ジンポー族五千年史

――祖先の魂の移動経路――

宮本神酒男 編訳

 

1 マジョイ・シンラ・ガジ(氷天雪地)

 

 地球形成後1656年、地球は洪水によって水没した。人類の祖先キンセン・シャブラン(Hking Seng shabrang)の一家は木鼓に乗って水面を漂い、アラ・ラト・ブム山(Ara rat Bum)山頂に流れ着いた。こうしてキンセン・シャブラン一家は、幸福な生存者かつ純粋な人類の始祖となった。アラ・ラト・ブム山の平らな山頂は、最初の人類が生存し、繁栄し、発展した基地となった。

 アラ・ラト・ブム山は神聖な場所だったので、パミラ・ブム・ガ山峰(Pamira Bum Ga)すなわち「目の大きさの珍しい平らな山頂」と呼ばれた。またニクルム・チュンフイ・マウ(Nyik lum Chyunghui Mau)すなわち「同じ祖先の内臓」とも呼ばれた。

 人類の祖先はパミラ・ブム・ガ山峰、すなわちチベット高原に居住し、繁栄し、発展したあと、各色の肌の目的、願いによって、あるいは需要や選択によって地球の東、南、西、北へと向かった。それは長く、辛い、行く先のはっきりしない、まれなる大移動だった。

 人類祖先キンセン・シャブランの黄色い肌の長男シャントイ・ガム(Shanhtoi Gam)一族は分かれて東のアシャ・ダン(Asha Dan)に住んだ。黒い肌の次男シャンチャン・ノ(Shangchyang No)の子孫は移動してアフプリガ・ダン(Ahpriga Dan)、すなわちアフリカ等に住んだ。白い肌の三男シャン・プロ・ラ(Shan hpro La)の一族は移動してウロパ・ダン(Uropa Dan)に住んだ。

 創世のあと、人類の繁栄と発展があり、一定の数量と規模に達すると、人類は大きく分かれ、散居し、それかた大移動がはじまった。黄、黒、白の人類の三兄弟は、第一回目の大分離、つづいて大移動したが、それは歴史の必然だった。この歴史上の段階は、前22世紀末から前21世紀はじめにかけてのことだった。

 前221年頃、中国では秦代、人類祖先の黄色の人種シャントイ・ガムの後裔である羌族のひとつ、ジンポー族の先祖が起源地ムンゴ・リヤ(Munggo Liya)を出発し、マジョイ・シンラ・ガジ(Majoi Shingra gaji)またの名をケン・コ・マジョイ(Hkyen hko majoi)、すなわち「氷天雪地」へ移動した。あるいはジンルム・ピ・ピッ・マウ(Jin lum pyi pyit mau)、すなわち「ヒマラヤの狭い山頂」に居住した。

 マジョイ・シンラ・ガジ、あるいは称す、ポキュ・サンセ・マウ(Hpokyu Sangse Mau)、すなわち「落ち葉が堆積した地方」。または称す、ントッ・ジャラ・マシャ・ニ(Ntot Jara masha ni)、すなわち「敷居に金(雪)が満つる人々」。つまり彼らが最初に移動し、遠くないところに定住したので、門の外には雪が積もり、その雪は凍っているということである。

 マジョイ・シンラ・ブム山はサンスクリット語のヒマラヤ山脈のことで、雪の故郷という意味である。マジョイ・シンラ・ガジはその積雪が一年中溶けることはない。雪峰が林立し、海抜7千メートルを超える高峰は40座以上もある。8千メートル以上の峰も10座を超える。チョモランマとなると8848メートルにも達する。ジンポー族の祖先はこの「世界の屋根」を「落ち葉が堆積した地方」と呼び、「敷居、庭に雪が積もる(金が満つる)場所」と呼んだ。そのヒマラヤ山脈の狭い土地から転々として、長い間移動しながら暮らした。この時期のジンポー族の社会は母系社会だった。

 ントッ・ジャラ・マシャ・ニ、すなわちジンポー族祖先「敷居」氏族は大移動をした。彼らはヒマラヤのマジョイ・シンラ・ガジの狭い地域の原始林、高山、絶壁のなかにあって困難を極めた。野獣に襲われて怪我をすることも頻繁だった。ントッ・ジャラ・マシャ・ニの人々は劣悪な環境のなかで生き抜き、野獣と戦いながら、五回目の移動をして、ヤルツァンポ川に沿って脱出口を探した。

 彼らは最終的にマジョイ・ティンケ(Majoi Tingke)のブムライ・ケッ(Bumlai hkyet)の峠に至った。

 ントッ・ジャラ・マシャ・ニの人々はマジョイ・ティンケ、そしてゲンゲに至った。ここは世界に名高いヤルツァンポ川の大峡谷である。人々はこの天然の障壁に驚き、どうしたらここを渡れるか、頭を悩ました。

 突然、一匹のイタチがロンディン樹の木の枝から蔦を伝って向こう側へ渡った。首領のシャワ・ガム・モン(Shawa Gam Mon)は叫んだ。

「イタチだって蔦を伝って渡れるのに、どうしてわれわれが橋を作って渡れないだろうか?」

 人々は彼の提案をもっともだと考え、多くのロンディン樹を伐って橋を作った。世界にもまれな大峡谷を渡る準備が整った。

 ントッ・ジャラ・マシャ・ニの人々、すなわち「敷居」の人々はこの橋を渡るとき、それぞれ「恐怖のことば」を発した。それが族称となった。つぎのような伝説がある。

 長男のマリプ・ワ・クムジャ・マガム(Marip wa Kumja Magam)の祖先は、木の橋を渡るとき滑り、思わず「ワゴイリ!(Wa Goi Li)」と叫んだ。これによりマリプ家族はウンリ・アラ(Wunli Ala)すなわち「吉祥の家」という名で呼ばれる。

 次男のラト・ワ・ノ・ロン(Lahto wa No Lon)が橋を渡るとき、足を滑らし、「ワゴイクラン!(Wa Goi Krang)」と叫んだ。これによりラト家族はプンクラン・アラ(Hpung Krang Ala)、ジャ・クラン・ラ・ニ(Ja Krang la ni)、すなわち「よくできる、才能ある人の家」と呼ばれる。

 三男のラパイ・ワ・ダイナ・ラ(Lahpai wa Daina La)が橋を渡るとき、滑って思わず「ワゴイパイ!(Wa Goi Hpai)」と叫んだ。これによりラパイ家族はパイ・ツァン・アラ(Hpai Tsang Ala)すなわち「善を施す人の家」と呼ばれる。

四男のマツォ・ワ・ンクム・トゥ(Matso wa Nhkum Tu)は橋を渡るとき滑り、思わず「ワゴイコム!(Wa Goi Hkom)」と叫んだ。これによりンクム・トゥ家族はシン・コム・アラ(Sing Goi Hkom)すなわち「移動しながらも善いことをした新しい人の家」と呼ばれた。

五男のマラン・ワ・ヨパン・タン(Maran wa Yopang Tamg)は橋を渡るとき滑り、「ワゴイパン!(Wa Goi Pang)」と叫んだ。これによりマラン家族はヨパン・アラ(Yopang Ala)は「軽々と、しかしつつましやかに行く人の家」と呼ばれる。

 

つづく ⇒ 2 マリク・マジョイ(マリク川源流地域)