蛸であるわけがない。では何だろう。私は思い切ってガバっと両手で両耳の蛸を押さえこんだ。そして判明したのは……それが私の耳であったことだった。いや、これはばかげた冗談ではない。気温があまりにも低く、私は防寒の帽子を持っていなかったので、耳が冷たくなり、おそらく血が通っていなかったのだ。耳が凍傷になりかけていたのかもしれないと、あとで思った。

 短い夏のピン谷 

 この冬の二か月を過ごしたスピティ(中心地カザの海抜は3600m)とラダック(レーの海抜3500m)の気候は厳しかったが、そのぶん宝石のように美しい群青色の天空や氷混じりの瑠璃色の川、白銀に輝くヒマラヤの山なみを見ることができたのは幸いだった。