心風景 landscapes within  53  宮本神酒男
修行者専用の洞窟アパートメント 

    

 ここで瞑想三昧の生活を送ることができたら、どんなにすばらしいだろうか。キュンルン・グルカル(銀城)の中心部のすり鉢状の地形のなかに立ったとき、私はそう思った。ここは古代シャンシュン王国の王城だったところで、頂上のレンガで作られた壁は王室の遺構だろうし、ほかの穴は大臣や有力者の居室だったのだろう。

 しかし古代シャンシュン王国は7世紀のソンツェンガンボ王のときに絶滅の危機に追い込まれ、つぎの世紀にはほんとうに滅んでしまった。それ以降、ここを王城、あるいは要塞として利用されることはなくなった。そのかわりに各自の修業洞窟として用いられるようになったのである。後年、外壁が作られ、一部の穴は(おそらくチベット仏教サキャ派の)寺院として利用された。


キュンルン銀城の第一候補。内部に大きな空間があるかもしれない。西チベット Photo:Miyamoto Mikio 

 ここには二百から三百の穴(洞窟)があると言われている。王城には国王の居室や寝室、大臣の居室、また武器や食糧の保管庫があっただろう。しかしそれ以外は住人(兵士や役人とその家族)が仮の住居として用いていたはずだ。国がなくなってからは、インド人も含めて、多くの人が修業の庵として使ってきた。仏教の各宗派だけでなく、ポン教徒によっても使われてきた。もっとも、ここはポン教の聖地であり、もともとポン教の土地のようなものだった。

 下の「ポン教寺院」の写真を見ればわかる通り、実際にここで生活していた人はいたわけで、壁や天井には数センチの炭の層ができている。彼らはどうやって火を入手できたのだろうか。毎日火が簡単に手に入ったとすると、マッチが使われたのだろうか。マッチが買えるようになったのは、19世紀末のことで、それほど昔のことではないことになる。燃料はヤクや馬の糞を乾燥させたものが使われただろう。そうするとこの近くでヤクが飼育されていたことになる。マッチ以前だと、火打石が用いられたことになる。火打石で火を起こすのは困難なことではないが、手間がかかりすぎる。熱湯自体は下の温泉で入手可能なので、お茶を淹れたり、ツァンパを捏ねたりするのは簡単だったはずだ。

  
洞窟の一つはポン教寺院として用いられた。中に入ると、もうひとつの「扉」があった。右はツァツァ。Photo:M. Miyamoto

 グゲ王国の時代はその管理下に置かれていたかもしれないが、もともと聖地であり、ここで暮らす修行者たちが縛られることはなかっただろう。17世紀にグゲ王国が滅んで以降は、現在の共産党中国のもとに入るまで、理想的な修行者コミュニティーができていたのではなかろうか。ポン教徒だけでなく、ゲルク派をはじめとする各宗派の修行者が住み着いていたようだ。今も多くの洞窟にツァツァと呼ばれる泥を捏ねて作った数センチの小型のストゥーパが多数残っている。ツァツァ作りもまた修業の一環なのだった。

 政治や権力、戦争とは無縁の修行者にとっては理想の「新しき村」ができていたのだろうか。インドのサドゥーも押しかけていたかもしれない。峠を越えるのは困難だが、インド国境はかなり近い。私にとってもキュンルンは聖地だが、具体的にそこで過ごすことが(現代において実現は不可能であるにしても)想像できる聖地なのである。