中興期
ドルポパとその弟子らの絶頂期を過ぎ、15世紀前半の宣徳、正統年間に入ると、有力な地方勢力の支持が減り、宗派内に影響力のある人物が少なくなり、しかも他派からの非難があり、ジョナン派はその勢いを失っていった。
しかし16世紀末、ターラナータの登場でもって、いっきに息を吹き返した。この百年余りの時期、ジョナン寺の座主は7名を数えた。
1 トゥブチェン・クンガ・ロドゥ(Grub chen Kun dga’ blo gros)
略してトゥプチェン・クンロと呼ばれる。漢訳は大成就者遍喜慧。『ジョナン教法史』によると、シャルカワ(Shar kha ba)の王族の出身で、プトゥン大師の転生だという。プトゥン・リンチェンドゥプ(1290-1364)の入寂は元代の至正二十四年なので、トゥプチェン・クンロが生まれたのは元末か明のはじめということになる。彼はニャウンパ・クンガペの弟子で、ジョナン派のカーラチャクラの教法と修行法を学んだ。一度集中的に学べばよくそれを身につけ、成就に至ったので、トゥブチェンと称された。明の宣徳か正統年間にニャウンパの法座を継いだことから、第二十一代継承人と目される。
2 ジャムヤン・コンチョク・サンポ('Jam dbyangs dkon mchog bzang po)
略してジャムヤン・コンサン。漢訳は文殊宝賢。ラトゥジャン(La stod byang)出身。サキャ寺で出家し、座主のジャムヤン・リンチェン・ギェルワ('Jam dbyangs rin chen rgyal ba 文殊宝仏)に師事し、サキャ派法門を学んだ。のちチョナン派に改宗し、トゥブチェン・クンガ・ロドゥを師として時輪金剛法の教えを受け、修学に励み、成就をとげた。デルゲのカギュ派高僧シトゥ・クンサン・ラプテンパ(Si tu Kun bzang rab brtan ‘phags)が彼を師として崇めたほどだった。
ツァン地方にニントゥ新寺(Nying stod dgon gsar)を創建したあとその寺の講経を担当するチュベンとなり、またチョナン教法経院を創建した。のち東西のゼチェン寺(rTse chen chos sde)とジョナン寺の座主を兼任し、第二十二代伝承人となった。
ジャムヤン・コンサンは明の洪武年間の頃の人で、ゲルク派のケドゥプジェ・ゲレク・ペーサン(mKhas grub rje dGe legs dpal bzang)と同時代人である。
『ジョナン派教法史』によれば、ケドゥプジェ子弟はジャムヤン・コンサンに呪詛を送ったという。ケドゥプジェはツォンカパの二大弟子のひとりで、明の宣徳五年(1431)にガンデン寺の第三代ティパを継いでいるので、当時のゲルク派のトップに位置していた。明の宣徳年間の頃、ジョナン派とゲルク派の見解が大きく隔たり、衝突が起きるようになったと考えられる。
3 ナムカ・チューキョン(Nam mkha’ chos skyong)
漢訳して虚空護法。ジャムヤン・コンサンの弟子。『時輪経』と六支加行修法に通じ、ジャムヤン・コンサンに替わって長期ジョナン寺の座主を務め、ゼチェン寺の座主も兼任した。ンガムリン寺などで何度も講義をし、ジョナン寺のクンペン・ドントゥブ・チェンモ大塔の塔頂の法輪を金で鍍金するなどして修理した。チョナン派の発展に寄与し、第二十三代伝承人と認定される。
4 ナムカ・ペーサン(Nam mkha’ dpal bzang)
漢訳して虚空詳賢。もとはサキャ派の僧侶。ムイパ・ラブジャムパ・トゥジェ・ペーサン(Mus pa rab ‘buams pa Thugs rje dpal bzang 慈悲詳賢)とサキャ・ダルの弟子シャントン(Shangs ston)等に師事し、ギャデ寺(brGya sde dgon pa)の寺主を務め、何年も講経院を担った。のちジョナン派の時輪金剛六支加行を修め、果証を得た。デプン寺(’Bras spungs dgon pa)を建立し、ジョナン寺の座主を継いだので、第二十四代伝承人と認定される。
5 大訳経師ラトナバドラ(Lo chen Ratna bhadra)
チベット語訳リンチェン・サンポ、漢訳宝賢。遊牧民の家庭に生まれ、はじめニンマ派を信仰し、オギェン・ゾクパ(O rgyan rdzogs pa)に師事し、新旧の密教に通じた。その後ジョナン寺でナムカ・ペーサンに師事し、ジョナン派の時輪教法真伝を学び、修する。ドフ地方(mDog)にマンデン寺(sMan sden dgon)、シェリウォ山(gShad ri bo)にドゥジン寺(Gru ‘dzin dgon pa)を建立しのちジョナン寺座主となる。第二十五代の伝承人とされる。
著書に『大慈悲観音面授法』『六支加行法導引講義』など。弟子にクンガ・ドゥチョクらがいる。
6 クンガ・ドゥチョク(Kun dga’ grol mchog 1507-1566)
漢訳は遍喜聖解脱。阿里下部ロウォメンタン(gLo bo sman thang)出身。家族はニャク氏(gNyags)で、吐蕃期の父臣六族のひとつ。父ツェワン・サンポは現地の首領だった。幼名はドゥマベン。
4歳のときサキャ派のドゥンワ・チューギェルによって受戒した。7歳のときおなじくドゥンワ・チューギェルによって紅閻魔五神灌頂を授かった。そのときにシェダン・ナムダク・ドルジェ(Zhe sdang rnam dag rdo rje)の密号を賜った。除憤怒金剛という意味である。これにより四貪着を離れ、仏学に専心し、10歳のときにはすでに因明、歴算、仏教の基礎知識を身につけ、沙弥戒を受けると、クンガ・ドゥチョクの名をもらった。
13歳のとき故郷を離れ、サキャ、タクゾン(Brag rdzong)、セルドクジェン(gSer mdog can)などを遍歴した。合計すると40人以上の師に師事し、一般的な顕密経典だけでなく、ニグ(Nai gu)の十二法要などを学んだ。ドゥンワ・チューギェルやオルギェンから比丘戒を授かった。
のちジョナン派に改宗し、大訳経師ラトナバドラに師事し、ナムカ・ペーサンが伝えた時輪金剛法を学び、会得したあと、ウー地方から阿里地方までの地域で布教した。またダライラマ二世ゲンドゥン・ギャツォに二度面会し、仏法を高めた。
伝記によると、彼はジョナン派、サキャ派、シャンパ・カギュ派、ニンマ派の灌頂法や修法秘訣およそ108種に通暁していた。パンチェンラマ3世ウェンサ・ロサン・ドントゥブ(dBen sa blo bzang don grub)やリンプン法王(Rin spungs chos rgyal)、ヤンドク万戸テンズィン(Yar ‘grog khri dpon bstan ‘dzin)らチベットの著名な僧俗の人々が彼を師として仏法を学んだほどだった。
彼は生涯セルドクジェン、ペーコルデチェン(dPal ‘khor bde chen)、ンガムリン、ゼチェンなどの寺院を主事し、教法を講じ、チョナン寺の座主も務めた。晩年にはチュールン・チャンゼ禅院(Chos lung byang rtse sgrub sde)を創建し、僧侶の修禅を指導した。彼はジョナン派の傑出した僧とみなされ、第二十六代の伝承人である。
弟子も、ドリン・クンガ・ギェルツェン(rDo ring kun dga’ rgyal mtshan)やチューク・ラワン・ダクパ(Chos sku Lha dbang grags pa)、ケワン・チャムパ・ルンドゥプ(mKhas dbang Byams pa lhun grub)、ケンチェン・ルンリク・ギャツォ(mKhan chen Lung rigs rgyal mtsho)、ジェドゥン・クンガ・ペーサン(rJe drung Kun dga’ dpal bzang)などきわめて多かった。
7 ケンチェン・ルンリク・ギャツォ(mKhan chen Lung rigs rgyal mtsho)
漢訳は教理海。ニントゥ地方(Nyi stod)の首領ザンカンワ(gZang khang ba)家に生まれた。はじめセルドクジェン寺に学び、のちクンガ・ドゥチョクから時輪灌頂を受け、顕密の経典と修行秘訣を教授された。ギェルツェ寺(rGyal rtse dgon pa)の寺主やジョナン寺の座主を務めた。第二十七代継承人とされる。
ラトゥジャン地方の衰退
ジョナン派はその誕生以降、つねにツァンのラトゥジャン地方の首領の支援を受けてきた。そのなかでもンガムリン(Ngam ring)の首領の支援は大きく、ンガムリン寺は14世紀よりジョナン派の主要な道場のひとつだった。
15世紀はじめ、ラトゥジャン地方の勢力が衰退しはじめ、ツァンの貴族ナムカ・ギェルポの子リンプンパ・ノルブ・サンポ(Rin spungs pa Nor bu bzang pa)が武力でもって支配地を広げ、サキャ一帯を制圧した。
明の宣徳十年(1435年)、リンプンパ・ノルブ・サンポはサムドゥプゼ(bSam grub rtse)、現在のシガツェを攻略した。リンプンパは宗教においては紅帽カルマ・カギュ派を支持していた。
明の嘉靖四十四年(1565年)、リンプンパの家臣である貴族シンシャクパ・ツェテン・ドルジェ(Zhing shag pa Tshe brtan rdo rje)が地方官吏の力を結集してリンプンパ政権を転覆させた。それとともにジョナン派もシンシャクパ政権に服属することになったのである。
明の万暦四十六年(1618年)、ツェテン・ドルジェの子プンツォク・ナムギェル(Phun tshog rnam rgyal)はついにチベット全体を統治していたパクドゥ(Phag gru)政権を打倒し、ツァンパ汗(gTsang pa rgyal po)政権を建立した。
ツァンパ汗はカギュ派を支持し、ゲルク派とは対立した。サキャ派やジョナン派に対しては友好的だった。プンツォク・ナムギェルは父のやりかたを受け継ぎ、ジョナン派を支持し、属民に荘園を分け与え、寺院建設を援助した。こうしてジョナン派が輝きを取り戻した。
同時にジョナン派自身も改革を進めていた。経典の学習を重視し、教義・規則を整えたところ、信者の数は爆発的に増え、第二次隆盛期を迎えることになった。しかしこの復興にもっとも寄与したのはほかでもない、ターラナータだった。
ターラナータの登場
ジョナン派の僧が崇める偉大な先哲は、つぎの四人だ。
1 ユモ・ミキュ・ドルジェ‥‥チベットにおいてはじめて他性空を取り入れた。また修練の中心を時輪金剛六支加行とした。
2 クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥプ‥‥ジョナン寺を建立し、ジョナン派を正式に発足した。
3 ドルポパ・シェラブ・ギェルツェン‥‥他性空の大成者。また優秀な弟子を多く輩出し、ジョナン派の隆盛期を形成した。
4 ターラナータ‥‥ジョナン派の中興期をもたらした。現在の青海・四川省に進出した。
ターラナータ伝によると、ターラナータは古代インドの中観派の祖ナーガールジュナの弟子バルウェ・ツォウォ(’Bar ba’i gtso bo)の転生だという。バルウェ・ツォウォ自身大アジャリでパンディタだった。その系統にはバルウェ・ツォウォとターラナータを含め系14名の名が挙がる。
1 バルウェ・ツォウォ(インド)
2 ナクポ・チョパ(Nag po spyod pa あるいはKanhapa、Krsnacarya インド)
3 ラータン・バラ(Ra tan bha la インド)
4 ロンソム・チューサン(Rong zom chos bzang ツァンのsNar lung rong出身)
5 バロム・ダルマ・ワンチュク(Bha rom dar ma dbang phyug ペンユル出身)
6 アワドゥディ・ウーセルペ(A wa dhu di ‘od zer dpal チベット)
7 シャントン・ドゥクダ・ギェルツェン(Zhang ston ‘brug sgra rgyal mtshan チベット)
8 ニョラナンパ・サンギェル・レチェン(gNyos lha nang pa Sangs rgyal ras chen チベット)
9 サンガバドラ(Sa gha bha dra インド)
10 ジャムヤン・チュージェ(’Jam dbyangs chos rje チベット)
11 チューキ・ニンチェ(Chos kyi nyin byed チベット)
12 クンガ・ドゥチョク(Kun dga’ grol mchog 1507-1566 チベット)
13 ガチェ・サキョン(dGa’ byed sa skyong インド)
14 ターラナータ(Ta ra na tha 1575-1635 チベット)
以上の人物は仏教史上の高僧などが含まれる。たとえばナクポ・チョパ(カーンハパ、あるいはクリシュナーチャーリヤとも)は古代インドの84の大成就者のひとりである。バロム・ダルマ・ワンチュクはタボ・ラジェの弟子で、タボ・カギュ派の創始者だった。ジャムヤン・チュージェはツォンカパの弟子タシ・ペータン(1369-1449)ではないかと考えられる。彼は1416年にゲルク派のデプン寺を建立し、文殊法王と呼ばれた。
クンガ・ドゥチョクはチョナン派第二十六代の伝承人だった。後世になって転生であることを追認するのは、転生活仏制度が確立されてから確立された手法である。敬虔な仏教徒はその真実性を疑うことはなかった。しかし現代においては科学的に証明するのは困難だろう。転生であるとする場合、年代を一致させる必要があった。
たとえばクンガ・ドゥチョクとターラナータの間に十年があいていた。ターラナータの本生伝によれば、クンガ・ドゥチョクの転生はインド・カーヤのガチェ・サキョンだった。その父バラドリはマガダ、マトゥラ、プラヤカの三城の王であり、家族はバラモン教を信仰した。ガチェ・サキョンの最初の名はラマゴーパーラ(Ra ma go pa la)で、空行瑜珈母の加持を受けた。また多くの聖跡を残した。しかしクンガ・ドゥチョクとターラナータの間の十年は短すぎたので、「ガチェ・サキョンは享年8歳だったが、百年の事業を完成させた」と記さざるをえなかった。
ターラナータ(1575-1635)はウー地方とツァン地方境界のジョモカラ(Jo mo Kha rag)のダン('Brang)に生まれた。そこはラ訳経師の郷里であり、十二テンマ女神のひとり、ドルジェ・ユドンマ(rDo rje g-yu sgron ma)が住むとされる場所だった。現在、チューコルテン(Chos ‘khor sten)と呼ばれる。
祖父ツルティム・ギャツォはニンマ派の呪術師(sNgags ‘chang)だった。父はナムギェル・プンツォ(rNam rgyal phun tshogs)、母はドルジェ・ウガ・ラモ(rDo rje bu dga’ lha mo)。生後まもなく祖父によって、ペマ・シジュ・ドルジェ(Pad ma sri gcod rdo rje)すなわち蓮の埃を掃う金剛と命名された。
4歳のとき、ジョナン寺座主ケンチェン・ルンリク・ギャツォによって前任の座主クンガ・ドゥチョクの二度目の転生と認定され、寺院に迎え入れられた。
8歳のとき出家の儀式がおこなわれ、クンガ・ニンポ・タシ・ギェルツェン、すなわち遍喜蔵祥幢という名がつけられた。
これよりチャムパ・ルンドゥプ、ジャムヤン・クンガ・ギェルツェン、チョナン・ジェドゥン・クンガ・ペーサン、ケンチェン・ルンリク・ギャツォらを師として学び、チョナン派の他性空および時輪灌頂、タントラ釈、六支加行修法だけでなく、サキャ派の道果(ラムデ)およびクンガ・ニンポ、ソナム・ツェモ、ダパ・ギェルツェンの白衣三祖の全集、カギュ派のニグ六法、大手印法(マハー・ムドラー)、レチュンワの密法、カダム派のカダム書、シャンパ・カギュやシャル派の法要などを学び、研究した。
上述の師になかでもジャムヤン・クンガ・ギェルツェン(ダロンパ・クンガ・タシ・ギェルツェンとも)はターラナータの根本グルであり、20歳のときにターラナータに比丘戒を授けたのもこの師だった。
21歳のとき、夢の中で啓示を受け、自らをターラナータと命名した。サンスクリットで解脱守護者という意味である。こののち彼はターラナータを通名として用いた。一方後代のジョナン派の僧はジェツン(rJe btsun)という尊称で呼ぶ。聖主、あるいは尊者といった意味である。
明の万暦二十三年(1595)、ターラナータはジョナン寺の座主となり、就任するとただちに寺院の拡張に取り組み、仏像などを置き、寺の規則を整えた。
明の万暦三十三年(1605)、彼はジョナン寺に金でメッキした弥勒銅像を造った。またジョナン寺のラブランを建てた。また属寺であるタクトゥ禅修堂を建て、その他の属寺も改修した。
同時にツァン地方の各チョナン派寺院で、月ごとにドルポパに、年ごとにクンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ、チャンセム・ギャルワ・イェシェ、ケツン・ユンテン・ギャツォの三師を供養することを決めた。
この時期ツァン地方のツァンパ汗政権のプンツォク・ナムギェルはジョナン寺に多くの荘園や属民を分配し、寺院はおおいに発展することとなり、ジョナン派は空前の復活を遂げた。
明の万暦四十三年(1615)、ツァンパ汗政権の支持のもと、ターラナータはジョナン寺近くにタクテン・タムチューリン寺(rTag brtan dam chos gling)を建立した。吉祥永固聖法洲了義楽園という意味である。
『ターラナータ自伝』によると、寺院建立に際し、ツァンパ汗が金、銅、顔料などを提供し、ネパールから来た20数名の工匠によって三世仏、賢劫七仏などの鍍金銅像が造られたという。さらには180人の組織を作り、これもツァンパ汗の資金によって金字のカンギュル、タンギュルが書写された。
『ジョナン教法史』によると、殿堂は20座、僧房100余間におよび、寺の周囲には壁がめぐらされ、如来八塔が立ち、七仏、無量寿(アミタユス)、ターラ、布禄金剛、勝楽金剛などの大型鍍金銅像が造られた。無量光仏(アミタバ)は一階半の、弥勒仏は二階の高さがあった。また寺内に40数部の経典が置かれた。
以上の資料から見ても、タクテン・タムチューリン寺の規模は相当大きかったと推察できる。寺が建立されると、僧の数は一挙に2500人も増えた。もはやジョナン派の主寺といっても過言ではなかった。
多くのチベット語の資料は、ターラナータは木の陰の猪の年に享年61で入寂したとする。明の崇禎八年(1635)である。これに対しいくつかの反論がある。王森氏は『チベット仏教発展史略』のなかで1634年、妙舟は『モンゴル・チベット仏教史』のなかで1633年を主張するが、たんなる計算ミスかもしれないし、何か根拠があるのかもしれない。
ターラナータが41歳のときタクテン・タムチューリン寺を建立し、その20年後に没したことはだれも異存がないが、彼がモンゴルに行ったかどうか、モンゴルで没したかどうかに関しては共通認識と呼べるものはない。
王森氏は長年の研究によって、タクテン・タムチューリン寺完成後まもなく、モンゴル北部のモンゴル汗王から使者がやってきて、モンゴルでの布教を要請したことがわかったという。当時ツァンパ汗は勢力を拡大しつつあり、モンゴルとの政治的関係を探っていた。宗教を利用して勢力をさらに拡大しようと彼は考え、ターラナータにその役目をお願いした。
ターラナータがモンゴルに向かう前、ダライラマ4世は彼にマイタリー(弥勒を意味するサンスクリットのモンゴル語なまり)という称号を与えた。それによってモンゴル人は彼のことをマイタリー活仏と呼ぶようになったのである。
ターラナータはモンゴルのクルンに20年近く滞在し、モンゴル汗王と群集からの信頼を得て、ジェツン・ダムパ(rJe btsun damu pa)と呼ばれた。これは仏法に精通し、戒律を厳守する大ラマに対して用いられた尊称である。ターラナータは少なからぬ寺院をクルンに建立し、ここで没した。
一方妙舟の『モンゴル・チベット仏教史』の記述も似たようなものである。ターラナータはチベットの仏教界上層部のさしがねでモンゴル・ハルハ部へ行った。そしてモンゴルのクルンで明の崇禎六年(1633)入寂した。享年60歳。
ダライラマ5世によるチョナン派の弾圧
『チベット仏教発展史略』によるとターラナータがモンゴルで入寂後、トゥシェトゥ汗は一子を得た。モンゴル汗王はこの子をターラナータの転生と認め、ジェツン・ダムパ・ロサン・タンベ・ギェルツェン1世(1635-1723)と名づけた。
清の順治六年(1649)、ジェツン・ダムパ1世はタール寺(クンブム)、シャチュン寺を経て、チベットへ学びに行った。学業を終えモンゴルに帰るとき、ダライラマ5世はその地位を保証するかわりにゲルク派に改宗するように迫った。これ以前にダライラマ5世はタクテン・タムチューリン寺をガタン・プンツォリン寺という名に変えさせていた。ウー地方のジョナン派の属寺はすべてゲルク派に改宗していたのだ。
このような状況をみて、ジェツン・ダムパ1世はダライラマ5世の示した条件をのみ、モンゴルのジョナン派寺院はみなゲルク派に宗旨替えをした。ツェテン・シャブドゥン・ンガワン・ヤンタン・ルペは『シャチュン寺志』のなかで、『ザヤ・パンディタ聞法録』や『モンゴル仏教史』を根拠に歴代のジェツン・ダムパ伝を記す際、同様のことを述べている。またジェツン・ダムパ1世がパンチェンラマ4世ロサン・チューキ・ギェルツェンによってターラナータの転生であることが認定されたとも述べている。
ターラナータはモンゴルへ行ったのか
ターラナータがモンゴルへ行ったということを認めない学者も少なくない。近年も木雅公保(ミニャク・コンポ)氏は『ターラナータ自伝』を根拠に、その視点から『ジョナン派ターラナータ伝略』という一文をしたためた。
それによるとターラナータは17歳で比丘戒を受け、17歳から30歳までの13年間に二度ラサを訪れ、31歳より(1605年)ジョナン寺で講じ、38歳のとき寺院建設に尽力しながら伝法につとめた。39歳のとき父が亡くなり、翌年ラサを巡礼で訪れ、親戚回りをしながら家路についた。41歳のとき(1615年)タクテン・タムチューリン寺を建立し、その住持として常駐した。48歳のとき母を寺院に迎え入れた。52歳のときその母が逝去。ターラナータは亡魂のための儀礼を行い、観世音と瑜珈母の銅像を造った。
このあとジョナン派とサキャ派の間に紛争が起き、ツァン地方のジョナン派の寺は多大な被害を受けたが、ターラナータはツァンパ汗の支援のもと、ある程度回復することができた。しかし61歳のとき(1635年)、ターラナータ、入寂。
この時期、たくさんの高僧や首領がモンゴルから法を求めてチベットにやってきた。ターラナータは彼らに戒を授けたので、モンゴル出身の弟子を数多くかかえることとなった。 彼はまたインドの学者と交流があり、サンスクリット経典をチベット語に訳した。
『ジョナン派教法史』もターラナータはモンゴルに行かなかったという立場をとっている。それによると、ターラナータは41歳のときタクテン・タムチューリン寺を建立し、そこに住んだ。43歳のとき(1617年)現在の四川省ザムタン県にあるチュージェ寺のチュージェ三世活仏を認定した。54歳のときイェシェ・ギャツォに『勝楽タントラ釈』を講じた。59歳(1633年)の二月二十四日、チャンゾ・クンガペが逝去し、その魂を送る儀礼をタクテン・タムチューリン寺で行なっている。このようにすべてのことがチベットのなかで起こっているのだ。
ターラナータはチベット仏教史上もっとも知られた学者のひとりである。彼は顕密の教法に通じ、自身著作をあらわした。その著作は清の康煕三十三年(1694)、トドゥ・テンパの編集によってガンデン・プンツォリン寺(旧タクテン・タムチューリン寺)から木刻で出版された。その版は長さ42センチ、幅7センチで、一面あたり7行、あるいは6行だった。現在北京民族文化宮や甘粛ラブラン寺の所蔵である。
『ターラナータ全集』出版後、シャル・リドゥ活仏は『ターラナータ全集目録名鑑』を編纂した。それは合計で17函、272論文、7850ページにも及ぶ。ただし北京民族文化宮とラブランの編目数は人により異なっている。すなわち、北京本では17函、272種、7850ページ、甘粛本では17函、278種、7958ページ、甘粛では17函、271種、7842ページとなっている。またザムタン・ザンワ寺本では、22部、381種、12378ページ。これらの多くは散逸しているが、それでも最長である。
タール寺の『ターラナータ全集』はチューシガルワの蔵書で、貴重なモンゴル・クルンの木刻版である。このほか北京民族文化宮チベット文図書館にはゴンタン寺の『ターラナータ集』13函、220種、6002ページが所蔵されている。
『ターラナータ全集』は内容が豊富で、『他性空中観精要』『他性空中観荘厳論』には他性空中観の論が説かれる。それには時輪、勝楽、密集、喜金剛、大威徳などの次第修習、密乗釈論、密法儀軌などの論述が含まれる。さらには仏教史、高僧伝、および祈願や礼賛などに関する文も含まれる。
そのなかで『インド仏教史』と『ターラ伝』の木刻版は現在もデルゲ印経院が所蔵している。『インド仏教史』はチベットに入ってきた学者の口述をもとに編纂したもので、インド史と仏教史の名著とされる。
このほか1983年には西蔵人民出版社からターラナータの『ツァン志』が出版された。それはツァンの地理、物産、宗教、寺院などについて記したものである。
時輪タントラ ド系伝承者系譜
1 ドゥシャブ・チェンポ・ジャムペ・ドルジェ(Dus zhabs chen po ‘jam pa’i rdo rje)
2 ドゥシャブ・チュンワ・シュリバドラ(Dus zhabs chung ba shri bha dra)
3 チャンチュブ・サンポ(Byang chub bzang po)
4 カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポ(Kha che pan chen zla ba mgon po)
5 ド訳経師シェラブ・ダクパ('Bro lo shes rab grags pa)
6 ラジェ・ゴムパ・コンチョク・スン(Lha rje sgom pa dkon mchog bsrung)
7 ドトゥン・ナムゼ(sGro ston gnam brzegs)
8 ユモ・ミキュ・ドルジェ(Yu mo mi bskyod rdo rje)
9 チューキ・ワンチュク(Chos kyi dbang phyug)
10 ナムカ・ウーセル(nam mkha’ ‘od zer)
11 チョブム(Jo ‘bum)
12 セモ・チェワ・ナムカ・ギェルツェン(Se mo che ba nam mkha’ rgyal mtshan)
13 ジャム・サルワ・シェラブ・ウーセル('Jam gsar ba shes rab ‘od zer)
14 クンケン・チューク・ウーセル(Kun mkhyen chos sku ‘od zer 1214-?)
15 クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ(Kun spangs thugs rje brtson ‘grus 1243-1313)
16 チャンセム・ギェーワ・イェシェ(Byangs sems rgyal ba ye shes 1257-1320)
17 ケツン・ヨンテン・ギャツォ(mKhas tsun yon tan rgya mtsho 1260-1327)
18 ドルポパ・シェラブ・ギェルツェン(Dol po pa shes rab rgyal mtshan 1292-1361)
19 チュージェ・チョーレ・ナムギェル(Chos rje phyogs las rnam rgyal 1306-1386)
20 ニャオンパ・クンガ・ペ(Nya dbon pa kun dga’ dpal)
21 ドゥプチェン・クンガ・ロドゥ(Grub chen kun dga’ blo gros)
22 ジャムヤン・コンチョク・サンポ('Jam dbyangs dkon mchog bzang po)
23 ナムカ・チューキョン(Nam mkha’ chos skyong)
24 ナムカ・ペーサン(Nam mkha’ dpal bzang)
25 大訳経師ラトナバードラ(Lo chen Ratna bhadra)
26 クンガ・ドチョク(Kun dga’ grol mchog 1507-1566)
27 ケンチェン・ルンリク・ギャツォ(nKhan chen lung rigs rgya mtsho)
28 ターラナータ(Ta ra na tha kun dga’ snying po bkra shis rgyal mtshan 1575-1635)
29 ケンチェン・リンチェン・ギャツォ(mkhan chen rin chen rgya mtsho)
30 ロドゥ・ナムギェル(bLo gros rnam rgyal 1618-1683)
31 チャルンワ・ンガワン・ティンレー(Cha lung ba Ngag dbang ‘phrin las 1654-1723)
32 ツァンチェン1世ンガワン・テンズィン・ナムギェル(Ngag dbang bstan ‘dzin rnam rgyal 1691-1738)
33 マンゲ・ケツン・ダルギェ(Mang dge mkhas btsun dar rgyas)
34 ツァンチェン2世クンサン・ティンレー・ナムギェル(Kun bzang ‘phrin las rnam rgyal 1740-?)
35 ロンドゥ・ギャツォ(Lhun grub rgya mtsho)
36 ツァンチェン3世コンチョク・ジグメ・ナムギェル(dkon mchog ‘jigs me rnam rgyal)
37 第1任ツァンワ・ビク・ンガワン・チュンペー(gTsang ba bhi ku ngag dbang chos ‘phel 1788-1865)
38 第2任ンガワン・チュンパク(Ngag dbang chos ‘phags 1808-1877)
39 第3任クンガ・パルデン(Kun dga’ dpal ldan 1829-1891)
40 第4任ンガワン・チュンジョル・ギャツォ(Ngag dbang chos ‘byor rgya mtsho 1846-1910)
41 第5任クンガ・ケードゥプ・ワンチュク(Kun dga’ mkhas grub dbang phyug 1862-1914)
42 第6任ンガワン・デンパ・サチェ(Nga dbang bstan pa gsal bye 1878-1953)
43 第7任ンガワン・ドルジェ・サンポ(Ngag dbang rdo rje bzang po 1893-1948)
44 第8任ンガワン・コンチョク・テンバ・ダルギェ(Nga dbang dkon mchog bstan pa dar rgyas 1900-1966)
45 第9任ンガワン・ロドゥ・タパ(Ngag dbang blo gros stag pa 1920-1975)
46 第10任ンガワン・ヨンテン・サンポ(Ngag dbang yon tan bzang po 1928-)
*第1~第10任は、ツァンワ寺主任金剛上師(アチャリ)のこと
ツァンチェンは第4世以降系統が分かれるが、それについては別の章で述べたい
ザムタン・ツァンワ寺法統系譜
ターラナータ(Taranatha 1575-1635)
ロドゥ・ナムギェル(bLo gros rnam rgyal 1618-1683)
チャルンワ・ンガワン・ティンレー(Cha lung ba ngag dbang ‘phrin las 1654-1723)
ツァンチェン1世ンガワン・テンズィン・ナムギェル(Ngag dbang bstan ‘dzin rnam rgyal 1691-1738)
ツァンチェン2世クンサン・ティンレー・ナムギェル(Kun bzang ‘phrin las rnam rgyal)
ツァンチェン3世コンチョク・ジグメ・チョレー・ナムギェル(dkon mchog ‘jigs me rnam rgyal)
ツァンワ・ビク・ンガワン・チュンペー(ツァンワ・ビク・ンガワン・チュンペー(gTsang ba bhi ku ngag dbang chos ‘phel 1788-1865))
ンガワン・チュンパク(Ngag dbang chos ‘phags 1808-1877)
クンガ・パルデン(Kun dga’ dpal ldan 1829-1891)
ンガワン・チュンジョル・ギャツォ(Ngag dbang chos ‘byor rgya mtsho 1846-1910)
クンガ・ケートゥプ・ワンチュク(Kun dga’ mkhas grub dbang phyug 1862-1914)
ンガワン・デンパ・サチェ(Nga dbang bstan pa gsal bye 1878-1953)
ンガワン・ドルジェ・サンポ(Ngag dbang rdo rje bzang po 1893-1948)
ンガワン・コンチョコク・テンバ・ダルギェ(Nga dbang dkon mchog bstan pa dar rgyas 1900-1966)
ザムタン・チュルジェ寺法統系譜
ターラナータ(Taranatha 1575-1635)
ロドゥ・ナムギェル(bLo gros rnam rgyal 1618-1683)
チャルンワ・ンガワン・ティンレー(Cha lung ba ngag dbang ‘phrin las 1654-1723)
チュルジェ・クンサン・ワンポ(Chos rje kun bzang dbang po)
ゴンレ・クンガ・ナムギェル(dGon leb kun dga’ nam rgyal)
ラツェ・ラマ・ギェルツェン(Lha mdzes bla ma rgyal mtshan 1739-?)
チャンワ・ラマ・クンガ・ンゲドゥン・ギャツォ(sByangs pa bla ma kun dga’ nges don rgya mtsho 1774-1846)
タクラム・ジャムペ・ロサン・チョクドゥ・ギャツォ(Brag ram ‘jam dpal blo bzang mchog grub rgya mtsho)
ジャペ・ギャツォ(rGyal pa rgya mtsho)
トギャ・ラマ・クンガ・ペパル・ギャツォ(sTobs rgyal bla ma kun sga’ ‘phags pa rgya mtsho)
ジャンワ・ラマ・クンガ・プンツ・ギャツォ(sByangs pa bla ma kun dga’ phun tshogs rgya mtsho)
クンガ・ソナム・ゴンポ(Kun dga’ bsod nams)
クンガ・ヨンテン・ギャツォ(Kun dga’ yon tan)
クンガ・ゲタン(Kun dga’ dge ldan)