心風景 landscapes within 29    宮本神酒男 
はじめてなのに、なつかしい、ミャオの村里 

 田園の向こうに村が広がる 

 もう、そこへは行けない。空間的には行けても、時間的には行けない。90年代のはじめ、私は何度か貴州省のミャオ族の地域を旅した。ご本人は覚えていらっしゃらないだろうけど、昔、日本人の故郷を求めてアジア各地を訪ねていた森田勇造さんに「いままで行かれたなかでもっとも日本人らしさを感じたのはどこですか」と聞いたことがあった。答えは貴州省の(たしか具体的に貴州省台江県施洞村)ミャオ族だった。それで私は貴州省のミャオ族の地域を訪ねたのである。

 しかし当時は、日本人らしさ云々以前に、人々の貧しさからくるすさんだ状況に衝撃を受けてしまった。たとえば台江でバスを待っていたことがある。祭りの時期なので人が多かったせいもあるけど、汚いバスが到着すると、数十人の待っていた人々(ほとんどが背の低いミャオ族)が襲いかかるかのように車体に飛びついて、窓という窓から入ろうとしたのである。私も席を確保するために、トン族の友人とともに窓によじ登って転げるようにしてなかに入った。

 十分後、大混乱はおさまり、静けさがやってきた。驚くことに乗客の人数と座席数はほぼおなじであったようで、席が確保できなかった乗客はいなかった。あの騒ぎはなんだったのだろうかと、いまでも不思議に思う。経済発展する前夜の中国社会はこんなこんな感じだった。

 上の写真は、貴州省凱里市雷山県のミャオ族の農村ではないかと思う。苗年(ミャオ族の新年で10月頃)を見るために来ていたのだが、時間があまったので、たまたま知り合った背の高い英国人の青年といっしょに散歩に出たのである。私はある意味で感動していた。ミャオ族の人々を見ているだけで、「なつかしい」と感じたからである。なぜなつかしいと感じるのかはわからなかった。英国人の青年にその気持ちを説明しようとしたが、うまくいかなかった。

 「彼らはまるでわれわれの先祖のようだ」と言ったところで、あきれた顔をされるだけだろう。中国人にも理解されないだろう。中国人にとっての日本人は抗日戦争ドラマの「バカヤロー」とわめく日本人であり、残虐で卑怯者なのだから、ミャオ族と一致する点など(中国人から見れば)あろうはずがない。

 私はずっとこの写真のおじさんは小さな子供のおじいちゃんだと思っていた。女性はおばあちゃんだろうと。しかし改めて見ると、おじいちゃんではなくて、おとうちゃんなのかもしれない。ちょっと老けて見える父親のように思えるのだ。このときおとうちゃんはなにかつぶやいているか、ぼやいているように見える。何と言っているか、気になるところだが、永遠にその内容はわからない。たいしたことは言っていないのだろうが、たいしたことなくても、中身を知りたいものである。

 若い女性が運んでいるのは豚肉 

 当時はまったく意識していなかったが、ミャオ族は何千年にもわたって漢族と戦ってきた勇猛な民族だった。( ⇒ モン族ディアスポラ ) このあたりはたびたび中央政府に反旗を翻し、徹底的に弾圧されたミャオ族の中心地だった。こうした弾圧が繰り返されたため、難民となったミャオ族は東南アジア全体に広がって分布するのである。ラオスに定住したミャオ族(モン族)は米国CIAに協力したため、戦争に敗れると彼らは難民(ボートピープル)となり、さらに世界各地に散っていくことになった。「歴史は繰り返す」を地でいくような民族なのである。

 たくましいミャオ族の女性 

 しかしそうした過去の痕跡は、こののどかな風景のなかにまったく残っていなかった。いまネットでこのあたりに関する画像を見ると、ミャオ族の古風の村は観光地として生き延びているようである。彼らの祭りは画像で見るかぎり民族風情ショーに成り下がっていた。もう昔にはもどれないのだ。「貧乏な時代に戻れというのか」と地元民には反発されるかもしれない。たしかに外部の者の身勝手な考え方だが、やはり昔のほうがはるかによかった。いまの姿は屋外の民族ミュージアムであり、暮らしは民族ショーなのである。

 野菜を運ぶ二組の母子 


 祭りの会場へ向かう娘たちと母親たち