ジョナン派の成立
1 カーラチャクラのチベットへの伝播
チベット密教には五大タントラが世に知られるが、そのなかでも時輪(カーラチャクラ)タントラがジョナン派のもっとも重要な修行法とみなされてきた。このようにジョナン派の形成とカーラチャクラ教法の伝播には密接な関係があった。
『青史』『ジョナン教法史』などによると、カーラチャクラはカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポによってチベットにもたらされた。カチェ・パンチェン(Kha che Pan chen)、名はダワ・ゴンポ(Zla ba mgon po)、漢訳して月怙、11世紀に生きたバラモン出身のカシミール人。
幼い頃から十年間、父よりバラモン教の教育を受ける。のち母の命に従い仏教徒に改宗する。故郷でカーラチャクラを伝えたインド人僧チャンチュブ・サンポ(Byang chub bzang po)に会い、インド人学者ドゥワ・チュンネ・ロドゥ('Dul
ba 'byung gnas blo gros 戒生智)がチャンチュブ・サンポに与えたカーラチャクラ関連の『灌頂略示』『灌頂広示』二書を学び、啓示を受け、信仰心を持った。ついにインドへ行き、カーラチャクラを学んだ。
ドゥワ・チュンネ・ロドゥの生涯に関しては仏教史中に記載がないが、『青史』のカーラチャクラの項には記述がある。シャンバラ国でドゥシャブ・チェンポ(Dus zhabs chen po)が白蓮法王からカーラチャクラを学び、その後インドに戻ったとき五人のパンディタに教えを伝授したのだが、五人のうちのひとりがドゥワ・チュンネ・ロドゥだった。
カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはインドに行きドゥワ・チュンネ・ロドゥから学んだわけではなかったが、ドゥシャブ・チュンワ(Dus zhabs chung ba)に直接拝し、カーラチャクラに関した灌頂や儀軌、『時輪根本タントラ』とその解釈を学び、修行をしたあと、シッディ(成就)の境地に至った。長い間穀物を避け、二便を断ち、盗賊などの類の悪人に対しその身体を硬直させことができた。修練を積んで非常に高い境地に達していたのである。
『ジョナン教法史』によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポは学んだあと三度チベットへ行き、カーラチャクラを伝え、ド氏('Bro)系統の四代目となり、カーラチャクラのほかに『明灯論』やナーガールジュナの諸著、アサンガの『五部地論』なども教授した。
『青史』によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはカーラチャクラを伝えるために何度もチベットへ行った。チベットでは『時輪経』を教え、『時輪無尽明灯教授釈論』や『根本智論』を著した。彼はチベット語にも通じていた。ンガリ、そしてツァンに行き、『勝義近修法』と『時輪タントラ広釈』をチベット語に翻訳した。
比較的信じられる説としては、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポは二度チベットに来た。ユルポ・サンユル(gYor po'i bzang yul)地方のゲシェ・ジェパ(dGe bshes rCe
pa)父子にカーラチャクラを教えた。同時に他の人に教えるとき、ジェパ父子はその場にいて通訳を担当したという。
はじめてチベットに来たとき、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはツァンのチュシュル(Chu shul)を訪ね、二度目のときはペンユル('Phan yul)地方のゲシェ・コンチョクスン(dGe bshes dKon
mchog bsrung 宝護)師弟によるもてなしを受けた。カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはチベットのほかの師に伝えられていないカーラチャクラの本タントラ、タントラ釈のすべてをコンチョクスン師弟に教授した。
ド氏('Bro)の伝承によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来たとき、三人の者が教えを受けた。ひとりはド訳経師シェラブ・ダクパ('Bro lo Shes rab grags pa 慧称)で、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポが講義するカーラチャクラを目の前に坐ってすべて聞き、殊勝ラマとなった。
二人目は、ラジェ・ゴムパ・コンチョクスン(Lha rje sGom pa dKon mchog bsrung)で、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポが講義したカーラチャクラの灌頂、タントラ釈、秘訣のすべてを目の前に坐って聞いた。
三人目は、ラマ・ドトゥン・ナムゼ(bLa ma sGro ston gnam brdzegs)で、カーラチャクラの灌頂とすべてのタントラ釈を学んだ。ジョナン派がチベットにおける始祖と追認するユモ・ミキュ・ドルジェ(Yu mo Mi bskyod rdo rje 不動金剛)は法縁を結んだものの、直接カーラチャクラの教えを受けたわけではなく、このドトゥン・ナムゼから学んだのだった。
カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポの生没年は文献中に記載がなく、チベットにおける活動の詳細を記した資料もまた発見されていない。チベット暦の第一年であるラプチュン年(Rab byung)紀年は、『時輪タントラ』がチベットに入った1027年だった、というのはほぼ定説だ。『時輪タントラ』は北宋の天聖年間にチベットに流伝したのである。
ド氏の伝承によれば、主要三大弟子のひとり、ド訳経師が、その生没年はわからないが、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポからカーラチャクラの教法をすべて学び、五代目のカーラチャクラ伝承者となった。ほかの二人の弟子に関していえば、各種文献にはごく簡単な記述しか見当たらない。ラジェ・ゴムパ・コンチョクスン、通称ゴムパ・コンチョクスンは、ラジェという呼称から医学に通じていたことがわかり、ゴムパから密教の修練にたけていたことが知られ、コンチョクスン(宝護)が基本的な名である。
コンチョクスンはカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来ると、家財のすべてを6両の黄金に変え、献上し、身口意でもって供養し、『時輪タントラ』の根本タントラ、ならびに釈と秘訣の伝授を求めた。彼はド訳経師の弟子であったことから、六代目の伝承者と認定されている。
ラマ・ドトゥン・ナムゼ、あるいはナムラゼパ(天積)、通称ドトゥン・ナムゼは、年少の頃から篤く仏教を信じ、仏学にいそしみ、仏教経典に精通した。晩年になってカシミールへ行き、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポに拝し、カーラチャクラの伝授を懇願した。
カチェ・パンチェンは彼の誠意と強さを試した。すなわち彼にチベットのマンユル地方に宝物を運ばせ、後日自らチベットへ行ったあと、伝授すると答えた。ドトゥン・ナムゼはチベットに戻り、友人の勧めもあってあらためてゴムパ・コンチョクスンにカーラチャクラの伝授を求め、『時輪根本タントラ』とその釈論、教法を学び、修行によって悟りを得た。
のちカチェ・パンチェンがチベットに来たとき、ドトゥン・ナムゼはふたたび拝謁した。カチェ・パンチェンは彼に灌頂を与え、修法等の儀式を行い、あらたにカーラチャクラの法門を開示した。こしてカーラチャクラの正統な伝承人となった。ド氏の伝統では、ドトゥン・ナムゼは七代目とされる。
2 他性空の確立
チベットにおけるジョナン派のカーラチャクラの実質的な創立者はユモ・ミキュ・ドルジェ(Yu mo Mi
bskyod rdo rje)である。彼は11世紀のチベット・ユモ地方の出身で、俗名をタクパ・ギェルポと言い、ミキュ・ドルジェ(不動金剛)という法名を得た。在家の行者で、修行を積んで名を馳せた。『如意宝樹史』は彼のことを「マハー・ムドラーの修道者にして、カイラス山の大修行者」と称している。
彼はかつてカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポにカーラチャクラ(時輪)の伝授をお願いした。カチェ・パンチェンは彼の真剣度を試すため、風呂敷を取り出し、まずネパールへ行きなさい、そのあとに伝授しましょうとこたえたという。しかしこのふたりは、直接面会した形跡がない。実際法縁を結んだだけで、子弟の関係はなかったと思われる。
ユモ・ミキュ・ドルジェはほかの人の推挙によってドトゥン・ナムゼ(sGro ston gnam brtsegs)に法を求めた。ドトゥン・ナムゼは彼を心伝弟子と認定し、およそ五年にわたって、『時輪根本タントラ』およびその注釈と秘訣、『明灯論』の教誡を伝授した。
教えを授かったあと、彼はウユク('U yug)のギャネ(rGyal gnas)に行って修行をし、最後には成就をとげ、ド系のカーラチャクラ伝承者の8代目と認定された。没したときは82歳だった。
チョナン派はユモ・ミキュ・ドルジェをチベット密教の他空説の創始者とみなしている。彼は名を成したあと、著述に専念し、多くの経文を写した。
彼は事物の本体自体に関して空とは認めなかった。一切の事物は永久不変な真性体を持つ。それは絶対的な存在で、至高無上の仏である。本体を空としたのは、人間の認識の錯誤によるものだった。それゆえ事物の空性は「他性空」であって「自性空」ではない。
事物の本体は真性の空であることを認識すべきであり、時輪金剛法を学び、長期にわたってヨーガ修行に励み、微細な身体を会得し、正誤の認識をよくし、事物の表面の迷霧を払い、真性体を洞察しなければならない。
こうして彼は中観他性空と時輪金剛法を結合させ、チョナン派の基礎を作ったのである。一般にはユモ・ミキュ・ドルジェがジョナン派の始祖と考えられている。
ユモ・ミキュ・ドルジェにはたくさんの弟子があったが、なかでもワダク・カルワ(Wa brag dkar ba)ニャルパド(gNyal pa gro)ニョギ・クンワ(gNyos skyi khung ba)チューキ・チャンチュブ(Chos khi byang chub / Dharma bodhi)チューキ・ワンチュク(Chos kyi dbang phyug / Dharma shva ra)らが知られている。
そのなかでもワダク・カルワとニャルパドは、はじめカダム派に学び、泥で封じ込めた庵室に長期間閉じこもって修行をした。その後ユモ・ミキョ・ドルジェに師事し、カーラチャクラの教えを伝授された。ふたりともまたたく間に「勝義を獲得し、深く理解し、究竟成就を遂げて広大なる神通を会得した」という。
ニャルパドは70歳のときユモ・ミキキュ・ドルジェに拝し、カーラチャクラを学び、のちンゴルジェ(Ngor rje)に伝え、ンゴルジェはまたドルワ・ガルトゥン・ワンチュクトゥブ(Dol ba ’gar ston dbang phyug grub)に伝えた。
チューキ・チャンチュブ、梵名ダルマ・ボーディは、ユモ・ミキョ・ドルジェに学んだあとデウォ・ゴンポ(Dre bo mgon po)に法を伝えた。デウォ・ゴンポは学んだあと弟子をたくさん取り、これらの弟子からカーラチャクラが広がった。
ユモ・ミキュ・ドルジェの弟子のなかでもっとも有名なのはチューキ・ワンチュクで、ド系のカーラチャクラ伝承者の9代目と目されている。チューキ・ワンチュク、梵名ダルマ・シャラ(法自在)は、ユモ・ミキョ・ドルジェ50歳のときの子であり、12歳にして父から灌頂法門を受け、16歳のときからカーラチャクラに関する経典や釈論を父から学び、修行や秘訣の伝授を受けた。20歳になる頃には、カーラチャクラの法要のすべてを熟知し、修練を積んだ。弁才にも秀で、当時名の知れ渡った仏教学者ギャリンパ(rGya gling pa)を弁論において打ち負かしたほどである。
ド系のカーラチャクラ伝承者10代目は、チューキ・ワンチュクの有名な弟子、ナムカ・オセル(Nam mkha’ ’od gsal 虚空光)である。『青冊史』は彼をカンサワと称し、顕密に通じ、カーラチャクラの経論注釈とナーガールジュナの中観理集六論に精通し、『光鬘論』などの論著を多数著したとする。修行もよくし、「究竟三昧の功徳を具えた大徳」と評した。
ド系のカーラチャクラ伝承者11代目はチョブム(Jo 'bum)、12代目はセモチェワ・ナムカ・ギェルツェン(Se mo che ba Nam mkha’ rgyal mtshan)である。このふたりは姉と弟で、チューキ・ワンチュクと妾のあいだに生まれた二女一男の長女と長男という。
チョナン派の伝承によると、チョブムはウッディヤーナ国インドラボーディ王の妃リカシャンカラ(Likashakara)の化身だという。母の指示によって幼少の頃から呪詛法を学び、敵をしばしば降伏させた。のち父からカーラチャクラを学び、経典および各種注釈を系統的に理解した。父の教授のもと、無上瑜珈時輪金剛六支加行法を修し、すみやかに悟ることができた。「一日で究竟十種を悟り、七日目には風息を中脈に入れることができるようになっていた」という。こうして成就者となった。
仏教史のなかでこの女性修行者に対する評価は高い。たとえば「彼女の福徳は自ら成就した瑜珈母と等しい」と評し、聖母とみなしている。
セモチェワ・ナムカ・オセル(ギェルツェン。チョブムの弟)、こと虚空幢は、幼い頃から耳と舌が不自由であったというから、聾唖者と思われる。彼は障害という困難を乗り越えて生きた。長じてカンサワ・ナムカ・オセル(虚空光)から『時輪タントラ』およびその注釈を学び、六支加行とナーロー六法を習得し、肉体の障害を乗り越えて「清浄サマディーに至る能力と宿縁に通ずる能力、自身の前世を思い起こす能力」を獲得した。
カーラチャクラを学ぶ過程で彼は姉のチョブムに師事した。姉はインドのナーローパが著したカーラチャクラ灌頂に関する『灌頂略示』や『灌頂略示蓮華疏』などを教えた。その後ツァン地方のドンチュン寺(Grong chung dgon)の住持となり、名声は高まった。晩年、オルン谷('O lung)にセモチェ寺(Se mo che dgon)を建てた。セモチェワの名はここに由来している。また修行者としても名を馳せ、大修行者セモチェワ、略称セチェンと呼ばれた。
セモチェ寺建立は、ド系カーラチャクラのチベットにおける伝播の基盤となった。信仰者は日増しに増え、チョナン派は独立した教派を成していった。
『青史』は当時のカーラチャクラの流布について記している。もっとも有名だったのはボトン・リンポチェ(Bo dong rin po che)の一派だった。
ボトン・リンポチェはツァン地方ボトンの出身で、法名をリンチェン・ツェモ(Rin chen rtse mo)と言った。宝頂という意味である。彼はセモチェワ・ナムカ・ギェルツェンからカーラチャクラの解釈と修持密法を学んだ。ツァン地方でボトン・リンチェンが時輪金剛像を塑像したとき、弟子たちに向かって『時輪タントラ』を講義し、修行のしかたを指導し、「立てた傘の下」の18の成就者の弟子を育てた。立てた傘とは、法座の後ろに立つ傘のことであり、高い地位の宗教者の権威を高めるためのものである。
ボトン・リンポチェにはたくさんの弟子がいたが、パリルン(Pha ri lung)出身のタクテバ・センゲ・ギェルツェン(sTag sde pa seng ge rgyal mtshan 1152-1234)が知られている。彼はボトン・リンポチェからカーラチャクラを学んだあと、ロドン(Log grong)など各地に広め、「立てた傘の下」の弟子を13人持っていた。同時にチョブムとセモチェワから学び、のちのジョナン派の「仏性本具」「衆生平等」の思想へと向かう一歩目を踏み出したといえよう。
セモチェワ・ナムカ・ギェルツェンの弟子のなかでもっとも知られるのは、ド系の13代目ジャムサワ('Jam gsar ba)である。またの名をチュージェ・ジャムヤン・サルマといった。新文殊法王という意味である。本名はシェラブ・オセル、すなわち智光、ツァン地方のニャンド(Myang stod)の人。年少期は故郷でニャシク(gNya' zhig)などの師のもとに学んだ。伝記などによると、彼は善行によって身を清め、厳しく持戒し、長年にわたって閉じこもり、金剛手法の修行をし、成就して、ついには一切の鬼神を使役する能力を得た。またツァン地方ニャンドのキャンドゥル寺(rKyang 'dur dgon)で法を教えたこともある。
のち文殊菩薩の授記を得て、ニャンドのドンチュン寺(Grong chung dgon)に行き、セモチェワ・ナムカ・ギェルツェンに拝し、カーラチャクラ灌頂を受け、『時輪経』や各種釈論を学び、法の修持によって究竟を証し、瑜珈自在を成し、学ぶのにも教えるのにも優れていた。彼は深く一切の教誡を信じ、定力が深く、つねに経律論の三蔵を教えた。
彼は名を成したあと、山中に禅修院を建て、ならびにキャンドゥル寺の時輪学院を創建した。学院を主持しながら、修法・教誡について教え、禅修を指導した。彼によって時輪教法はツァン地方全体に広まった。
ジャムサルワ・シェラブ・オセルの弟子のなかでもっとも知られたのが、14代目伝承者とされるチューク・オセル(Chos sku 'od zer)である。チューク・オセル(法身光)は代々仏教を信じ、仏教文化の影響下にある家庭に育った。父はセディンパ・ションヌ・オキペーパ(gSer sdings pa gZhon nu 'od kyi dpal pa 童隠光)という名の有名な学識のある居士だった。
チューク・オセルは幼いときから聡明で、タクパ・リンチェンダク(sTag pa rin chen grags 宝称)から秘密集会(グヒヤサマジャ)金剛法を学んだ。タクパはグヒヤサマジャの教えの代表的な伝承者だった。家庭環境に恵まれ、仏教諸理論に通暁し、クンチェン(一切智)と呼ばれた。名を成したあと、『秘密集会タントラ釈』の講義に時間を費やし、ラマ・パクオ('Phags 'od 聖光)などの弟子を輩出した。
のち父親の指示によってジャムサルワ・シェラブ・オセルに拝謁し、大威徳(ヤマンタカ)金剛灌頂を受け、『時輪灌頂』などの教法を聞き、智慧曼荼羅灌頂を受け、一切の心を散漫にさせる障害物を取り除いた。そして隠棲所室に長期こもって修行し、悟りの心が起きるようになり、「楽空双運」のサマディーの境地に達した。
彼はまたジャムサルワの師セモチェワからも学び、『時輪タントラ』などカーラチャクラの解釈をよく聞いた。
中年になって以降、カーラチャクラの本タントラ、釈論、灌頂、修法教誡などを教え、カーラチャクラの主要な継承者および伝播者となった。その主要な弟子のひとりは、伝承者15代目のクンパン・トジェ・ツォンドゥ(Kun spang thogs rje brtson 'grus)である。
チューク・オセルの没年はわからないが、生年はカチェ・パンチェン・シャーキャ・シュリ(Kha che pan chen shakya shri)がカシミールに帰国した二年目、すなわちチベット暦の木の犬の年である。
カチェ・パンチェン・シャーキャ・シュリとは、チベット仏教史上よく知られたインド・ナーランダ寺の最後の座主を務めたカシミール・パンディタ(1127-1225年)のことである。1204年、トプ訳経師(Khro phu lo tsa ba)の招請に応じてチベットにやってきた。サパン・クンガ・ギェルツェンの師であり、1208年にはサパンに比丘戒を授けた。
ツェテン・シャブドゥン(Tshe tan zhabs drung)の『チベット族歴史年鑑』によると、カチェ・パンチェン・シャーキャ・シュリがカシミールに帰国したのは1214年である。『年鑑』には「この年セディンパ・ションヌ・オキペーパの子チューク・オセルが生まれた」と記されているのである。この年はチベット暦第四巡の木の犬の年だった。
3 ジョナン寺の建立とチョナン派の形成
カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来た時代から、チューク・オセルの弟子クンパン・トゥジェ・ツォンドゥの時代まで、ド系の伝承者でいえば10代、およそ250年にも及ぶ。この期間中、歴代の伝承者や弟子たちの主な活動場所はツァン地方のニャンチュ川流域だった。ドンチュンやキャンドゥルなどのニャンドゥ地方の各寺院に影響があり、時輪禅院や時輪学院が建立された。とくに8代目のユモ・ミキュ・ドルジェは他性空に関する著作を数多く発表し、セモチェ寺を建立し、密教の他性空の源流となった。
師から弟子への伝授によってカーラチャクラは伝播していったが、世俗勢力の支持はかならずしも大きくはなかった。その原因は、影響力のある根本的な法要が確立されていなかったことが挙げられる。クンパン・トゥジェ・ツォンドゥのときになってチョナン寺が建立され、独立したひとつの宗派を成していくと、この寺の名からチョナン派と呼ばれるようになった。
クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ(1243-1313)、訳して「悲精進」は、ツァン・ラトゥジャン(La stod byang)のサキャに近いンガチャル・パンガン村(Ngab phyar spang sgang)の出身で、はじめサキャ寺に学び、ツァン地方の各寺院を遊学し、顕密に通じ、当時著名であった学者チュミパ・センゲペ(Chu mig pa Seng ge dpal)らをも討論において打ち負かしたという。
のちカーラチャクラに集中的に取り組むようになり、ラ系(Rva)のカーラチャクラの灌頂、修行、秘訣などを学び、チューク・オセルに師事してからは、ド系('Bro)の灌頂、経典義釈を学んだ。彼の学んだ6つの加行(ヨーガ)による修行法は17種にも及んだという。
それらを学んだあと、彼はキャンドゥル寺のチュベンに任命された。チュベンはのちのチョナン寺経院の講義ケンポ(住持)にあたり、一般には各種経論に通じたゲシェ(博士)が担当し、経院の経文講義の責任者である。
クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥがキャンドゥル寺のチュベンを担当した時期に、社会活動能力が高いことを示した。ツァン地方の有力な勢力と接触し、さらにウー地方のラサやイェルパなどに行って、精力的に布教活動を行った。
三十歳をすぎて、彼は「命厄を除く」ため、俗を離れ遁世し、修行に専念したため、クンパンワ、すなわち「離一切事務者」と呼ばれた。
ジョナン派の伝えるところによると、クンパンワは修練によって成就を遂げた大徳である。クンパンワは、カーラチャクラの6つの加行の修法に精通し、その修練によって運気を高め、五大の風を起こすその力は無比であり、十人が力を合わせても彼の手を動かすことすらできなかった。ひとつの部屋のなかで、ある人は寒さに耐え切れず、ある人は暑さに耐え切れなかったという。部屋のなかでも場所によって運気が異なっていたのだ。
さらにクンパンワは壁の小さな穴を通り抜ける能力があった。またつねに瞑想しているときに十一面観音などの本尊を見ることができた。すべての仏典に通じ、修練によって神通力を得たので、その名声はおおいに広まった。
11世紀中葉以来、チベットの社会は発展し、地方封建勢力が統治を強固にし、経済力を強めるために、相互に争奪しあうなかで宗教は無視できなかった。とくに影響力のある宗教人をどう取り入れるかは、統治のために重要だった。宗教勢力側からしても、世俗政権の支持は不可欠だった。政治のサポートを得て、経済的にも支えられることは、宗教の発展につながった。このような状況下で、各勢力の支持を得た宗教的人物はそれぞれの特色を鮮明にし、布教を進めながら変化していった。聖跡の伝説があれば、そのまわりに影響の及ぶ場所に根本道場を建てた。これによってさらに影響力を周囲に与え、あらたに宗派を形成することになる。ジョナン派はこのようにして独立した宗派としてチベットに出現したのである。
クンパンワは名を成したあと、ラトゥジャンの首領によってジョナンの地に布教をするよう要請された。その首領は、『ジョナン教法史』によればナクメン・ギェルモ(Nags sman rgyal mo)、すなわちナクメン女王である。『青史』によればチョモ・ナクギェル(Jo mo nags rgyal)、すなわち女首領ナクギェルである。ナクギェルはナクメン・ギェルモの略。ナクメンはラトゥジャン地方の女首領の名。チョモナン、縮めてチョナンは、シガツェ地区ラツェ県内のナクギェル・ペルギ山(Nags rgyal dpal gyi ri)のこと。この山は険しく、溝と谷が縦横にあり、洞窟がふんだん、風景は美しく、静かで、僧侶たちにとっては古来より理想的な修行地だった。修行のための庵室も少なくなかった。
伝承によると、吐蕃期のヌプチェン・ナムカイ・ニンポ(sNubs chen Nam mkha'i snying po)こと虚空蔵、ダムデ・ルイギェルツェン(Dam 'bre klu'i rgyal mtshan)こと竜幢、ナナムパ・ツルティム・チュンネ(sNa nam pa Tshul khrims ’byung gnas)こと戒生および後世のドクミ訳経師('Brog mi lo tsa ba)の女弟子コンチョク(dKon mchog)ら名僧都はみなここに長期間滞在し、修行した。
このなかでコンチョクは唯一の女ヨーガ行者であり、この地で(解脱して)虹身となったという。コンチョク虹化(入寂)の80年後、マチク・サンギェ(ma cig sans rgyas)がこの地にやってきて、長期間修行し、禅院を建立、自身住持を務めた。ここではカダム派の三士道次第のほかニンマ派のゾクチェンもまた学ぶことができ、両者を融合させた。
この後、有名なグゲの大翻訳官リンチェン・サンポ(958-1055)も来て修練したという。瞑想中、リンチェン・サンポは吉祥天女(パルチェン・ラモ)や勝楽金剛(サムヴァラ)、パドマサンバヴァらを見ることができた。『ジョナン教法史』によれば、リンチェン・サンポはここに密教金剛禅院を建立した。
クンパンワがはじめてジョモナンに来たとき、30人以上の僧がここで修練していた。それを基礎に、ナクメン女王の支持のもと、ジョモナン寺、のちの通称ジョナン寺を建立した。クンパンワはここで耳伝の収摂、禅定、運気、持風、随念、三摩地など、無上瑜珈無二のカーラチャクラ六支加行の修練方法を記し、『タントラ部要義本釈』と名づけた。これはジョナン派の主要法門となった。
クンパンワは、サキャ派のいわゆる「はじめ福ならざるを捨て、中に我執を断ち、後に一切の見を除く」という道果(ラムデ)三次第および「境の二諦」学説など、より深い学習・研究に入った。そしてサンスクリットの清濁音などによって道果の法門を編集し、サキャ派が崇拝するドクミ訳経師の道果法理論の解説を行った。
これによりスムパ・ケンポ(Sum pa mkhan po)は著書『如意宝樹史』の中で「クンパンワの見はドクミの道果法とギチョ訳経師(Gyi co lo tsa ba)のカーラチャクラを混合させた。サキャ派に属する」と評されることになる。
ジョモナンにいたとき、クンパンワは周囲の地方豪族・勢力からたびたび招待された。クンパンワはセンゾン(Seng rdzong)キョクポ('Khyog po)キプクデデン(sKyid phug bde ldan)などに呼ばれ、伝教活動を行った。
彼は衆生を前に経典を義釈し、新旧の密教について講じた。なかでも重視していたのが「楽空双運」の六支加行法と『時輪根本タントラ』および各種釈論の伝授だった。著書『タントラ部要義本釈』の講座は、毎年二度寺の中で設けられ、毎回600人以上の聴講者が参加したという。
ジョナン寺を基礎として、ジョナン派は発展した。もとからあったドンチュン寺、キャンドゥル寺、セモチェ寺などの寺院は、他性空を宗見とするジョナン派寺院となった。
クンパンワの生没年に関する記載はないが、伝記などをもとに、チベット暦水のウサギの年に生まれ、水の牛の年、春二月二十五日に71歳で入寂したとされる。
クンパンワが没したとき、サキャ五祖のパスパ(1235-1280)は人生のなかばを折り返したばかりだった。クンパンワの弟子ジャンセム・ギェルワ・イェシェ(Byang sems rgyal ba ye shes)はカルマ・カギュ派開祖カルマ・パクシ(1204-1283)の法を受けた弟子でもあった。このことから、クンパンワは1243年に生まれ、1313年に没したと断定されよう。
『ジョナン教法史』によれば、クンパンワはジョナン寺建立後21年間、寺の住持を務めた。その後弟子のジャンセム・チェンポに付法し、数ヵ月後の水の牛の二月二十五日に入寂した。ジョナン寺の正式な建立は、しかし、1293年ということになっている。