心風景 landscapes within 55 宮本神酒男 
牛の魂に永遠の平安あれ 



 道路(間違いなく世界一危険な道路)が開通する前、私は手前の町貢山(ゴンシャン)から三日間、山の中を歩き通し、ようやく独龍江沿いの村に到達した。翌日、くつろいで疲労困憊の体を休め、それから小さな村の周辺を散策した。しばらく歩くと、茂みの中に一頭の牛がいた。書物を読んで知っていたが、この牛は独龍牛と呼ばれる牛で、アッサムなどにいるミタン牛とおなじである。もちろんほとんどの日本人にとって、尖った角、帽子のような茶色い「頭髪」が特徴的な牛は、見たことも聞いたこともないだろう。少しふてぶてしい感じだ。見た目は水牛に近く、食肉用や乳牛としての価値はなさそうだ。

 しかしなぜ一頭だけでいるのだろうか。水田で働いているようには見えないし、放牧されているのなら、何頭かといっしょにいるはずだ。少し離れたところに中年の農民風の男がいた。その彼に近づいて、牛のことを少し聞こうと考えた。

「この牛はあなたの牛ですか」
「いや、違う。この牛はあんたの牛だ」

 そのときの衝撃を私はよく覚えている。目の前にいるこのヘンテコな牛の所有者が自分だったとは、いったいどういうことなのか。たしかに、独龍江に着いてすぐに、私は貢山から同行してくれた公安の青年を通して、天神を祀る儀礼をおこなってくれるよう手配していた。儀礼に欠かせない牛のいけにえに選ばれたのが、この独龍牛だった。わずか数日間だけの私の牛。なんてかわいい牛だろう。そしてなんてかわいそうな牛だろう。おびえているような、怒っているような、悲しげな潤んだ目で牛は私を見ている。私はおまえの主人であり、おまえを殺そうとしている者だ。


民族衣装は古代日本のような貫頭衣。中国の他の民族より、ミャンマー北部の民族に近い。Photo:M. Miyamoto 

 このカチェワと呼ばれる蔡天儀礼は、秋の収穫のあと、11月か12月頃、不定期に三日間かけておこなわれる。収穫祭であるとともに、新年の年越しでもある。一日目は囲炉裏端に家族・親戚が集まって祝う。二日目は山神を祀る。そば粉を捏ねて動物をかたどり、山神の周囲に置く。チベット人のトルマに近い。そして山神に祈りの言葉を捧げる。三日目がこの牛を犠牲にして天神に捧げる祭りである。

 
次第に踊りに熱が入っていく。というのも……。Photo:Mikio Miyamoto 

 牛の殺し方は残忍だった。「ひと思い」の真逆で、槍を持った男が牛のお尻あたりをチクチクと軽く刺していった。致命傷を与えないように、たっぷりと時間をかけて、次第に槍は深く刺さるようになった。そしてついに牛はでん部を地面に下ろす。そこへとどめの一刺し。牛の鼻と口から血がほとばしり出た。私は牛の瞳孔が開く瞬間を見ていた。魂が離れた瞬間だ。人間に魂と肉体があるならば、牛にとってもおなじだろう。牛の魂は不滅だろうか。

 男は牛の頭部を切り落とした。そして銅鑼を持った男たちの前後を、頭部を持ったまま踊る。なんとバーバリアンな……。そう思いつつ、毎日世界で何万頭も牛が屠られているのに、たった一頭に同情する意味があるのかと問う声が頭の中に響いた。


牛は自分の体を支えることができなくなった。残忍ショーのあと解体ショーがつづいた。Photo:M. Miyamoto 

 残忍ショーが佳境を迎えるにしたがい、私は目をそむけるようになったが、踊る人々の表情は熱を帯び、明るくなっていった。その理由はあきらかだった。牛の新鮮な死骸は解体され(それは解体ショーだった)、列をなして並んだ人におそらく2千グラムくらいずつ分配したのである。踊り手たちには、ある時点から牛はステーキに見えていたに違いない。

 夜、村の食堂に行くと、主人は「新鮮な牛肉があるよ」と満面に笑みを浮かべて言った。私は一瞬切れそうになったが、理性を引っ張り出して自分を抑えた。おそらく主人の娘か奥さんが祭りに参加し、列に並んで肉を獲得したのだろう。もちろん列は序列でもあった。内臓や肉の部位ごとに、それが渡る優先順位が決まっているのだ。食堂や肉屋はある程度の量が確保されるだろう。自分の牛の肉をなぜお金を払って買わなければならないのか、と不満に思ったが、考えてみれば調理代を払うようなものなのだ。

 驚いたことのひとつは、牛肉が美味であったことだ。今まで食べたステーキのなかで、もっともおいしかった、とも言えた。解体したその場で肉をもらっても、罪悪感が大きく、食べる気にはならなかっただろう。しかしこうやっていくつもの段階を経て口に入れると、もはやそうした抵抗感はなくなっているのだ。

 きれいにスライスされて、ビニールパックされてスーパーの棚に並んだ肉には、生きものに対する感情は失せてしまっている。生前どんな牛だったのだろうかと想像することはなく、気になるのは消費期限と値段だ。幸い人間は牛肉が生きていたときのことを想像するだけの想像力を持ち合わせていない。ベジタリアンのライオンは生きていけない。人間の想像力の欠如は、進化論的に言って、厳しい世界を生き抜くための強みなのである。