帰郷 第1部 東方への旅 

1章 

(1)

 親友のダニーとわたしはギシギシと板を鳴らしながら階段を忍び足で降りて、冷たく湿った地下貯蔵室に入った。突然心が直観的につぶやいた。ここはわたしのいるべき場所じゃない。わが心臓は早鐘を打った。部屋の中央に250ポンドのウェイトのバーベルが鋼鉄のフックに架かっていた。クラスメイトは自慢げに言った。「お父さんは毎日これを持ち上げてるんだ」。わたしは当時七歳で、小柄な、やせっぽちの、黒い短髪、茶色い瞳の、褐色の肌の少年だった。冷たいウェイトに触って、わたしは自分が無力であると感じた。

 ダニーはわたしの方を見ると言った。「リッチー、きみに大きな秘密を教えようと思ってるんだ」。そして人差し指をくちびるに交差させながら、「だれにも言っちゃだめだよ」とささやいた。

 彼は棚に上がり、かごに手を伸ばし、真鍮の鍵を持って降りてきた。それからわたしたちの体より大きな木製キャビネットを開けた。扉が開かれると、そこには雑誌の山があった。

「さあこっち来て」とダニーは笑いながら言った。「一冊見てごらん」

 わたしは言われたとおり雑誌の山に近づいた。雑誌のなかは裸の女性と愛欲の言葉であふれていた。わたしの小さな体は固まってしまった。女の子の服の下をそれまで一度も見たことがなかった。それはとても奇妙で、見るのも禁じられているように思えた。

「すげえよな、そうだろ?」ダニーはそう聞いてきた。

 わたしは何と言っていいかわからず、うなずいただけだった。雑誌をパタン、と閉じて、わたしはそれをキャビネットに戻した。

「おい、こんなもんじゃないんだから、引き出しのなかがもっとすごいんだ」彼は引き出しを開けて、ピストル二丁といくつかの手りゅう弾を見せた。「お父さんはいつも実弾を込めているし、手りゅう弾も本物なんだぜ」。彼は手りゅう弾をひとつわたしに渡そうとした。「ほら、持ってごらんよ」

 ひんやりとした重い金属を持ってわたしは震えた。「ほんとにすげえな」わたしはつぶやくように言った。恐怖心を隠しながらわたしはこの武器を注意深く引き出しに戻した。

「リッチー、もっとすごいぞ。ちょっとこれを見ろよ」

 ダニーがキャビネットのなかの二つの小扉を開けると、仏壇のようなものがあった。そこには額縁に入った写真があり、その人物の目がわたしの目をじっと見つめていた。アドルフ・ヒトラーと面と向かっていることに気づいてわたしは震えおののいた。ナチのスワスティカの入った二つの腕章が写真の片側に厳かに掛けられ、柄(つか)に輝くスワスティカが浮き彫りになった短刀が下がっている。わたしは落ち込んだ。秘密の肖像はわたしの胸に突き刺さった。ナチの手によって虐殺された親戚の話を年長者からよく聞かされていた。祖父の家族の消息は、ナチが先祖の地リトアニアを占領した1941年以来聞こえてこなかった。

 ダニーはささやいた。「内緒の話だけど、ぼくの両親はきみのこと嫌いなんだ」

 熱のかたまりが胃袋から喉に抜けたかのようだった。「どうして? ぼくが何か悪いことした?」

「きみがユダヤ人だからだよ。きみたちがイエスを殺したんだってさ」

「どういうこと?」わたしは硬直したまま立っていた。いま聞いたことはばかげていた。

「神様もきみたちのことを嫌っているって父さんは言ってるよ」

 頭上の天井の上を彼の両親が歩くたび、ギシギシと鳴った。わたしは走って隠れるか、泣き叫ぶべきだったのだろうか。

「ダニー、きみはぼくを嫌いなの?」

「そんなことないよ、きみは親友だ。大きくなったら、きみがユダヤ人だからって嫌いになるかもしれない。でも嫌いになりたくないよ」

 わたしの心はからっぽになった。

 キャビネットを閉じて階段を上がっていくダニーのあとをわたしは追った。キッチンに出ると、彼のお母さんが待っていて、テーブル上にはバニラ・クッキー二皿と冷たいミルク二杯が用意されていた。彼女は硬い笑みを浮かべた。そのとき床が大きくきしんだ。角張ったあご、白髪のクルーカット、小さな射貫くような目の巨体の男、ダニーの父親がやってきたのだ。その半笑いにはぞっとした。彼の前ではわたしはひよわな存在だった。

 クッキーに毒がはいっているのだろうか、とわたしは考えた。でもわたしに何ができるだろうか。わたしは食べる気にならなかった。

「食べて、リッチー。どうしたの?」彼のお母さんはわたしをせかした。

 とまどいを隠しながらわたしはクッキーを食べた。一口かじるごとにわたしは身を守ってくださいと神に祈った。

 幽霊のように青ざめたままわたしは帰宅した。その年齢では論理的に考えることなどできなかった。わたしはたやすく、しかも、ひどく傷ついた。

 わたしの母はやさしくほほえんで迎えてくれた。彼女はエプロンを巻いてキッチンに立ち、丸いダイニングテーブルの上でパイ生地を捏ねていた。「リッチー、あなたのために好物のシュトルーデルを作っているのよ」

「ママ」わたしはたずねた。「神様はぼくのこと嫌いなの?」

「いいえ、そんなことはないわ。神様はあなたを愛しています」母は眉をひそめながら麺棒をテーブルの上に置いた。「どうしてそんなこと聞くの?」

わたしは恐ろしくて母に打ち明けることができなかった。「よくわからないけど、興味があるんだ」。わたしはそれ以上聞かれないように、階段を駆け上がって自分の寝室に飛び込んだ。

 わたしは母のことばを信じていた。神はわたしを愛していると信じていた。ベッドに寝転がり、天井を見つめながら、愛と憎しみの矛盾を理解しようとした。両方ともおなじ神とつながりがあるのだ。

 無邪気な子供時代、わたしはひそかに声に出さないで、あるいは小さな声で祈った。眠りに落ちるまで、ベッドの中で祈ることが多かった。祈るとき、わたしは保護されているように感じていた。また誰かが祈りを聞いているようにも感じた。わたしは祈りを聞いているのは神様で、神様はわたしのそばにいると信じた。この聖なる存在について聞きたいことがもっととくさんあった。この神と呼ばれる存在は誰なのだろうか。わたしには不思議でならなかった。

  神は巨大な雲か影のようなもので、目には見えないのだろうか。あるいはわたしの祈りのすべてを聞いてくれる友人なのだろうか。とてもリアルなので、自分の思考で神に触れることができそうだ。




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