モンスーン季、驟雨に襲われた私は小さな丘の上にあった古いパゴダ(パヤー)の中に逃げ込んだ。パゴダといってもヤンゴンのシュエダゴン・パゴダのような黄金に輝く立派な仏塔ではなく、石とレンガを積み重ねて作ったささやかな聖所だった。トンネル状の入り口は狭く、這うようにして入ると、古墳に侵入する墓場泥棒の気分になった。靴を脱いで雑草が生えたひんやりとした土の上を踏むと、地虫がササッと壁の隙間に隠れた。
意外と広く、金ぴかのブッダがにこやかに鎮座していた。
見上げると、人の倍の大きさの金ぴかブッダが鎮座していた。観光客がたくさん来るとは思えないけれど、地元の人々が仏像を磨いたり、花を供えたりしているようだった。
自分の懐中電灯の灯が届くところを除くと、真っ暗闇だった。激しい雨の音にすべての音が消されて、空間は異様なほどの静寂に支配されていた。世界に仏さまと自分のふたりしかいないような不思議な感覚に浸った。
雨が小降りになったので、私は外に出た。
パゴダの外壁にはたくさんの壁龕があり、それぞれに仏像が収まっていた。それぞれの仏像が、造られてから月日が流れているのか、造りがいい加減なのか、損傷が激しく、あちこちがこぼたれたり、ひびが入っていたりした。まわりのレンガの間からは勢いよく雑草が生えていた。
仏像の指の先は土と一体化しようとしている。
どう考えても高価な芸術作品とはいえなかったけれど、年を経た仏像の肌を私はいとおしく感じた。その崩れた手に触ると、なぜか涙が出てきた。仏像もまた、人とは違ったありかたで生きているのだと思った。
ムラウー(ラカイン州)の町のはずれに丈の高い草に覆われた丘があり、半壊したパゴダの中に仏さまが鎮座していた。偶然なのか、木の葉が仏像を隠すように垂れていた。何か中途半端に壊れ、中途半端に修繕されているのを恥じているかのようだった。
予算がつけば、新しい仏像がやってくるかもしれない。そうなれば背後に乱雑に積まれた壊れたレンガの仲間入りをするだけかもしれないけれど。
ムラウー郊外のピズィ・パラの石仏は、上の仏像と比べると、少しは知られているかもしれない。しかしミャンマーでは珍しい様式の仏像であり、造られた年代すらはっきりせず、ミステリアスな仏さまである。
ラカイン人はゴータマ・ブッダが生きていた頃から仏教徒であったかのように言うが、ヒンドゥー教の時代もあれば、王族がベンガル文化にあこがれてイスラム名を名乗った時期もあったのだ。このブッダが異質な雰囲気を持っているのも、そういった複雑な文化的背景のなかに生まれたからだろう。
かつてここには大きなパゴダがあった。このブッダと東西南北の四体のブッダを残して、建物は完全消滅してしまった。こうしていったい何百年、雨ざらし、野ざらしになってきたのだろうか。その黒曜石の目は何を見てきたのだろうか。
⇒ つぎ