心風景 landscapes within 57 宮本神酒男 
ケサル王(チベットの英雄)はアッラーの名のもとに (パキスタン・バルチスタン) 


不義の子を産んでしまった王妃プルクモの乳首から乳が流れ落ちた。Photo:Mikio Miyamoto 

 私がバルチスタンを訪ねたとき、ラマザーン(ラマダーン)の真っ最中だった。世の中にあわせて夜明けから日没まで食べないようにしていたせいか、身が浄められ、心も引き締まっているような気になっていた。[旅をしているときは例外的に食べても大丈夫。来る途中、乗っていたマイクロバスが隠れ家的な一軒家のレストランに立ち寄り、みなで昼食を取った] 

 カンデ村にチベットの英雄ケサル王物語の半盲の語り手、ムハンマド・チョー(80)を訪ねた。彼は敬虔なイスラム教徒で、日頃から一日五回の礼拝を欠かさなかったが、ラマザーンの間はとくに熱心だった。彼の顔立ちはテュルク系の血が濃いようだったが、実際、話す言葉はチベット語の方言だった。いったいこれはどううことだろうか。

 バルチスタンはもともと大ボロール(大勃律)という国だった。吐蕃は736年に大ボロールを併合し、小ボロール(ギルギット付近)をも征服した。その結果、テュルク系の血の濃い、チベット語を話す人々が誕生したのである。ラダックに近い地域では最近まで仏教徒が残っていたが、今ではほとんどがムスリムに転向してしまった。

 
そんなアッラーの土地でチベットの英雄ケサル王物語が語られるのは奇跡に近いことではなかろうか。ケサル王物語はチベット文化圏に伝わる叙事詩であり、ケサル王は仏法の名において悪を制圧する英雄なのだから。

 ムハンマド・チョー(80)は驚くほどの食欲をもち、抜群の記憶力を誇るが、視力はほとんど失ってしまった。老詩人は二日間にわたって、滔々と十八番の「ホル・リン戦争」の章を語り、歌った。ケサル王が北方の魔国と戦っている隙を狙って敵のホル国がリン国に侵攻し、妻のブルクモをさらっていく。ブルクモはホル王との間に不義の子をもうけてしまうが、ケサル王はホル国を滅ぼし、妻を奪還する、という筋である。

 ことばはよくわからなかったが(ときおりチベット語の語彙を発見したが)老詩人の語りは流れ出るエネルギーのように感じられた。部屋の中はエネルギーに満ち、いきいきと躍動をはじめるのである。

 二日目の朝、老詩人は杖をつきながら、数百メートル離れた谷間へ私を案内した。何百キロも離れた中国チベット自治区ではなく、まさにここが物語の「現場」なのである。不貞の妻が母乳をこぼしてしまった跡(岩の白色のすじ)や妻の花飾り(崖の赤いしみ)などを見せながら、歌いつつ情景を描き出した。老いた語り手にかかると、それはもはや作り事ではなくて、昨日起きたばかりのなまなましい事件なのである。