心風景43 landscapes within  宮本神酒男  神が宿る石 


これらの立石はさほど大きくないといっても、数人で運ぶには大きく、重すぎる。いったいどこから、だれが、どうやってここまで運んできたのだろうか。まわりには目印になるような丘もなければ、樹木や草むらはもちろん、人家も寺院もない。なぜ、ここでなければならないのだろうか。レイライン(古代遺跡群を結ぶ直線)か龍脈のようなものが走っているのだろうか。

この神石(ドリン)は墓なのか、記念碑なのか、一種の天文台なのか、あるいは龍穴なのだろうか。墓標と記念碑を兼ねた巨石を立てる習慣は、私が見た例でいえば、インドネシア・スラウェシ島のトラジャ地方にあった。このように、あまりにも謎だらけなので、いっそのこと宇宙人のせいにできればと思ってしまう。

 近くの別のおなじような神石(ドリン)の周辺が乱雑に掘り返されていた。殺人犯が遺体を埋めるために掘ったかのような深い穴がえぐられていた。神石の下に何が眠っているか興味深いが、乱暴に掘り返されていて、考古学者ならずとも、心を痛めてしまう。そもそも中国政府から考古学調査の許可は出ていないはずだ。そこから四川省の三星堆遺跡のような黄河文明とは無関係な古代遺跡が発見されるとまずいからかもしれない。この「墓荒らし」は高価な副葬品を期待して掘ったのだろうが、何も出てこなかったのだろう。もし出てきたとしても、その歴史的価値がわからず、よほどの高価な宝石でなければ、高く売り飛ばすことはできなかっただろう。

 謎解きのきっかけにならないだろうかと、私は両腕で神石(ドリン)を抱き、鼓動を聴くかのように、耳を石の表面にあててみた。古代人の魂とのコンタクトを試みたのである。この神石を中心とするとほうもなく大きな宇宙の時空間を私は感じ取ることができた。これらの神石は、二千年や三千年どころか、何万年も前に建てられたことがわかった。いや、わかったような気がした。おそらく文明は何度も生まれ、発展し、そのあと滅び、またゼロから発展するというパターンを繰り返してきたのだろう。この神石は(一世代を一万年として)何世代も前の古代人が、重力制御装置を使って、遠くの石切り場から持ってきたのではなかろうか。もちろん古代の「重力制御装置」といっただけでトンデモ認定されてしまいそうだが、ある種の重力制御装置が作れるほどのテクノロジーを持っていたとしても不思議ではない。

 この神石を建てたのはだれだろうか。定説というものはないが、モラビア教会の宣教師でありチベット学者として名を馳せた『西チベット史』の著者AH・フランケ(18701930)がしばしば言及するダルド人は、神石の主の有力な候補だろう。

ダルド人というのは、ギルギット(パキスタン)やラダックのダ、ハヌー村などに分布する白人のように見える人々のことである。このコーカソイド系の人々は、サンスクリット語に近い言語を持ち、ヴェーダ文学をもたらしたアーリア人と近似しているように思われる。しかし彼らと神石(ドリン)の関係を示す物はまったくない。ダルド人には巨石文化はなかったようだ。

 西チベットを中心に、吐蕃(ヤルルン朝チベット)に滅ぼされるまで長く栄えたシャンシュン国との関係は簡単に否定できない。なにしろこの神石はカイラース山とキュンルンの中間地点にあり、あきらかにシャンシュン国の領域のど真ん中に位置しているのだから。しかしシャンシュン国と関係が深いボン教(ポン教)には巨石崇拝のようなものはなく、こうしたことからも、神石(ドリン)はボン教よりも古いのかと思われる。

 重要なことは、巨石文化が特定の民族に属するのではなく、全人類が共有していることである。イングランドのストーンサークルやフランス・ブルターニュのカルナック、スコットランドのカラニッシュなどはよく知られているが、アジアを含めたほとんどの地域に巨石文化はあったのである。ただしこまかく見ていくと、この神石のような立石が寄り添うようなメンヒルは、ありそうで、なかなかない。

 

 もうひとつの立石群は、チャンドラカニ峠(3700m)である。じつはこの峠に行く前に、インド北西部に詳しい研究者のOC・ハンダ氏の自宅を訪ねて意見を聞いたことがあった。ハンダ氏によると、この立石群は自然の産物であって、古代遺跡ではないという。地学の専門家ではないといえ、当地の最高の知識人である氏が言うのだから、まちがいはないだろう。実際、峠の手前あたりには、崖にこの立石のようなものが埋まっているように見える地形があったのだ。

 とはいえ、草原に突き刺さった記念碑のような長方形の石を見ると、石自体は自然の産物だとしても、それを土に挿して崇拝していたのではないかと考えてしまう。とくにこの立石が積み上げられたようなマウンドは、自然にできたものであるにしても、立石を寄せ集めたものにしても、聖なるパワーを放っているのである。

 別の項で述べたように(ゲパン神オデッセイ)私は25日間にわたる巡礼の旅に参加したことがある。出発点はラフルのシシュ村で、ロタン峠(3990m)を越え、クル谷の中腹部を上がったり下ったりしながら、各地のヒンドゥー寺院を訪ねつつ、チャンドラカニ峠(3700m)を越えて、目的地のマラナ村に達する。マラナ村でシシュ村などの人々は樺の木を伐りだし、枝葉を落とし、五色の布で飾り付けて、ゲパン神の新しいご神体を作り出すのである。このマラナ村に到着する前、チャンドラカニ峠の聖域でいわばみそぎの儀礼をおこなう。撮影の許可が下りなかったため、写真資料はないが、このときラパ(lha pa チベット語で神人、すなわちシャーマンの意)は四方でヤギの血を神にささげているのである。このヤギは何日間かいっしょに山道を歩いたなじみのあるヤギだった。

 シシュ村の人々は基本的にチベット系の人々である。吐蕃(ヤルルン朝チベット)が現在のパキスタン北部からアフガニスタンへと領土を拡張していったとき、シシュ村を含むラフル(ラホール)はチベット人が支配する地域となったのである。クル谷のいくつかの村もチベット人が作った村だった。

 目的地のマラナ村の人々はまったく人種が異なっていた。かれらの出自は謎に満ちているが、ギリシア人先祖説(つまりアレキサンダー大王末裔説)はいまだに有力説なのである。かれらの顔を見ると、ギリシア人というよりはアフガニスタン人(パシュトゥン人)なのだが。

 意外なことに、かれらにはカイラース山からやってきたという伝説がある。かれらはそのあたりに住んでいたアーリア系のカシャ人と関係があるかもしれない。そうするとこのあたりにある神石とも何かかかわりがあったかもしれない。神石を崇拝したように、かれらはチャンドラカニ峠で立石群を発見し、それを崇拝したのかもしれない。

 

 

 目の前にあるのに、それが何であるかわからない。そこに悠久の時間が流れているのはたしかだが、何億回風が通り過ぎていったか想像すらできない。国王のような権力者が建立を命じたにちがいないのに、また場所の選定を大シャーマンがやったはずなのに、それを伝える書物も伝承も残っていない。

 西チベット、カイラース山南西数十キロのゴビ砂漠のような瓦礫の多いだだっ広い高原に、いくつかの巨石(チベット語でドリン)が寄り添うように立っている。この石たちは何も語ってくれない。高さは2m半くらいしかないので、巨石というよりは立石(メンヒル)といったほうがいいかもしれない。