心風景 landscapes within 2 宮本神酒男
ダーウィンさま、蝶はどうやって木の葉になったのですか (蝶の神秘1)
ラオスの森にて Photo:Mikio Miyamoto
亜熱帯の森と庭園のあいだのひっそりとしたほの暗い空間に、美しくも毒々しい熱帯花があった。柵を乗り越えてそこに侵入したのは、熱帯花の危険な香りに引き寄せられたからにほかならない。セルロイドのような鈍いピンクの花の光沢があやしくて、わが心は陶酔した。
写真を撮るのに邪魔なので、花にはらりと掛かっている枯れ葉を払おうとして手を伸ばした瞬間、それが木の葉蝶(コノハチョウ。学名はKallima Inachusというらしい)であることに気がついた。その擬態ぶりにすっかりだまされていたのである。もっとも、こんな目立つ花にとまっていたのでは元も子もないような気もするけれど。
熱帯花の名前がわからないので、私は勝手に澁澤龍彦の「幻想博物誌」に出てきそうな、たとえばデラネシアとかセラフィノーレといった幻想的な名を想像していた。
帰国後ネットで調べてみると、それはトーチジンジャーというショウガ科の花であることがわかった。あまりひねりのない名前(たいまつのようなショウガ科の植物)なのですこしがっかりしてしまった。ガーデニングが趣味の若奥様にはしゃれた名前に感じられるかもしれないが。
森を散歩してもどってくると、おなじ蝶がトーチジンジャーの花蕊の上に舞いもどっていた。そっと近づいて見ると、蝶はオレンジ色の管を伸ばして一心不乱に蜜を吸っていた。毒々しい見かけとちがってその蜜は極上の甘みを有しているのだろう。
オレンジ色の管を出して蜜を吸い始めた Photo:Mikio Miyamoto 擬態というのはいったい何なのだろう。調べてみると、擬態には隠蔽擬態、攻撃擬態の二種類があるという。木の葉蝶はあきらかに前者、つまり捕食者から身を守るために擬態をしている。
しかし衣装を着てメイクを凝らしてアニメの登場人物になりきるコスプレとはわけが違い、その存在そのものを細部にまで似せてしまうとは、いったいどういうことなのだろうか。考えてみてほしい。映画「ザ・フライ」のように人間が何か(映画の場合ハエ)に変身するなんてことはありえない。ありえないというより、手間がかかりすぎる。人間はずっとマスクをつけていたら、マスクのような皮膚を持つホモサピエンスになるだろうか。
時間をかけて、ある程度は人間も変身してきた。2019年の研究発表によると、20万年の間に人間の脳は劇的にアップグレードし、形状が円形に変化してきたという。では、木の葉蝶も時間をかけて枯れ葉におのれの姿を似せてきたのだろうか。それじゃあ変身が完成するまでに捕食されてしまい、種が生き残るのは難しそうではないか。
あるいは適者生存のように、木の葉に似た突然変異の蝶が生まれ、生き延びたのだろうか。そんな超突然変異がありえるだろうか。
奇跡という言葉は安易に使いたくないが、これは奇跡と呼ぶほかない。アイアンシュタインは言った、「奇跡などないといったふうに生きるか、すべては奇跡だといったふうに生きるか、生きるとはその二種類しかない」と。普通の枯れ葉だって十分に奇跡である。しかし枯れ葉蝶は特上の奇蹟である。
こういうところにも神のインテリジェンスというものを感じるのは私だけではないだろう。何か神とでも呼ぶほかないグランド・デザイナーがいて、われわれの知らない意図でもって、この世界のすべてを創造しているのである。
ふと私は聖書の「神にかたどって人を造った」という一節を思い出した。じつは人間は神を擬態しているのではないか、と私は考えてみたくなった。おそらく人間の本当の姿は猿とおなじであるにちがいない。たぶんヒトはチンパンジーなのだ。ヒトのDNAの99%はチンパンジーとおなじだというが、そこまでかぎりなく近いのなら、異星人から見ればヒトとチンパンジーは同種に映ることだろう。もし人間がチンパンジーのように全身が毛で覆われていたら、コミュニケーションとして互いの毛づくろいが重要視されていただろう。
人間は何百万年もかけてその姿を神に似せてきた。それは隠蔽擬態だろうか、それとも攻撃擬態であろうか。隠蔽擬態だとすれば、捕食者(つまり悪魔)の攻撃から身を守るために姿を神に似せているのである。悪魔は神の姿に擬態した人間をおいそれとは攻撃することができないのだ。