さまざまな宗教に現れるひとつの神
さまざまな宗教において、長年、至高の者がどのように現れたか、簡潔に探索していこう。聖書では、神は力強く、愛情深い父親である。彼はモーセを教え導く燃える茨の茂みとして、ファラオの軍隊からイスラエル人を救う炎の柱として、十戒を布告する雷のように轟く声として、旧約聖書『雅歌』に寓話だが、若き恋人として現れた。新約聖書では、彼は教えと犠牲によって世界に無限の恩寵を示したイエス・キリストを通して現れた。聖なるクルアーンでは、彼は最高に偉大であり、慈悲深い者、アッラーである。彼は預言者ムハンマドを通して真実のメッセージをあきらかにした。
サンスクリット語で書かれたヴェーダの中では彼はヴィシュヌ、あるいはクリシュナと呼ばれる。あらゆる生きものの超越的な、全知の主である。それは無限の思いやりによって物質世界に何度も生まれ変わる。ひとりの神のそれぞれの降下はアヴァタル(降下する者の意味)と呼ばれる。これらおなじ古代の聖典はブッダの降下を予見する。ブッダはすべての生きる者に対する慈悲の心を具現化するためにやってきた至高の存在のアヴァタルと考えられる。
叙事詩『ラーマーヤナ』のなかに、至高の人間の理想の師であるラーマの降下が描かれている。ラーマは限りないパワーと限りないやさしさの両方を示した。バガヴァッド・ギーターの中で彼はスピリチュアル・マスターでありすべての者と友人であるクリシュナである。クリシュナはヴェーダの神髄である普遍的な知識をあきらかにする。バーガヴァタ・プラーナの中でクリシュナはさらに彼自身が永遠に若い牛飼いの少年であることをあきらかにする。彼はすべてのアヴァタルのすべての質を持っている。しかしその美しさとやさしさは、互いに親密に愛し合うのを助けるために、その荘厳な力の影を薄くするほどである。
すべての真の聖典の本質と目的は、わたしたちをすべての愛する、許しを与える神と結びつけることである。そして愛と許しの道具としていかに生きるかをわたしたちに教えることである。しかし宗教の聖典は、場所によっては、過酷な罰や血塗られた歴史、分極化した教えなどが描かれている。これらの叙述、また彼らが教える教えは、本質と目的の光を当てて、バランスがとられ、理解されるべきことである。至高の者を愛すること、内側の自分自身の中に、そしてすべての生きるもののなかに、内在する神を見ること、また思いやりで満たされることが必要なのである。
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