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突然、出発がさらに一時間延びたことを告げる乗務員のアナウンスが場内に響き渡った。ドロシーはうなり声を漏らした。彼女以外の者にとっては日常的な出発の遅延にすぎなかったが、彼女にとっては重大な、生死をかけた闘いになりかねなかった。心の状態というのは人それぞれだ。それによって物事への解釈や反応がいかに変わるか、わたしはじっくりと考えた。
わたしはアナウンスが終わるのを待った。そして至高の存在に身を捧げ、奉仕の心を持ちながら行動しているとき、また他者に対する思いやりの気持ちがカルマの法則を超えているとき、バガヴァッド・ギーターがわたしたちの思考や言葉、行為についてどういうふうに述べているか説明した。「じっさいのところ」とわたしは言った。「ほんのささやかな献身的な奉仕活動でさえ、いくつもの生涯のカルマからわたしたちを解き放つことができます。献身的な奉仕活動は心の中に神の愛の種を植え、育てるのです。そのような純粋な状態の愛は自分勝手でない、幸福に満ちた、無条件の愛です。聖書が言うように、神の国は心の中にあるのです」
ドロシーは突然咳き込み始めた。彼女の体全体が震え、顔が赤くなるにしたがい、目の奥底に絶望が見え隠れした。
「水をちょうだい」彼女はあえぎながら言った。
わたしは近くの売店に駆け込み、ミネラルウォーターを買って戻ってきた。彼女の両手は激しく震えていたので、ボトルを口元に持ってくるのがやっとだった。ようやく彼女は落ち着きを取り戻すと、椅子に坐ったまま前かがみになって言った。「わたしは思うんだけど、わたしのこの状況で、このミネラルウォーターが必要だと感じるように、神を必要だと感じるべきだとあなたはおっしゃっているのね。でもそう感じるまでにはもう少し時間が必要だわ。瞑想が役に立つかしら。やりかた、教えてくださらない?」
わたしはさまざまなタイプの瞑想について話したが、とくにマントラの瞑想を選んだ。サンスクリット語におけるマントラという言葉は、心を不安から解き放つ音の振動(バイブレーション)のことを指している。
「それってどういうふうに効くのかしら」
「鏡を思い浮かべてください」とわたしは言った。「鏡はあなたが見ると、完全にあなたの姿を映しています。でももし埃で覆われていたら、あなたの姿はくもっていたり、歪んでいたりします。もしかするとまったく見えないかもしれません。心は鏡のようなものです。長い年月の間、わたしたちは心の鏡が、誤解や欲望、恐怖という埃が覆ったままにしてきたのです。これらすべては、わたしたちがだれかということについての間違った感覚、あるいは間違った自己から生まれるのです。わたしたちが心の鏡を見るとき、ほとんどの場合見えるのは埃だけです。悪いことには、埃で歪んだ姿を自分自身の真の姿だと思い込んでいるのです。
マントラの瞑想は心の鏡をきれいにするのを手助けします。それでわたしたちは自分自身についてより真実に近いものを見ることができます。それは知識と喜びに満ちた、わたしたちの本当の純粋な魂、すなわち永遠の至高の魂の一部なのです。心がきれいになれば、誤解の霧は晴れていき、魂の本性が現れます。わたしたちは心にもともとある愛を感じ始めます。そしてすべての生きるものは姉妹であり兄弟であることを認識します。つまりわたしたちとおなじように、彼らもまた愛されるものとつながっているのです」
スピーカーがノイズを立てはじめると、場内にいるだれもが元気を取り戻し、乗務員のほうを期待の目で見つめた。
「ご迷惑をおかけしております」と乗務員は言った。「わたくしどもはなおも問題解決につとめております。目下のところ、さらなる一時間の遅延を見込んでおります。ご不便をおかけしてたいへん申し訳ございません。もうしばらくのご辛抱をお願いします」
ドロシーは手を額に当てて大きな声で言った。「どうかわたしにマントラを教えてください」
わたしは一呼吸置いて、何千年もの間、司祭や賢者が、王族や庶民が、どのようにマハー・マントラ、すなわち解放のための大いなる唱和を唱えてきたか、考えた。このマントラは、人の人生をよりよい方向へ、憂鬱から心の平安へ、心の平安から精神的な自由へと意義深く変えるパワーを持っている。わたしはドロシーに心を集中し、わたしのあとからマントラの一語一語を唱えるようにと言った。
ハレー、クリシュナ、ハレー、クリシュナ
クリシュナ、クリシュナ、ハレー、ハレー
ハレー、ラーマ、ハレー、ラーマ
ラーマ、ラーマ、ハレー、ハレー
彼女はわたしのあとから詠唱し、それからハンドバッグを開け、一枚の紙片とペンを取り出した。「どうかここに書いてください」と彼女は言った。「それに意味も知りたいのです」
マントラは神の名前から構成されているとわたしは説明した。クリシュナにはすべての魅力ある者の意味、そしてラーマにはすべての喜びを蓄える者の意味がある。ハレーには神の女性の、慈しみの側面の名である。
ドロシーは数分間マントラを唱えようとした。彼女は繰り返し詠唱した。目は紙片にくっつきそうだった。わたしはしばらくして彼女から携帯を借りて、少し離れたところから友人に電話して、少し遅れる旨を伝えた。
わたしが戻ってきたとき、ドロシーはなおも静かに言葉を勉強していた。驚いたことに彼女はわたしのほうを見上げて微笑みを浮かべた。「この先何が待ち受けているかわたしにはわかりません。でも今日は何かを学んだように思います」と彼女は言った。「この遅延はわたしにとって幸運だったと思います。なぜならそのおかげであなたから学ぶことができたからです」
彼女の言葉でわたしはつつましやかな気持ちになった。わたしもまた、彼女が必要な時にわが師匠から受け取った教えを彼女と分かち合う機会が与えられたので、幸運だった。
最終的に待っていたアナウンスを聞くまで六時間が過ぎ去った。ようやくボーディングできるようだった。機内に入って空調が壊れているだけでなく、機内の照明やトイレもまた不調であることがわかった。われわれを乗せた飛行機が飛び立って空を上昇していくとき、50座席のコミューター・ジェットの中は暗く、蒸し暑かった。
ようやく飛行機が着陸し、わたしはほかの乗客といっしょに重い足取りでタラップを降りた。空港の入口でドロシーと会えたときはうれしかった。彼女はほほえみ、わたしに向かって手を振っていた。彼女は機内にいる間、ずっとマントラを唱えながら瞑想をしていたという。「何が起ころうとも」と彼女は言った。「神はわたしとともにあるのです。そしてわたしは神の愛を感じています。わたしは真の富を探し当てたと考えています。ほんとうにありがとうございました」
祈りの言葉を唱え、涙ながらにわたしは彼女にさよならを言った。この短い出会いの間に、互いにどれだけ影響を与えたのだろうかと、わたしは不思議な気持ちでいっぱいになった。見ると、空港スタッフがドロシーに車椅子を提供し、メキシコ行きの接続フライトまで送っていった。彼女の未来はどうなるのだろうか。おそらく、とわたしは考えた。故郷への旅路につくことになりのだろう。
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