心(マインド) 

心を克服した人にとって 心は最良の友であるが 
心を克服できない人にとっては 心こそ最大の敵である 

             バガヴァッド・ギーター 6・6

 

 アートマにとって感覚を通して受け取る情報を処理するということは、心を活用しているということである。自分の目が赤い花を見ているとする。視神経から電気刺激が脳に達し、「見る者」にとって役に立つ像を作り出す。花に反応するのは心である。心はそれを認識し、それを「赤い」また「花」と呼ぶ。おそらく感情でもって反応する。脳は身体を漠然とした心に連結する身体の器官である。

 歴史を見ても、思索家たちは、感覚刺激の反応によって、わたしたちがだれであるかを心が決定するかどうかについて取り組んできた。五百年前、西欧の哲学者、数学者であるルネ・デカルトは、心の働きによってわたしたちが存在していることを知る、すなわちコギト・エルゴ・スム、<われ思う、ゆえにわれあり>を提唱した。

 バガヴァッド・ギーターはこの考え方を頭に当てはめた。「わたしはある」とギーターは教える。「それゆえわたしは考える」と。アートマの存在なしに、心は考えることができない。

 ギーターは、脳は身体の一部であること、心は「微細な体」の一部であることを教えてくれる。しかし、身体にしろ、微細な体にしろ、物質である。心は考えること、感じること、意図することに責任を負っている。これらの能力は一般的に感覚から受け取る刺激によって情報を受け取る。コンピューターのハード・ドライブのように心は事実と記憶の貯蔵庫なのである。それの持つ情報の意味を理解する必要はない。しかしそれは感情を二つの大きなカテゴリーに置く、すなわち楽しみと痛みに。そしてそれに従って反応する。感情をどう分類するかは、過去の同様の感情を基礎としている。

 海の波の高さが天候に左右されるように、心もまた、自分の感覚体験の影響を受けながら、欲望や嫌悪、上機嫌や憂鬱、勇気や恐怖、祝福や悲嘆といった感覚領域への新しいインプットに応じている。あらゆる感覚体験は、それが目、耳、鼻、舌、肌のどこからであろうと、心にあとを残す。心のソフトウェアはつねに日々の体験を通じてアップデートされる。

 たとえばあなたは自分に向かってくる車を見ている。車がどれだけのスピードで動いているかによって、そしてあなたが車のスピードにたいして前もって体験しているかによって、心(マインド)の本能的な反応に違いが出るだろう。もしあなたが車から事故や死を連想するなら、あなたは恐怖を感じるかもしれない。もしあなたが車から栄誉や誇りを連想するなら――そしてその種の車であるなら――あなたは強欲を感じるかもしれない。最高潮に達した恐怖症は、強烈でネガティブなあとを心に残した過去の感覚インプットに反応するだろう。

 心はずっと中立不偏だろうか。いや、そんなに長くはつづかない。心は絶え間なく変わる体験をもとに、何度も変わるのだ。子どもの頃は崖を見渡すと、恐怖を感じるかもしれない。だが経験を積んだおとなになる頃には、おなじ景色がわくわくさせるものになっているかもしれない。ほとんど何も思わなかったものに熱中しているかもしれない。心が共感するなら、どんなものに対してもその感情にしたがうだろう。

 毎朝わたしは坐ってマントラを唱えながら瞑想をする。瞑想する者はだれもが、つぎに何が起こるか知っている。心(マインド)は、昨日取り組んでいた(あるいは今日取り組もうとしている)、自分の問題でなければ愛する者の問題について、さっさと終えようとする。あるいはずっと言い争っていたことをじっくり考えたり、物思い(所有していた最初のシボレーの楽しい思い出や、三振して恥をかいたこと、リトルリーグの決勝で負けたことなど)にふけったりする。隣の部屋でだれかがクッキーを焼いていたら、瞬時のうちにマントラの瞑想がクッキーの瞑想になっているかもしれない。心がさまよっていることに気づいたわたしは自らにたずねるだろう。「マントラはどうしちゃったんだい」と。

 このことは何か重要なことを明らかにしている。わたしたちは自分の思考から切り離されているのだ。そうでなければ、わたしたちは心にそこから命じることができるだろうか。

 心は驚くべき道具である。客観的に言えば、それはたしかに輝かしい創造物である。主観的に言えば、それは人生を耐えがたいものにすることができる。ジョン・ミルトンは『失楽園』のなかでそのことについて述べている。「心というものは、それ自身ひとつの独自の世界である。地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」

 

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