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 第二の行動規範、サティヤム、つまり真実であることは、シンプルであると教えている。シンプルな心(ハート)を持ってウソをつかず、かわりに本当のことを述べるようにと言っているのである。ウソつきは習慣になりやすい。ウソとは、真実でないことを述べるだけでなく、正当化することをも含んでいる。ウソ、正当化、弁明、偽善。これらすべては二枚舌、虚偽を習慣づけさせ、時間がたつにしたがい、ウソをつくことを解放への足掛かりと考えるようにさえなるかもしれない。しかしそれ自体は真実ではない。

 人々が真実を話さないことを選ぶのには、いくつか理由がある。ひとつは、自分本位であること。もうひとつは、恐怖。善意の人々でさえ、他の人々がどのように反応するか恐れたとき、あるいは反応がわかったとき、ウソをつくかもしれない。しばしば心(マインド)によってこうした反響は誇張される。

 ウソは望まれない面倒な状態の出口になるかもしれないが、ウソを言うことによって人間関係や人の心が傷つくことになる。自由は正直によって支えられている。そしてスピリチュアルな生活は真実の上に建てられなければならない。聖書の中でヨハネは「真実はあなたを解放するだろう」(訳注:真理はあなたがたに自由を得させるだろう)と語っている。(ヨハネの福音書832) 意味のある関係には信頼が要求される。信頼を受けるに値するため、あなたがたは信頼される人物にならなければならない。そして信頼性とは、正直であるということである。

 サティヤムの基礎には、性格のよさがなければならない。とても敏感な場合には、アヒンサは事実を話す以上に高度な真実と言えるかもしれない。たとえば第二次大戦の間、一部の人々は無実の家族を守るため、ナチのゲシュタポにウソをついた。彼らはその勇気や情熱を称賛された。

 より深いレベルでいえば、正直さにはわたしたちが持っているものの所有者ではないこと、しかし管理人であることを受け入れることが含まれる。わたしたちの所有も才能も、わたしたちに預けられた聖なる所有物であること、またそれを認識し、謙虚と感謝の気持ちでそれらを使うとき、わたしたちは正直である。バクティ・ヨーギたちが賭博をやらないのはこういった理由からである。貪欲さが増し、とりつかれ、わたしたちに預けられた富に対し、敬意を欠くようになるのである。

 アステーヤとは「盗みを避けること」という意味である。つまりわたしたちは他者に属するものを取りたがる傾向を克服しなければならないのである。物に対する渇望はけっして満たされない。そしてわたしたちがそのことを理解しないとき、自我は貪欲によって中毒となり、本当の利己主義が見えなくなってしまう。ヨーギたちがめざすのは、ものが欲しくなる状況から抜け出すこと。この盗み願望はいつまでもつづくのだ。

 他者から盗まないことに加えて、わたしたちは自分自身からも盗むべきではない。そのままの、解放された意識の状態を目覚めさせる能力が与えられ、世界に善きものを広める媒介となったが、このせっかくの贈り物をわたしたちは無駄に費やしてしまった。もっとも一般的な自身から盗む方法は、ドラッグやアルコールによって心(マインド)を変容させるやりかたである。こうして潜在的に中毒性のあるものが意識をくもらせ、わたしたちの潜在性を盗む。こうした理由からまじめなバクティ・ヨーギは陶酔させるものは避けるのである。とくに麻薬とアルコールは一瞬解放感をもたらしてくれるかもしれない。しかし時間が過ぎる間に、わたしたちはその奴隷になっているかもしれない。精神的実践は、あらゆる陶酔がもたらすもの以上に、気づきの状態に到達するのを手助けしてくれるかもしれない。ヨーガにおける成就とは、しらふの、健康的な生活において、つまり高潔な生活においてこそ見いだされるのだ。

 ブラフマチャーリヤはブラフマン、あるいは精神的合一へとさまざまな方法で導くおこないを意味する。それは一般的に、性的な規制や、場合によっては節制と関連している。スピリチュアルな伝統はつねに探求者に敬意を払ってきた。彼らは適切に性エネルギーを調整することができたし、それを覚醒のための手段に変容することができたのである。

 おそらくほとんどの人が不健康なことに夢中になっている人や性的衝動に駆られて心得違いの人を知っているだろう。バガヴァッド・ギーターは欲望、つまりカーマを燃える炎と比較する。わたしたちは燃料をくべればくべるほど、それは熱く燃えさかる。抑制のきかない性的衝動に屈すれば、困惑から家族の崩壊、病気の蔓延からあらゆる種類の虐待や暴力まで、さまざまな問題を呼び込むことになる。少なくとも、それは深刻な心の病である。それゆえバクティ・ヨーギは(ヨーガのほかの流派の信者も)不健康な、とりつかれたような、倫理にもとるセックスに溺れないようにしている。

 宗教によっては一部が禁欲主義を守っている。その僧侶や尼僧は、精神的目標に達することを目的に、性的関係を一切断ち切っている。社会で働き、精神的価値を持って家族を育てている人々は、おなじ精神的境地に達することができる。そのような家長は性的エネルギーをたんなる肉体的、感情的愉悦以上の高い何かに使うよう教えられる。バガヴァッド・ギーターのなかでクリシュナは言う。「わたしは精神的原則に反しないセックスである」と。ふたりの人が神の奉仕のなかで人生を通じて、互いに気を使い、選んで一つになり、この世に子どもがもたらされるとき、精神志向のセックスはとりわけ天の恵みであり、ありがたいものである。

 性的衝動というものは、恐ろしいほどの力を持っている。そのすさまじいエネルギーをより高い、より充実した現実に導くことなしには、性的抑制は減退して過度なフラストレーションとなり、精神的に不安定になり、極端な場合だと、性的暴行となる。ブラフマチャーリヤは、寺院生活にしろ、家族の生活にしろ、倫理的、精神的導きがあれば、責任ある、考え深い、正直なやりかたで実践したとき、解放と喜びの体験となる。

 アパリグラハは、物質的な所有の蓄積に関する強迫観念に陥らないようにすることを意味する。「シンプルに生き、高次に考える」がヨーガの生き方のモットーである。人は人生のクオリティ以上に、獲得したモノの量を選ぶことによって、真の幸福を得るチャンスを逃している。そして驚くことではないが、わたしたちは消費者に方向づけられた文化に囲まれている。その文化はことあるごとにプロパガンダをねじ込んでくる。人の富はしばしば性格や満足度よりも銀行残高や名声によって算出される。わたしたちは多くのものがなくても充足して生きていくことができる。しかし健全な人間関係や心の平安なしには生きていくことができない。しばしばお金と権力を得ることに長けているだけの人々が、自身の成功の寂しい囚人になっているのを目にする。

 成功はわたしたちを解放し、鼓舞するべきであり、奴隷になるよう導くものではない。成功はあまりにもしばしば評判になること、富や権力を得ることに執着するようになる危険性をはらんでいる。自身の豊かさに有頂天になったとき、自分がすぐれていることを見せびらかしたり、友人や愛する者さえ自分を利用しようとしているのではないかと疑ったりする。そしてますます孤立を深めていく。

 ヨーガは物を取り入れたり、維持したりするときにバランスを与える。バクティ・ヨーガはとくに感謝の気持ちを鼓舞してくれる。それは成功、すなわち精神的充足がどれほどのものであるかにわたしたちは集中することができる。ウィリアム・ブレイクが述べたように「感謝は天国そのものである」。

 シンプルに生きることは貧困に生きるということを意味しない。国王と女王は多くの富める人、すなわち億万長者を持つとき、聖者になる。洞窟で生きようと、宮殿で生きようと、シンプルに生きる秘密は、シンプルな、他人の幸福を祈る心(ハート)である。進化するスピリチュアルな文化のなかで、わたしたちは人を愛し、物を活用する。不幸なことに、今日、この世界で、物を愛し、人を活用しがちである。

 

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