心風景 inner landscape 8    宮本神酒男



 このダンカル寺(インド・スピティ)の風景が私にとって特別なのは、あこがれの「崖の上にそびえるチベットの天空の寺」であるだけでなく、私自身、崖を這いのぼって寺に到達したからでもある。じつは車道が通じていたのだが、車をチャーターしていたわけでもないので、私はローカル・バスに乗り、麓に近い地点で降りてそこからがむしゃらに登っていった。
 崖下は死霊と怨念と血漿がたまっているように思えてならなかった。牛の死骸があった。白骨化した牛の顔は笑っているように見えた。実際、何人もの人が、床に転がってつぶれたトマトのように、崖から落下して岩の上に砕け散ったのである。

 笑う牛に見えたが、牛の死骸だった 

 ダンカル寺は古い由緒ある寺院である。創建者、あるいは修建者はダウー(Zla 'od)という1121年生まれの僧侶なので、建設されたのは遅くても12世紀ということになる。しかし、要塞にもってこいのこのロケーションゆえか、丘の頂上にスピティ王国のゾン(要塞)が建てられた。ノノ(領主。実質国王)の居城となったのだ。
 一説にはゾン自体は7世紀から9世紀に造られたという。その後仏典翻訳の巨匠リンチェン・サンポがここに寺院(choskhor 法輪)を建てたとされる。
 17世紀から19世紀にかけて、外部勢力、とくにラダック王国から何度も侵略された。とくに17世紀(おそらく1688年)のラダックの侵攻はよく知られている。このときスピティのノノはラダックの使者たちを撃退しようとはせず、そのかわりに彼らを酒とごちそうと踊りで歓待した。おいしいチャン(大麦からできた酒)でもてなされた使者たちは、ほろ酔い加減になったところで、崖から突き落とされた。

 ダンカル寺のお坊さんはかぎりなくさわやかだった 

 その後1764年、ブシャル人がスピティに侵攻し、ダンカル寺を2年間支配下に置いた。1841年にはドグラ軍のグーラム・ハーンとラヒム・ハーンがスピティにやってきて、ダンカル寺とゾンを荒廃させた。おなじ年にはシーク軍の侵攻にも遭っている。このようにダンカル寺はつねに支配と侵略のドロドロした闘争のなかに巻き込まれてきたのである。崖下になにやら陰鬱なにおいがたちこめていたのも、もっともなことだった。