絶頂期、そして衰退

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1 ポピュラー宗派化前夜

 ジョナン派形成初期、クンパンワ(クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ Kun spangs thugs rje brtson grus)とその弟子たちによって教義が広められ、勢力が拡大した。クンパンワの弟子のなかでよく知られるのがジャンセム・ギェルワ・イェシェ(仏智 Byang sems rgyal ba ye shes)ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲ(名称獅子 Mun me brag kha pa grags pa seng ge)スンワ・クンガギェル(遍喜勝 Sron ba kun dga rgyal)の四人。なかでもジャンセム・ギェルワ・イェシェはクンパンワに継ぐ16代目のカーラチャクラ伝承者と認められた。

 ジャンセム・ギェルワ・イェシェ、短く言ってジャンセム・イェシェワは、ジャンセム・チェンポという尊称で呼ばれた。彼はドカム人(四川省カンゼからチベット自治区チャムドにかけての地域)で、火の蛇の年(1257年)に生まれ、幼年期はカルマ・パクシ(12001283)を師として経典を学んだ。『青史』によれば、カルマ・パクシは彼を養子として、法・財両面で育てたという。

 カルマ・パクシはカギュ派黒帽(カルマ派)の創始者であり、本名はチューキラマである。ドカム地区のディルン('Bri lung)に生まれた。ディルンとは金沙江(長江上流)の谷の意味。カンゼとチャムドの間の地域を指す。カルマ・パクシとジャンセム・イェシェワはおそらく同地域の出身である。

 ジャンセム・イェシェワは何年間もカルマ・パクシに師事し、修法と教誨のすべてを学び、修練を積んだが、悟りを開くというところまでは行かなかった。ここにおいてカルマ・パクシは、学ばないことこそ法の機縁と考え、彼に聖地や山間の静かな庵室などを遍歴させることにした。教門の偏見をなくし、より高度な教えと出会うことがあると考えたのである。

 ジャンセム・イェシェワは師のことばに従い、故郷を離れて各地を遊学し、シャルワ・ジャムヤン・チェンポ(Shar ba jam dbyangs chen po)の門下生となった。そこに常住し、左右に侍り、こののち名を慕ってジョナン寺を訪ね、クンパンワに拝謁した。彼は六支瑜珈などのジョナン派の諸法を学び、法に依って苦行に耐え、悟りを開き、クンパンワの信頼を得て筆頭の弟子となった。

 ジャンセム・イェシェワは学を成したあと、大徳年間(12981307)に師の命を受けてジョナン寺付近にデチェン寺(bDe chen dgon pa)を建立した。経典や法を講じ、僧侶たちに密修を指導した。

 彼には人を善に導く慈悲の能力があり、人々は尊敬して彼のことをジャンセム・チェンポと呼んだ。短く、ジャンセムと呼ぶこともあった。「具大菩提心者」という意味である。

 元の皇慶二年(1313)、入寂する前夜、クンパンワはチョナン寺の衣鉢を彼に渡した。これによりジャンセム・イェシェワはチョナン寺とデチェン寺の座主となり、二つの寺を8年間主持した。そして鉄の猿の年(1320)の二月十日、入寂した。享年64歳だった。

 デチェン寺以外にも、ジャンセム・イェシェワはいくつかの修法禅院を建てた可能性がある。彼がこの世を去った場所も、プクモ・チューゾン・リト(Phug mo chos rdzong ri khrod)という隠棲所だった。

 『青史』によると、ジャンセム・イェシェワは特殊な大徳だという。彼に依止(えじ)した人々は、彼の教え導きによって、生起する殊勝の悟りを開き、最後に円満の境地に至ることができた。

 彼はチョナン寺の座主を継いだあと、ラマ・クンソパ(bLa ma kun bsod pa)ら善知識、およびジャンドゥやヨンズン(Yon btsun)の部族長といった大物がみなやってきて依止した。これらの記述から、ジャンセム・イェシェワは当時すでに名声を得ていて、ラトゥジャン地区でも布教活動が行われ、地方勢力の支持を得ていた。

 ラトゥパ・ワンギェル(La stod pa dbang rgyal)はジョナン寺のあるラトゥ地方の出身で、ジョナン寺で出家し、クンパンワに師事した。修練に励んで徹底的な悟りを習得し、名を成したあとゲワ(dGe ba)下部地区で布教し、ジョナン派の教法を広めた。クンパンワの叙述を書き留めた『修学指導』をもとに僧らを指導し、それによって多くの人が「修障」を取り除くことができた。

 ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲ(Mun me brags kha pa grags pa seng ge)はクンパンワの弟子のなかでも博識ぶりでは抜きん出ていた。出身地は古代「四ル」のひとつ「イェ・ル」北部のタンカル(Thang dkar)だった。

イェ・ルは、ナムリン(rNam gling)を中心とし、東はランマクルプ(gLang ma gur phub)、南はニェラム(gNya nang)、西はジェマラク(Bye ma la dgu)、北はミティ・チュナク(sMri ti chu nag)を境界とした。タンカルはあきらかに現在のラツェ県のタンカである。

 ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲは幼少のころ、ツァン地方のトプ寺(Khro phu dgon)のトプ活仏ソナム・センゲのもとで出家した。成年後は比丘戒を受け、トプ・カギュ派に所属した。

 またサキャ寺において、チャルワ・センゲペ(Phya ru ba seng ge dpal)から法称の『釈量論』などの因明の著作を学び、マイトレーヤの『弥勒五法』や竜樹(ナーガールジュナ)の『理集六論』など多くの密教経典で通暁していないものはなかった。

 サキャ寺で仏教の基本理論を学んだのち、仏教の重要な部分は修証であると考え、ジョナン寺へ赴き、クンパンワのもとに身を投じた。『六支加行導釈』を学び、ジョナン派に改宗した。

 のち彼はロン(Rong)地方へ行き、ガ翻訳官の幼子アガロ・センディから『時輪根本タントラ釈』やその他カーラチャクラ関係の論著を学んだ。隠棲所ヤールン・リト(gYa lung ri khro)では修練に励み、あいた時間で時輪経や六支加行修法を教えた。

 元の大徳六年(1302)、彼は現在のラツェ県タクカ(Brag kha)に定住し、長期間カーラチャクラ教法を修練した。そして六巡目の水の羊の年(1343)、89歳で世を去った。

 伝説によれば、彼はタクカで修行しているとき、毎日護摩を焼く儀軌を行い、瑜珈六支と生円二次第をつねに修していた。夏には閉じこもって外に出ず、寄付や献納を楽しみ、神通を得ると未来の予言ができるようになった。

 自分の身をもって修練を積み、六支加行、直感導修、能断法、五釘秘法を四大教導と呼び、自身の法門とした。彼の弟子はチュージェ・ラマ・タムパ(Chos rje bla ma dam pa 聖者法王上師)十難論師シュンヌ・センゲ・ロト(dKa bcu ba gzhon nu seng ge blo gros 童獅子慧)ワンヌシュワ・シュンヌペ(Ban mo zhu ba gzhon nu dpal 童祥)らである。

 スンワ・クンガギェル(Sron ba kun dga' rgyal)は、『青冊史』によればもともとモンゴル王室に委任された官吏で、パスパの命を受けて出家し、三蔵を学んだ。パスパは元の至元十七年(1280)に世を去り、スンワ・クンガギェルは南宋淳祐年間(124152)か宝祐年間(125358)に生まれたので、クンパンワと基本的に同世代である。

 スンワ・クンガギェルはサキャ派で出家して学び、のちジョナン派に入った。クンパンワを師としてジョナン派に改宗し、ジョナン派の各種教法を学び、修練法を会得した。伝えるところによると、禅定中に観自在菩薩や古代インドの成就者シャバリ(Sha ba ri)を見ることができた。これによりいくつかの異なる教法を自分のものとした。

 こうして彼はクンパンワのジョナン派六支加行などの修練法に独自のものを加えて統合し、スンワ系と称されるジョナン派の一派を形成した。

 その教法の継承者は、スンワ・チューペ(Sron ba chos dpal 法祥)とケンチェン・ソダクパ(mKhan chen bsod grags pa)の二大弟子である。当時はスンワ系の教法を学ぶ人がきわめて多かった。パデン・ラマ(dPal ldan bla ma)という僧の師もスンワ・クンガギェルと二大弟子からスンワ系の教法を学び、タナパ・チュジャンペ(法護祥)の師はスンワ・チューペからスンワ系の教法を学んだ。タナパ・チュジャンペはのち、ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲの弟子十難論師シュンヌ・センゲ・ロトゥに伝えた。

 ジャンセム・ギェルワ・イェシェがジョナン寺とデチェン寺の座主を務めているあいだ、ジョナン派の社会的影響力は日増しに強くなっていった。ツァン地方のラトゥジャン一帯の地方勢力の支持を得ただけでなく、サキャ派やカギュ派の僧らを吸引していた。彼自身、もともとカルマ・カギュ派からジョナン派に改宗していたのだ。その法は深遠で、カギュ派への影響は大きかった。没後、カルマ・カギュ派三世活仏ランジュン・ドルジェ(12841339)は彼の伝記を書いたほどだった。

 元の延祐七年(1320)、ジャンセム・ギェルワ・イェシェ入寂後、その弟子ケツン・ヨンテン・ギャツォ(mKhas btsun yon tan rgya mtsho 徳海)はジョナン寺の座主を引き継ぎ、17代目のカーラチャクラ継承人となった。

 ケツン・ヨンテン・ギャツォはジャンセム・ギェルワ・イェシェより3つ年下にすぎず、チベット暦の鉄の猿の年(1260)、ツァン地方のド(mDog)のカルニン(mKhar rnying)ベンパ村(sBen pa)のニンマ派を奉じる家庭に生まれた。

彼は少年期、当地のダルタツァン(mDar gra tshang)などの経院で経典を学んだ。青年期になってサキャ寺に入り、高僧シャルワ・ジャムヤン・チェンポ(Shar ba jam dbyangs chen po)短く言ってジャムヤンパに師事した。サキャ派の各種経典をよく読み、ジャムヤンパから認められた。

元の至元年間、彼はジャムヤンパについてモンゴルの上都へ行った。その後ジャムヤンパの許可を得てチベットに戻る。元の皇慶年間(131213)彼はジョナン寺に行き、ジョナン派に改宗した。ジャンセム・ギェルワ・イェシェとは師友の間柄で、ともにクンパンワからジョナン派の密教灌頂を受けた。

 しばらくしてクンパンワが世を去り、ジャンセム・ギェルワ・イェシェが座主となった。彼もまたギェルワ・イェシェに師事し、密法灌頂を受けた。ジョナン派の秘密の経典や密法、修練法などを伝授された。

 『ジョナン派教法史』によると、彼は修練をきわめてよくし、成就を遂げた。瑜珈修行を21日間行い、十種の証相の円満を得た。また昼間、瑜珈の修練によって空を飛ぶことができた。ひとたび矢の届かない外部に出ると、七日間、ジョナン地方の山や川を遊覧したという。こうして無碍の神通力を会得し、各種法や経典で通じざるものはなく、信徒のあいだではますます声望が高くなった。

 元の延祐七年、ジャンセム・ギェルワ・イェシェが逝去したとき、彼は齢61でジョナン寺の座主を継いだ。正統なジョナン派の法主であった。座主を務めること7年、チベット暦5巡目の火の虎の年(1326)、弟子のドルポパに付法した。その後二年もたたない火の兎の年(1327)八月五日、入寂した。享年68歳。

 

 

 

 

 

 

橋と建物

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2 ドルポパと弟子たち

 元の至元年間にクンパンワがジョナン派を形成してから、泰定三年(1326)ドルポパ(トゥルプパ)がジョナン寺の座主を継ぐまで、40余年。この期間にジョナン派は発展し、ツァン地方に多くの寺院や禅院が建てられ、一定の勢力を形成し、その他の教派にも影響を与えるようになった。ジョナン派の少なからぬ僧侶が、もともとニンマ派、カギュ派、サキャ派を信仰していたのだ。ドルポパの時代、チベットの重要な宗派のひとつといえるまでに成長していた。

 ドルポパ(12921361 智幢)、法名シェラブ・ギェルツェンは、元の至元二十九年(1292)、チベット・ンガリ、現在はネパール領のドルポのパンツァン家族(Pan tshang)のもとに生まれた。

 父の名はイェシェ・ワンチュク(Ye shes dbang phyug)、母の名はツルティムギャン(Tshul khrims rgyan)だった。家族は代々ニンマ派を奉じた。ドルポパは、幼い頃は故郷でキテンパ(sKyi stengs pa *叔父にあたる)を師とし、ニンマ派の教法とナーガールジュナの中観理集六論を学んだ。

11歳のときケンポ・ツルティム・ニンポ(mKhan po Tshul khrims snying po)から沙弥戒を授かり、シェラブ・ギェルツェンの名を取った。

 16歳のとき、サキャ寺高僧キトゥン・ジャムヤン・ダクパ(sKyi ston jam dbyangs grags pa)は、ンガリのヤツェ寺(Ya rtse dgon)へ行き、その帰り道にドルポに立ち寄った。

 ドルポパはキトゥン・ジャムヤン・ダクパに拝謁し、弟子となり、『現観荘厳論』『入中論』『倶舎論』『量決定論』などの顕教の経典と『金剛鬘灌頂法』やラ系の伝えるカーラチャクラの70余種の密法などを学んだ。

 この時期、ドルポパはすでに沙弥戒を受けていたが、出家したわけではなく、在家の居士にすぎなかった。元の皇慶元年(1312)、ドルポパ21才のとき、家出をして、ふたたび師のキトゥン・ジャムヤン・ダクパを拝謁し、般若、因明、倶舎などの諸学のほか、『入行論』および密法などを学び、サキャ寺で出家した。

 22歳のとき、ドルポパはケンチェン・ソナム・ダクパ(mKhan chen bsod nams grags pa)によって比丘戒を受けた。

 王森『チベット仏教発展史略』によると、ドルポパがサキャ寺で顕教四大論、すなわち『現観荘厳論』『入中論』『倶舎論』『量決定論』を講義したとき、ほかの人の非難を気にせず、サキャ寺で教えるのが禁止されている『入中論』も講義した。それによりサキャ派の僧として罰せられてしまった。

 こののち、ドルポパはチベット各地の大寺院などを遊歴するようになり、さまざまな弁論い参加し、多くの師から顕密の教えを学んだ。こうして当代一の大学者が誕生したのである。仏教学のすべてに通じていたので、人々はドルポパのことをクンケン(Kun mkhyen)すなわち「遍知一切」と呼んだ。現在もチョナン派の僧はドルポパをクンケン、あるいはクンケン・チェンポと呼んでいるという。

 史書によると、ドルポパはツァンのタナク(rTa nag)で、リンチェン・イェシェ大師から薬石を借りて、寿命が延びる摂生術を学んだ。そして『弥勒の五法』、三種の『般若経』を学んだ。彼は『般若十万頌』をすべて、そらで読むことができたという。

 元の至治二年(1322)、ドルポパ31歳のとき、ジョナン寺へ行き、ジョナン派に改宗した。当時の座主ケツン・ヨンテン・ギャツォから数年間、カーラチャクラに関するすべての義釈、経論、密法を学んだ。法に依って修持し、ついに悟りを得たという。

 これにより、一般には、ドルポパにとってもっとも重要な師は、キトゥン・ジャムヤン・ダクパとケツン・ヨンテン・ギャツォのふたりだとされる。

 ドルポパの顕教の基礎はキトゥン・ジャムヤン・ダクパから与えられた。サキャ派の特徴が顕著である。一方、密教の基礎はケツン・ヨンテン・ギャツォから与えられた。こちらはジョナン派の伝統である。

 元の泰定三年(1326)、35歳のドルポパはケツン・ヨンテン・ギャツォの後を継いでジョナン寺の座主となった。またジョナン派の18代目と認められた。

 座主として35年務め、元の至正二十一年(1361)、ドルポパは70歳で入寂した。

 在職期間中も、ドルポパは日夜苦労し、ジョナン派の理論体系をまとめ、教派の発展に貢献した。彼の弘法事業はつぎの三つに分類される。

1)寺院、仏塔建設

 ジョナン寺に「見者皆得解脱大仏塔」を建てる。これはジョナン派のもっとも有名な仏塔で、『ジョナン派教法史』によれば、ドルポパはこの仏塔の建造工程に数年間を費やした。完成したとき、天には虹が輝き、谷には渓流が流れ始め、暴風が突然やむなどの奇跡が起きたという。ジョナン派の僧は後世までこの仏塔を誉れとし、四川アバ地区ではこれを模倣して多くの仏塔が作られた。

 ドルポパはコモナンにいながら、プクモ・チューゾン(Phug mo chos rdzong)やジワルプク(sPyi bar phug)などの岩山に多くの仏塔や仏堂を建てた。それらの一部はなお残存している。

 このほかンガムリン寺(Ngam ring dgon)を創建し、その寺付属の講経院も創始した。

 

2)ジョナン派教義の伝道

 ドルポパがジョナン寺で講義をするとき、少なくとも二千人、多い場合数え切れないほどの弟子が集まった。どれだけの信徒に灌頂、授戒、伝法を賜ったか、想像することすらできないほどである。

 またラサ、チュールン(Chos lung)、ウユク(’U yug)、ニェモ(sNye mo)、トゥルン(sTod lung)、ヤンドク(Yar brog)などに足を伸ばし、法を広めたときも、毎日数百人が集まったという。

 元の至元五年、ドルポパは弟子のロドペ(Lo tsa ba bLo gros dpal)に座主の職務を任せ、自身はウー地方(中央チベット)に長期滞在し、布教活動を行った。ラサで時輪金剛六支加行を十一ヶ月行うかたわら、『時輪根本続釈』『般若十万頌』『灌頂総示』『ナーロー六法広釈』『中観賛頌集』『心経』『山法了義海論』などを教えた。

 その講義を聴く者は、上は上師(ラマ)や善知識、地方首領から下は一般民衆、はては乞食まで、多いときには1800人も集まったという。同時にドルポパに護符を求めて来る者も後を絶たず、日に百人にも達した。このようにドルポパの布教活動はツァン地方からウー地方にまで及び、宗派ができて以来最初の全盛期を迎えたのである。

 その名は遠くにまでとどろき、モンゴル王室は中国への布教を促したほどだった。ただしドルポパは修練に忙しく、実現することはなかった。ドルポパはこのようにチベットだけでなく、中国の上層階級への影響力をも持っていた。

 

3)ジョナン派の教義と理論の確立

 ドルポパはジョナン派了義と中観学の集大成者だった。クンパンワ(クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ)によって中観他性空説が切り開かれたとはいえ、その中心となるのは六支加行法の整理とまとめであり、顕教方面の理論は十分とはいえず、サキャ派の四大理論をその基本としていた。

 ここからジョナン派の開祖をだれとすべきかという論争が生じることになる。根本道場であるジョナン寺を創建したことから、クンパンワを開祖に推す声がある一方、ジョナン派の根本教義である中観他空説という理論体系を生み出したことからドルポパを支持する声が大きいのである。

 ドルポパは顕密に通じたことで世に広く知られた。彼が教え説いた顕教経典は、竜樹の「理集六論」や弥勒の「慈氏五論」のほか、『賛頌集』『教戒集』『般若十万頌』『般若波羅密多心経』『心釈三類』『入行論』などだった。

 一方密教経典は、『時輪経』『灌頂総示』『喜金剛三続』『喜金剛続ナーローパ大疏』『空行海論』『金剛鬘』『密集明灯』『紅黒怖畏三閻曼徳迦タントラ』などだった。

 弟子たちに授けた灌頂は、時輪、金剛鬘、勝楽、喜金剛、密集、閻摩敵、金剛界、馬頭明王、金剛厥など本尊法だった。

 チベット暦六巡目の木の犬の年(元至順四年、1333年)、ドルポパは弟子のマデ・パンチェンと訳経師ロドペ(Lo tsva ba bLo gro dpal)に『時輪経』を改訳するよう要請した。この改訳をもとにしてドルポパは『時輪金剛無垢光大疏偈頌釈』『吉祥時輪経智慧函深奥了義集要』『時輪意壇現証広論』などを著し、時輪金剛灌頂や儀軌、修練方法などについての文章を書いた。

 ドルポパが著した『山法了義海論』『山法海論科判』『第四結集』など他空説の基本教義を解説したものは、ジョナン派の根本経典となった。

 このほか『般若経』『現観荘厳論』『究境一乗宝性論』などの解釈本も著した。

 『ジョナン派教法史』によると、ドルポパは一生涯に『山法了義海論』などチョナン派の教義に関する著作が16編、『時輪科判』などカーラチャクラに関する著作が18編、祈祷経文3部25種、大悲観音法23種、賛頌14種、『金剛鬘灌頂』など灌頂法3種、書信8種、そのほか『般若釈』『四吉祥経』などを著した。

 ザムタン(四川アバ州)のツァンワ寺(Dzam thang gTsang ba dgon)が保有する『ドルポパ全集』は、7函74種3289ページにも及ぶという。チベットの経典の木刻には両面があり、1ページは実質2ページなので、6578ページの大著ということになる。ジョナン派の各寺院が供奉するこれら著作は、学ぶ僧らにとってよき教材でもある。

 ドルポパは仏学の造詣が深いだけでなく、密教の修練を集中して行った。法を学ぶのに、かならず実践した。晩年にも講義を与えるほか、修練の仕方も伝授した。

 伝記によると、彼は禅定のとき、観音、文殊、金剛手、ターラ、薬師仏、弥勒などの仏、菩薩のほか、空行海、幻網、金剛亥母、金剛界などの曼荼羅を観想した。また怙主ならびに毘沙門天護法を自在に使用し、呪符を記して魔の侵入を防ぎ、幻影を自ら作り出した。逝去する前の五年間は、辟穀し、二便を断ち、トゥモ(臍輪火)で起こし、気(プラーナ)の統制をすることができた。

 ジョナン派の信徒はドルポパに対し無限の尊敬の念を抱き、はなはだしくは、シャムバラ王の白蓮法王の転生ではないかと考えるにいたった。

 ドルポパには多数の弟子があった。そのなかでも知られるのが、クンパン・トゥジェ・ツォンドゥ(Kun spangs thugs rje brtson grugs)、訳経師ロドゥペ(Lo tsva ba bLo gros dpal)、ササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen)、ディグン訳経師マニカシュリ(’Bri gung Lo tsva ba Ma ni ka shri)、シャントゥン・ギャウォ・ソナムダク(Zhang ston rgya bo bsod names grags)、タンポチェ・クンガブム(Thang po che kun dga’ ’bum)、メンチュ・カワ・ロドゥ・ギェルツェン(sMan chu kha ba bLo grogs rgyal mtshan)、チュージェ・リンチェン・ツルティム(Chos rje rin chen tshul khrims)、ガルンパ・ライギャルツェン(Gha rung pa Lhai rgyal mtshan)、チュージェ・プンツォク(Chos rje phun tshogs)、タントゥン・チュンワ・ロドゥペ(Thang ston chung ba blo gros dpal)、チョレー・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal)、ニャブンパ・クンガペ(Nya dbon pa kun dga dpal)の13人である。

 このなかでもチョレー・ナムギェルとニャウンパ・クンガペはチョナン寺の座主を務めたことがあり、ジョナン派19代目と20代目の伝承者とみなされる。この13人に加え、孫弟子のツェ・ミンパ・ソナム・サンポ(mTshal min pa bsod names bzang po)とあわせて14人がドルポパの重要な継承者と考えられる。現在に至るまでジョナン派信徒は彼らを尊敬していて、寺院にはかならず彼らの肖像や彫像が置かれている。

 いまもジョナン派各寺院の壁には、遍知三世真実仏、すなわちドルポパを中心に据え、14人の弟子に囲まれた「ドルポパ師徒弘法図」が見られる。

 

 14人の弟子のプロフィールを詳しく示そう。(詳細は次章)
1)クンパン・チューダクペ(Kun spangs Chos grags dpal 1283-1363
2)訳経師ロドゥペ(Lo tsva ba bLo gros dpal 1299-1353
3)ササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen 1294-1376
4)ディグン訳経師マニカシュリ(’Bri gung Lo tsva ba Ma ni ka shri 1289-1363
5)シャントゥン・ギャウォ・ソナムダク(Zhang ston rgya bo bsod names grags 1280-1358
6)タンポチェ・クンガブム(Thang po che kun dga’ ’bum 1331-1402
7)メンチュ・カワ・ロドゥ・ギェルツェン(sMan chu kha ba bLo grogs rgyal mtshan 1339-1413
8)チュージェ・リンチェン・ツルティム(Chos rje rin chen tshul khrims 1345-1416
9)ガルンパ・ライギャルツェン(Gha rung pa Lhai rgyal mtshan 1319-1401
10
 チュージェ・プンツォク(Chos rje phun tshogs 1304-1377
11
 タントゥン・チュンワ・ロドゥペ(Thang ston chung ba blo gros dpal 1313-1391
12
 チョレー・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal 1306-1386
13
 ニャブンパ・クンガペ(Nya dbon pa kun dga dpal 1345-1439
14
)ツェ・ミンパ・ソナム・サンポ(mTshal min pa bsod names bzang po 1341-1433

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドルポパ(12921361)の14人の弟子

 

1)  クンパン・チューダクペ(Kun spangs Chos grags dpal 1283-1363

 漢訳は法称詳。虚空蔵菩薩の化身と言われる。ラルン(ra lung)出身。ドルポパより10歳年上。5歳のときからチベット語の学習を始め、修辞、詞藻、韻律、劇、星象の五明文化を学んだ。7歳のとき仏教に帰依し、師を拝し仏典を学習した。21歳からチベット各地を遊歴し、各寺院を訪ねて弁論を交わし、名のある高僧に就いてさらに研鑽した。元大徳九年(1305)、23歳のときジョナン寺に行き、ケツン・ヨンテン・ギャツォ(mKhas btsun yon tan rgya mtsho)から比丘戒を受けた。のちにドルポパに拝し、師とし、ジョナン派の教法を系統的に学習した。

 学を成したあとクンパンワは故郷に戻り、トゥンパ・イェペ(sTon pa ye dpal)から現在のトゥルン・デチェン(stod lung bde chen)県内のチュサン寺(chu bzang dgon pa)を譲られた。彼はこの寺を主要な伝法道場とし、講聴制度を確立し、経院を設立するなどして、ジョナン派教法を広めた。

 元の至正年間、ドルポパの代表として内地(中国)に赴き、元朝王室と関わり合いをもつが、81歳のとき、ジャンワ・センティという者に殺された。著作には『仏教基道果三位論』『タントラ分類』などのほか暦算関連が多数あった。彼はサンスクリットに通じ、翻訳にも長けていた。訳書に『妙吉祥見許論』などがある。

 

2)訳経師ロドゥペ(Lo tsva ba bLo gros dpal 1299-1353

 漢訳は慧祥。除蓋障菩薩の化身といわれる。ドメ(mDo smad)出身。幼いときから師を拝謁して経典を学び、15歳にして因明、般若、上下対法(『集論』と『倶舎論』)、戒律諸学に通じ、その名が知られた。その後故郷を離れ、中央チベットを遊歴し、論戦を戦わし、各師のもとに参じ、学究を深めた。

 25歳のときダクラム地方(Brag ram)でパン(dPang)訳経師ロドゥ・テンパ(1276-?)を師とし、サンスクリットやチベット語を学んだ。パン訳経師は当時よく知られた仏教学者にして翻訳家で、インドの仏教学者ブッダジュニャーナの『集量論注釈』や『時輪経義疏』を訳し、『三身明論』を著した。ロドゥペはここで翻訳の基礎知識を学び、のち訳師という称号を得た。パン訳経師に師事している間にドルポパの博学であることを聞き、チョナン寺に拝謁に行き、ドルポパの弟子となった。チョナン寺で彼はドルポパからタンギュル(大蔵経)の釈論を学び、チョナン派密教の教義を伝授された。

 元の至順四年(1333年)、彼はササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen)改訳の『時輪経』を師から頂戴した。至元五年(1339年)ドルポパが長期外遊に出ている間、かわりにチョナン寺の座主を務めた。至正十三年(1353年)、51歳で入寂。彼は仏典の解釈や暦算方面に秀で、著作も多くあったが、後世には伝わらなかった。

 

3)ササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen 1294-1376

 「ササン訳経師」、法名ロドゥ・ギャルツェン、漢訳して慧幢は、弥勒菩薩の化身といわれる。阿里(ンガリ)の出身で、4歳にして「弥勒の五法」を念誦することができたという。15歳で名を成し、25歳のときツァンのシャル寺で座主から比丘戒を受けた。同年シャル寺の夏の法会に参加したときドルポパの盛名を聞き、ジョナン寺へ行った。ドルポパに拝謁し、心伝弟子となった。

 またパン訳経師ロドゥ・テンパとクンパン・チューダクペのもとで仏法や翻訳理論を学び、翻訳に長じると、ロドゥペと共同で『時輪経』を改訳した。

 元の至正年間、ダワ・ギェルツェン(月幢)はササン・ガデン寺(Sa bzang dga ldan dgon)を含む法産をすべてササン訳経師に奉じた。これによってこの寺を主要道場とし、弟子を育て、ジョナン派の教法を広めた。それゆえ「ササンパ」と呼ばれるようになった。

 晩年にはチャムリン地方の首領であるドラパに要請され、チャムリン寺(Byams gling)に巨大な塔を建てた。それはジョナン吉祥塔と呼ばれた。

 著書には『声明論疏』『入行論釈』『取捨顕明論』『仏像尺度経』など。明・洪武九年(1376年)、83歳で入寂した。

 

4)ディグン訳経師マニカシュリ(’Bri gung Lo tsva ba Ma ni ka shri 1289-1363

 マニカシュリツェンとも呼ばれ、普賢菩薩の化身という。キェルプ(sKyer pu)の生まれ。早くからディグン派の僧となった。幼い頃より聡明で、3歳にしてサンスクリットを読誦することができた。15歳のとき経典の学習で名を成し、サンスクリットに通じ、翻訳に秀でていた。現在の墨竹工?(メトグンカル Mal gro gung dkar)県のディグンティル寺('Bri gung mthil dgon pa)の住持となり、寺の規則を整えた。

 元の至大二年(1309年)、ドルポパはラサ川流域のニェタンに布教のためにやってきたので、その機にマニカシュリは拝謁し、カーラチャクラ灌頂を受けた。チョナン派の各種法門を学び、ドルポパの主要弟子のひとりとなった。

 この後チョナン寺に8年住し、僧や衆生に『時輪根本タントラ』や各種釈論を教えた。仏学知識は計り知れないほどで、弁論の才でもよく知られた。伝説によれば彼は25名のゲシェ(博士)を討論で破ったという。のちカディンプンポ静房(mKha lding phung poi ri khrod)に起居し、僧の指導にあたった。元の至正二十三年(1363年)この静房で逝去した。享年75歳。

 

5)シャントゥン・ギャウォ・ソナムダク(Zhang ston rgya bo bsod names grags 1280-1358

 シャントゥン・ソナムダクの漢訳は福称、密主金剛手の化身といわれる。キショ(sKyid shod)の生まれ。6歳で経典を学び始め、14歳のときすでに因明、般若、声明などに通じていた。のちラトゥ(La stod)やシャルなどをまわり、各種討論に参加した。そしてドルポパの名声を聞き、崇仰するようになり、ついにジョナン寺へ行ってドルポパを師として拝謁した。ラ系統(Rva)、ド系統(’Bro)のカーラチャクラ両系統を学び、主要弟子のひとりとなった。

 元の至正三年(1343年)、シャントゥン・ソナムダク64歳のとき、林周(ルンドゥプ Lhun grub)県のラアンパ(Lha dbang pa)がペーテン寺(dPal stengs dgon pa)を彼に献上した。これより彼はペーテン寺の座主となり、経堂、仏塔を建て、仏像を造り、経典を揃えた。この寺院を道場とし、ジョナン派の教義を広めた。ここで弟子たちが経典を書写し、注釈を著した。座主を15年務め、至正十八年(1358年)逝去した。享年79歳。

 

6)タンポチェ・クンガブム(Thang po che kun dga’ ’bum 1331-1402

 あるいはタンチェン・クンガブム、漢訳は遍喜吉祥。リンチェン・サンポの化身といわれる。ラユルリントゥ地方(Ra yul gling stod)の生まれ。幼いときから自ら経典を学び、12歳にして般若、因明、対法、戒律など顕教に通じ、他者との弁論ではつねに勝ったという。のち『般若経』『中観論』『釈量論』『戒律本論』『倶舎論』など顕教五部大論および釈論に精通し、十難論師と呼ばれた。

 青年時代、ドルポパの『仏教総釈祈願経』を読み、心から崇拝し、ジョナン寺に行き、ドルポパを師として拝謁した。そして灌頂授法と顕密教論を伝授され、有名なドルポパの弟子となった。

 明洪武十一年(1378年)からリンチェン・サンポの後継者として謝通門県(bZhad mthong smon)のタナク寺(rTa nag dgon pa)の座主となった。6年務め、その間に顕密教の経典を教授し、たくさんの弟子ができた。

 洪武二十年(1387年)、ヤルルン寺(Yar lung dgon pa)に招かれ、そのアジャリから寺の管理を任され、仏像を造り、塔を建て、寺院や経堂を建設した。また学院制度を確立した。こうしてジョナン派の教法を広め、明・建文四年(1402年)72歳で没した。著書に『金剛鬘尺度経』がある。

 

7)メンチュ・カワ・ロドゥ・ギェルツェン(sMan chu kha ba bLo grogs rgyal mtshan 1339-1413

 略してメンチュ・ロドゥツェンは、漢訳して慧幢、文殊菩薩の化身といわれる。キショのトゥルン(sTod lung)生まれ。幼いときから自ら仏教を学び、13歳で基礎を固め、のち四部律典に精通し、弁をよくしたので、善弁王と呼ばれた。20歳頃チョナン寺に行き、ドルポパを師として拝謁し、カーラチャクラを学習した。

 元の至正二十一年(1361年)、ドルポパが入寂すると、ドルポパの弟子のクンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、法王チョクレ・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal)らに師事し、系統的にジョナン派の教法を学んだ。『時輪根本タントラ』およびその釈論や灌頂法門、教戒秘訣などにはみな精通した。

 明の洪武年間、甥のルンペ(Lhun dpal)がメンチュ・ロドゥツェンにタシメンチュ静房(bKra shis zman chui ri throd)を献上した。メンチュはこの静房を修繕し、読経と説法のための道場とした。彼は仏学に通暁し、何度も地方に呼ばれて講義し、ササン静房で『弥勒五法』を講じたこともあった。

 明の永楽十一年(1413年)、入寂した。享年76歳。著書に『喜金剛二品タントラ釈』など。

 

8)チュージェ・リンチェン・ツルティム(Chos rje rin chen tshul khrims 1345-1416

 略してリンツルワ、漢訳して宝戒、無著菩薩の化身といわれる。チャズィン(Bya rdzing)地方の生まれ。8歳のとき仏学を学び始め、多くの僧に師事し、顕密広く学ぶ。青年期にラブジュンワ(Rab byung ba)の指導を受け、その後ジョナン寺に行ってチョナン派の教義を学び、ドルポパの弟子となった。

 ドルポパ入寂後、クンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、ササン・マティ・パンチェンの三人を師として学び続けた。30歳をすぎた頃には、顕密に精通しているとしてチョナン派名僧といわれるようになった。

 明の建文四年(1402年)、現在の堆竜徳欽県(sTod lung bde chen)トゥルン・ナムギャル寺(sTod lung rnam rgyal)の座主ノルブ・サンポがこの寺を彼に献上した。この寺を拠点とするとともに、寺院建設に尽力をそそぎ、『時輪経』などのタントラ経典を講義し、ジョナン派の教義を広めた。またラサに近いグンタン(Gung thang)へ行き、時輪金剛六支加行修法を教えた。

 伝説はまた明朝の中国にも布教をしたとされ、その前にはジョカン(大昭寺)で自身の塑像を造った。明の永楽十四年(1416年)没する。享年72歳。著書に『入二資糧道論』など。

 

9)ガルンパ・ライギャルツェン(Gha rung pa Lhai rgyal mtshan 1319-1401

 漢訳して天幢。古代インド成就者アーリア・デーヴァの化身といわれる。デタン(sDe thang)生まれ。幼児より経典を学び、20歳にして名を成す。とくに中観に精通していたので、中観師とよばれた。グンタンなどの寺院で討論をすれば負けることなかった。ここでドルポパの名声を聞き、法を求めて拝謁し、弟子となった。

ドルポパ入寂後、クンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、ササン・マティ・パンチェン、チュージェ・チョクレ・ナムギェル(Chos rje phyogs las rnam rgyal)らドルポパの高名な弟子からチョナン派の教義を学んだ。

 のちクンパンワから委託を受けてガルン寺(Gha rung dgon pa)の座主を務め、法を広めた。弟子もたくさんいた。このあとナムカゾ寺(Nam mkha mdzod kyi dgon)の座主チャンチュブ・サンポからその寺を譲られ、この寺を道場とした。明の建文三年(1401年)逝去。享年83歳。

 

10 チュージェ・プンツォク(Chos rje phun tshogs 1304-1377

 漢訳して法王円祥。『撮行明灯論釈』を著したインド高僧シャキャ・シェニェン(Shakya bshes gnyen)の化身といわれる。ペンユル地方(’Phan yul)の生まれ。16歳より経典を学び始め、はじめはカルマ・カギュ派の僧となり、ランジュン・ドルジェやトクデン・タクパ・センゲ(rTogs ldan grags pa seng ge)らに師事した。

 のち『山法了義海論』を読んでドルポパに対して崇拝の念を強くし、元の至元年間にドルポパがニェタン地区に来たときに拝謁し、時輪灌頂を受けた。ドルポパより六支加行修法、『時輪根本タントラ』の教えを授かり、ドルポパの弟子となった。

 この後またプトゥン・リンチェンドゥプ(12901364)大師のもとで仏典を学んだ。名を成したあと、ラサ一帯、あるいはサンポ(gSang phu)一帯の寺で仏法を講じた。弟子たちから尊敬され、ペンユルにカラパ静房()を建てた。弁もたち、ラサでは右に出る者がいなかった。明の洪武十年(1377年)逝去。享年74歳。著書に『摧破金剛陀羅尼講釈』など。

 

11 タントゥン・チュンワ・ロドゥペ(Thang ston chung ba blo gros dpal 1313-1391

 略してタントゥン・ロドゥペ、漢訳して慧祥、ジョナン派開祖ユモ・ミキュ・ドルジェの化身といわれる。幼い頃ユモ・ミキュ・ドルジェが使っていた縄を認識できたという。中央チベットに生まれ、6歳のとき出家して経典を学んだ。故郷ではさまざまな優れた師のもとで修した。青年期にジョナン寺に行き、ドルポパを拝謁した。そのとき時輪灌頂を受け、六支加行法を学び、悟るところも多かった。またドルポパの弟子ら、すなわちクンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、ササン・マティ・パンチェン、チュージェ・チョクレ・ナムギェルに師事した。

 のち明の洪武年間に、トゥルン・ナムギェル寺の座主となった。洪武十四年(1391年)に逝去。享年79歳。

 

12 チョレー・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal 1306-1386

 またチュージェ・チョレ・ナムギェルともいう。漢訳して広勝法王、短くチョクパ、地蔵菩薩の化身という。元の大徳年間に阿里(ンガリ)のヤツァ王(Ya tsha rgyal po)が供養したニンマ派ラマの私生児だという。幼いときより父や叔父らニンマ派ラマから密教や『中論』『入菩薩行論』などの顕教の経典を学んだ。長じると家を出て、チューコルリン(Chos khor gling)、グンタン、サキャ、ダクラム(Brag ram)などを遊学し、多くの師から般若、因明などを学んだ。

 21歳になると各寺院の討論に挑み、若くして博学、聡明で弁が立つという評判を得た。ツェルパ(Tshal pa)万戸はチョレー・ナムギェルという名を贈った。それは広勝一切学者という意味であり、学者に対する最高のほめ言葉だった。

 チョレー・ナムギェルは名を成したあと、ツェル・グンタン(Tshal gung thang)やダクラムなどの寺院で講義をした。のちドルポパの他性空について考えるようになり、ジョナン寺へ行った。そしてドルポパと討論すること七日、ついに折伏された。他性空こそ一切仏法の精髄であり、反論の余地はなく、ドルポパに対してはこのうえなく敬服し、根本ラマとして崇拝するようになった。そのときに時輪灌頂を受け、長い年月師事し、ジョナン派の教法をすべて教えてもらった。

 彼は身を粉にするように修練に励み、『時輪根本タントラ』などの経典を読誦することに熟達し、密法を習得してきわめて高度な呪力を獲得したという。

 ほかに彼はプトゥン・リンチェンドゥプ大師のもとでも『般若経』『妙吉祥文殊名称経』などを学んだ。

 元の至正年間、ドルポパはンガムリン寺(Ngam ring dgon pa)を創建し、講経院もまた開き、チョレー・ナムギェルをチュペン(講経師)に任じた。ドルポパがジョモナンに戻ったあと、彼はンガムリン寺の座主となった。

 彼はそれから長い年月の間座主を勤めたが、つねに2千人の弟子を従えていた。ここで経典を講じ、法を教える以外に、彼は般若や因明に関する著作に従事した。著書には『般若経疏』などがある。

 元の至正十三年(1353年)、訳経師ロドゥペが入寂すると、ドルポパの推挙によって、チョレー・ナムギェルの弟子テンパ・ギャルツェンがンガムリン寺の座主となり、彼自身はジョナン寺の代理座主となった。6年間、ドルポパの仕事を助け、同時にンガムリン寺のチュペンを兼ねた。

 元の至正十九年(1359年)、職を辞して中央チベットへ向かい、セカルチュン地方(Se mkhar chung)でしばらく静居したあと、ヤルルン、ツェルパ、チャンチュブなどの寺院で僧や衆生に対し、時輪経の解説や時輪灌頂儀軌などを講じた。このほかツァンでは、シュプク講修院(Shug phug bshad sgrub grva tshang)を受け持った。

 元の至正二十一年(1361年)、ドルポパ入寂後、ふたたびジョナン寺の座主となる。ジョナン派を管轄すること26年の長きにわたり、それゆえジョナン派の伝承人19代目と目される。その間何度も中央チベットへ行き、ツェル・グンタンなどでカーラチャクラを広めた。彼はまたドルポパの弟子らの先生でもあった。

 明の洪武十九年(1386年)、チョレー・ナムギェルはジョナン寺で入寂した。享年81歳。

 

 ここで付け加えておくと、チベット仏教史上じつは、チョレー・ナムギェルがふたりいる。もうひとりはボドン・チョレー・ナムギェル(13751451)である。チョナン派のチョレー・ナムギェルとは別人であるが、しばしば混同されてきた。ボドン・チョクレ・ナムギェルはチョナン派のナムギェルよりあとの生まれで、またの名をジグメ・タパ、あるいはチューギ・ギェルツェンといった。ツァン地方のボドン・エイ寺(Bo dong ei dgon)の高僧であったためボドンパ、一般には尊敬をこめてボドン・パンチェンと呼ばれた。

 仏教史家トゥカン・チューキ・ニマは『善説水晶鏡』のなかで、ボトンはすべての顕密の諸明、詩学に精通し、仏学や文学の造詣に深く、また『摂真如論』など百部近い著作を書き、ペーモチューテン寺(dPal mo chos stengs dgon)を建て、独自の宗派、ボドン派を称したと述べている。

 ボドンの弟子チャンパ・ナムギェル・タクサン(Byang pa rnam rgyal grags bzang 1395-1475)は、明代、大司徒に封じられ、内明、声明、工巧明、暦算、医学などに精通し、とくに医学方面に功績があり、『八支集要・如意宝珠』120巻、『本論注・議義明灯』『釈論注・甘露河流』『後論釈難・万想如意』などを著した。

 

13)ニャウンパ・クンガペ(Nya dbon pa kun dga dpal 1345-1439

 法名遍喜祥、文殊菩薩の化身といわれる。ヤルルン地区ニャンポ地方(Nyang po)出身。カムパ・ゲシェのニャ・ダルマ・リンチェン(Nya dar ma rin chen)の甥で、ニェウンと称される。幼い頃から聡明で学問好きだった。10歳を過ぎた頃、両足が感染症にかかったが、ドルポパの読経と加持によって全快し、ドルポパを師として仰ぐようになり、顕密の経論の教授を受けた。

 ドルポパの入滅後、長期間チョレー・ナムギェルに師事し、『時輪経』など顕密の法要を学んだ。学を成したあと、サキャ寺でも講義を行なった。

 明の洪武十九年(1386年)、チョレー・ナムギェルが世を去ると、ジョナン寺の座主を引き継ぎ、ジョナン派の20代目の伝承者と目された。

 ツェチェンチューデ寺(rTse chen chos sde)を創建し、経堂を建て、ドルポパの鍍金銅像を造った。また金字でもって『般若十万頌』『時輪根本タントラ釈』などを書写した。寺の僧侶の数は600人以上に達し、大いに栄えた。

 『青史』が「チャンパ・タイワンパ(Byang pa Tai dbang pa)」と尊称で呼ぶニャウンパは、ンガムリン寺を創建したともいう。おそらくドルポパによる創建を手助けしたということなのだろう。あるいは晩年、ンガムリン寺を復興したということかもしれない。

 王森の『チベット仏教発展史略』によれば、ニャウンパはラトゥジャン万戸の家族の出身で、タイワンとは大元に相当し、元朝が大元国師という封号を贈ったということである。このことからも、彼がいかに宗教的に高い位置にあったかがわかる。

 ニャウンパは長寿を全うし、明の正統四年(1439年)、95歳で入寂した。

 著書には『般若経大疏』など因明学などの論書がたくさんあった。弟子にはレンダワ・ションヌ・ロドゥ、ツェル・ミンパ・ソナム・サンポ、シャンパ・クンガ・リンチェン、ツォンカパ・ロサン・ダクパ、ツェチェン寺大修行者クンガ・ロドゥなど、そうそうたる高僧の名がつらなる。

 

14)ツェル・ミンパ・ソナム・サンポ(mTshal min pa bsod names bzang po 1341-1433

 古代インド大成就者バクリ(Bhakuli)尊者の化身といわれ、ターラナータ他の『ツァン誌』のなかではニャプパ(gNyags phu pa)と呼ばれる。ツァンのキェプ(sKyed phu)出身。

 5歳のときジョナン寺で出家し、ドルポパの近侍を勤めた。1361年にドルポパが十弱すると、チョレー・ナムギェル、ササン・マティ・パンチェン、ニャウンパに師事した。成年になってからラガン寺(Lha sgang dgon pa)で講経師を11年担当した。

 明の洪武年間にチューペ・サンポがツェル・チェン寺(mTshal chen dgon pa)を献上すると、彼はここでチョナン派の講修制度を確立した。晩年にいたるまで倦むことなく教義の布教につとめた。

 伝記によると、90歳の高齢になって『般若経疏』を著し、92歳のとき僧侶や公衆に『時輪根本タントラ無垢光大疏』を講じた。

 明の宣徳八年(1433年)、93歳で入寂した。弟子にはギャルワ・チョサンワ(rGyal ba jo bzang ba)がいる。