ユダヤ教瞑想術 

アリエ・カプラン 

 

01 瞑想とは何か 

 瞑想とは何か? 瞑想を実践している者がそんな質問を発することはないだろう。しかしまだ実践したことのない者にとっては、それは大いなる謎である。多くの人にとって、瞑想という言葉から思い浮かべるのは、目を閉じ、蓮華座に坐り、精神を集中している姿だろう。瞑想と聞いて、神聖さや精神性を連想する人もいるかもしれない。精神性を追い求める個々人は、さまざまな瞑想法にあたってみるだろうが、このとき、自分たちが探しているものが何であるかまで、考えることはない。

 一般的な意味において、瞑想は管理下に置かれた思考から成っている。一定期間中、心(マインド)をどういう方向に向けたいか決定し、実際にそうするのである。

 理論的には、それはとても簡単そうに見える。しかし実践しようとすると、そう容易ではない。人間の心(マインド)は飼いならされた動物ではない。それは思考する人の意思を超え、それ自身の心を持つようにさえ思えるのである。いままで主題について神経を集中しようとしたことがあり、心がほかの考えのほうに漂ってしまった経験を持つ者のみが、このことに気づいている。思考をコントロールしようとすればするほど、思考はコントロールされまいとしているかのように見えるものだ。

 奇妙なことに、多くの人は自分の思考自体に思考を向けることがないようだ。思考はあることが当然のわれわれの存在の一部なのである。瞑想における最初のステップは、いかに当然でないかを学ぶことなのだ。

 簡単なエクササイズをおこなうだけで思考をコントロールすることがいかにむつかしいかがわかるだろう。理論においてはこのエクササイズはばかばかしいほど簡単に見えるが、実践するとなるとむつかしくてなかなかうまくいかない。

 これがエクササイズである。すなわち思考をやめること。

 通常、何かに心を奪われているときを除いて、思考の流れはつねに心を通り過ぎていくものである。物思いをしているとき、ほとんど自動的に一つの思考はつぎの思考へと流れていく。この思考の流れはまるで頭の中で自分自身と会話をしているかのように、とどまることがない。いつもこの物思いというものに私たちはほとんど注意を払わないが、心の状況そのものである。

 最初のエクササイズは、思考を止めようとすることで、思考に気づくようになる、というものである。ためしに数分間、何も考えないようにして、心(マインド)を空白にしてみるといい。簡単そう? ではさっそく、読むのをやめて試してほしい。

 どうだったろうか。どれだけつづけられただろうか。あなたが特殊な能力を持っているのでないかぎり、あるいは瞑想体験が豊富でないかぎり、数秒以上心をブランクにすることはできないだろう。何も起こらなくても、心の静寂期間は「わたしは考えていない」「考えないようにしている」といった思考によって中断されるだろう。思考のスイッチを切るのは実践的にきわめてむつかしいのだ。思考プロセスをコントロールするのは瞑想の修練のゴールの一つと言ってもいい。

 あなたの心(マインド)をコントロールするもうひとつの方法がある。この章を読み終えたとき、目を閉じよう。目の前に光や像が点滅するのが見えるだろう。ほんの少しの間、リラックスする。すると点滅する光は消えていき、かわりに万華鏡のような模様が心の眼で見られるだろう。これらの像は現れては変化していく。この像を心の意識によって変えることはできない。一つの像は別の像に変わっていく。それは成長し、発展していく。心が生み出した像に神経を集中するのはほぼ不可能である。なぜならあなたが集中しようと試みたとき、それらは消えてしまうから。

 さて、目を閉じてこれらの像をコントロールしてみよう。あなたの心にAという文字を描いてみよう。ある期間このテクニックを実践しないかぎり、この像をキープするのはむつかしい。

 瞑想のテクニックの一つとして、イメージング、すなわち心に像を浮かべ、キープする技術がある。たとえば刻みこむように心に像を固定しよう。すると人が望むかぎり像は心にキープされる。このテクニックはトレーニングを重ねることによってのみ真価を発揮することができる。

 この二つのエクササイズを試みれば、心が「それそのものの心」を見ることができる。心は二分される。一つは意識的な意志のコントロール下にある部分。もう一つはそうでない部分。意志のコントロール下にある心の部分は意識と呼ばれる。一方でそうではない部分は無意識、あるいは潜在意識と呼ばれる。潜在意識は意志のコントロール下にないため、人は意識的な心へと通過するものをコントロールすることができない。

 瞑想のゴールの一つは、心の潜在部分をコントロールすることである。もしそれに成功したなら、つぎには高次の自己マスターを会得する。これもまた瞑想のゴールの一つである。

 このことはなぜたくさんの修行法が瞑想の方法として呼吸のエクササイズを採用しているかの説明となっている。呼吸は通常自動的に生じるものである。それゆえふつうは無意識の心のコントロール下にある。あなたが意識的に呼吸をコントロールしないかぎり、それはあなたの潜在意識の感情を反映することになる。これが、呼吸がうそ発見器の指標の一つである理由なのだ。

 しかしながら、あなたが望むなら呼吸をコントロールすることは可能である、しかもきわめて簡単に。呼吸はそれゆえ意識的な心と無意識のリンクとなりえるのだ。呼吸に神経を集中し、コントロールできるようになれば、いかに無意識の心をコントロールできるか学べるのだ。

 思考の過程そのものはかなりの度合いで無意識によってコントロールされている。しかしそれはまた意識的な心によってもコントロールされている。これは空想をしているときにもっとも顕著である。リラックスしていて、それにとくに注意を払っていないとき、空想は意識的な努力なしに、一つの思考から別の思考へと流れていく。実際、無意識の心を理解するために「自由連想」を模倣するた心理学的テクニックはたくさんあるのだ。とはいえ、連想がどれほど自由であったとしても、人がだれかにそれを描写しているとき、それは純粋な空想ほどには自由ではない。空想はこのように意識と無意識の間の境界面上にあるのだ。空想のコントロールの仕方を学ぶことによって、人はまた無意識のコントロールの仕方を学ぶのである。

 心に現れる幻影に関しても同様のことが言える。それらは意識的な心のコントロール下にないので、それらはあきらかに無意識から現れるものだ。それらをコントロールするのは、実践的訓練がなければきわめてむつかしい。人はそれらのコントロールの仕方を学ぶことができる。そしてそうやって学ぶことによって、意識的な心と無意識との橋を作ることになる。

 瞑想をすることによって得られる最大のパワフルなメリットは、無意識の心(マインド)をコントロールできることである。人は通常無意識のコントロール下にあるメンタルの過程をコントロールするために意識的な心を使うことを学ぶ。徐々に、そしてだんだんと、潜在意識は意識的な心とアクセスができるようになる。そして人は思考の過程全体をコントロールすることができるようになる。

 ときどき心(マインド)の異なる部分が独立して動いて見えることがある。心の二つの部分の争いが強く、人は二人の分離した個人があるように感じてしまう。そのような内紛の間、心のある部分が何かをしようとしているとき、心の他の部分が別のことをしようとしているといった事態が発生する。

 例えば、ある人は性的な誘惑に負けてしまうかもしれない。心のある部分は「そうだ!」と大声で叫ぶかもしれない。しかし心の他の部分はその行為がモラル的に理解しがたいと感じているかもしれない。この心の部分は同じような大きな声で「それは違う!」と叫ぶかもしれない。この人物は二つの声の合間に捉われてしまったと感じるだろう。

 古典的なフロイド心理学では、イドと超我(スーパーエゴ)の葛藤とみなされる。われわれの例で言うなら、イドは誘惑に対して「そうだ!」と言い、超我は「違う!」と答えるだろう。ともかくエゴ(わたし)は二つの潜在意識の声の間で仲裁する。フロイドの公式は簡単でわかりやすいけれど、心の内側を観察すれば、この葛藤はイドと超我という単純な構図以上に複雑なのである。ときには二つにとどまらず、三つや四つ、あるいはそれ以上の声がさまざまな異なる心のシグナルを送るのである。もし人が潜在意識のコントロールの仕方を学ぶなら、彼はこの葛藤を避けることができたはずだ。

 潜在意識に関しては非常にたくさんの理論があり、徹底的な論議はこの本の範囲を越えてしまうだろう。しかし瞑想がコントロールされた思考と言えるなら、個人は潜在意識からのインプットを含むコントロール下の思考プロセスを持っていることを暗示している。経験を積んだ瞑想家は彼が考えたいと思っていること、いつ考えたいか、そういったことをどう考えるか学ぶ。彼は心理学的重圧に抵抗しながら、いつも状況のコントロール下にあるだろう。彼はまた自分自身のコントロール下にあるだろう。自分が本当にしたくないこと知っていて、それをすることはけっしてない。多くの学派で、この自己マスターはもっとも重要な瞑想のゴールとみなされるだろう。

 

 

 


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