悲劇の中の美しさ 

 リンダ・ジュリーは1949年、デトロイト郊外に住むヨーロッパ出自の中流の家庭に生まれた。1969年、彼女はバクティ・ヨーガの実践が神によって与えられた使命であることを発見し、フラーディ二・ダシ(神の思いやりのエネルギーのしもべ)という名前を受け入れた。1970年代のはじめ、彼女はアパラチア山脈の中の小さなコミュニティーの古い、人里離れた農家に引っ越した。そこで彼女は簡素な祭壇を作り、お供えをすることで心から至高の者に仕えることができた。こうして彼女は信じがたいほど精神を集中することができ、幸せだった。そして彼女の至福は伝染した。彼女をよく知る人々は、彼女の輝くようなほほえみは美しい魂(こころ)から照らし出されているようだと語る。その農家の厳しい状況にかかわらず、彼女は不平をこぼすことはなく、他人を批判することにも時間を費やさなかった。嫉妬や派閥主義は彼女には縁遠いものだった。

 彼女のまわりのだれもが彼女と神のかかわりは個人的なものであるとわかっていた。彼女はクリシュナを愛し、母の子に対する親密さでもってクリシュナに仕えた。日々木を伐り、泉で水を汲み、薪をくべた火の上で調理した。彼女は食べ物を祭壇にささげ、やってきた人誰に対しても食べ物を提供した。どんなに忙しくても、彼女を必要としている人を助けるための時間を作った。こうしたことを終えて、彼女は毎日何時間も神の名の瞑想をおこない、経典を勉強し、クリシュナ賛歌の歌をうたった。

 はじめてフラーディニに会ったのは1972年のことだった。わたしたちはふたりとも同じグル、プラブパダのもとにいた。彼女とわたしはおなじ種類の奉仕をしていた。彼女は農家で、わたしはアシュラムで、僧侶のために、もうひとつの遠い山で働いていた。ときおり手紙のやりとりをして、わたしは彼女のたくさんのインスピレーションを分かち合った。

 1979年、わたしは山頂アシュラムを去り、アメリカ中の大学やカレッジで講演活動をはじめ、徐々にオハイオや西ペンシルベニアに信心深いコミュニティーを作るのを助けるようになった。その間、噴火する火山のように、フラーディニは彼女の人生を満たしていた愛と喜びを保ち続けるのがむつかしくなった。他者と分かち合いたかったのである。そこで彼女も山を去り、わたしたちはいっしょに仕えることにしたのである。彼女は魔法使いだった。彼女の熱意と静かな思いやりは彼女が接した人々の心を征服した。彼女は甘くてシンプルな方法でクリシュナを愛した。クリシュナが誰であるか、バクティが何であるか知らない人々でさえ、彼女のそばを離れようとしなかった。神の愛の喜びに満ちた人を見たとき、彼女がまわりにほほえみの光をまきながら、うれし涙を流すのをわたしは何度も見た。

 フラーディニは1980年代の後半にはじめて、インドの聖なる場所各所を巡礼で訪れた。当時、わたしはインドに住んでいた。わたしたちは数人の友人とともにクリシュナ信奉者にとっての聖地ヴリンダヴァンに旅行した。訪れたそれぞれの聖なる場所で彼女はトランス状態になるように思われた。ほぼ二十年献身的に神に仕えたあと、毎日瞑想していた聖なる各所を最終的にゾクゾクしながら見ることができたのである。彼女は瞑想についてめったに話さなかったが、繰り返し感情を表に出さないように努めながら、シンプルに言った。「ほんとうに感謝の念でいっぱいです」

 米国に戻り、彼女は精神的兄弟であるバクティ・ティルタ・スワーミーから西アフリカで苦しんでいる人々のことを聞いた。多くの人が驚いたことに、彼女は彼らを助けるために現地へ行くことにしたのである。到着するとすぐ、テレビ局とラジオからインタビューを受け、国の要人と会談した。しかし彼女は時間の大半を、人々に仕え、教え、彼らを鼓舞しながら、神の名を唱和しつつ、部族の村々で過ごした。彼女はとくに村の子供ちとダンスをするのが好きだった。彼女が送ってくれた写真の中に彼女自身がこれらの大勢の人々と写っているものがあった。彼女が触れ合ったアメリカの学生や家族の表情にいつも認めていたのとおなじ自然のほほえみを村人の表情にもわたしは見ることができた。

 かつてある聖人が言った、大いなる必要のあるところに、神に仕える大いなる機会がある、と。フラーディニは血まみれの内戦によって国が引き裂かれたとき、リベリアで生きることを選択した。どこにでも流血と死はあった。そして結果的に二十万人以上の市民が殺された。フラーディニが住んでいた首都のモンロヴィアでは、市民の三分の一が家を失い、大飢饉が起こっていた。フラーディニは自ら調理し、人々に食事を提供し、このような災害にみまわれていても、神の愛の中に幸せを見つけるように手助けした。絶望した人々は彼女を母として、聖者として愛した。粗野な将軍たちでさえ彼女を敬った。

 米海軍がすべてのアメリカ市民にリベリアから撤退するよう命令し、戦闘地域から離れるよう艦隊を送ったときも、フラーディニは残ることを選んだ。彼女はのちにわたしあての手紙の中で述べている。自分は、死は怖くない、神を愛する人々に対する攻撃だけが恐いのだと。

 ほかの地域から来たある無邪気な信者が暴力的なクーデターのリーダー、ジョンソン王子に手紙を送り、必要のない殺害をやめるよう求めた。手紙を読んで怒ったジョンソンと彼の部隊は夜遅くにフラーディニの住居を襲った。フラーディニとアフリカ人の生徒たちには取り囲んだ部隊の兵士たちの銃口が向けられた。メンバーらは近くの川岸まで追い立てられ、並ばされ、あとは撃たれるだけだった。そのときジョンソンはフラーディニともうひとりの女性だけが解放された。彼は女性を殺したくなかったのである。二人の女性は自由の身になった。このときジョンソンはマシンガンを持った護衛の兵士たちに囲まれていた。

 五人の男性をひとりひとり撃つためにピストルを持った手を上げたとき、フラーディニは自分の生徒たちが殺害されるのを見ていられなかった。彼女はジョンソンに駆け寄り、銃を持った腕にしがみつき、叫んだ。「この無実の信者たちを殺さないでください」。彼女は可能性がゼロであることを知っていた。しかし彼女は他者が傷ついているのに何もしないより死を選んだのである。止めようと彼と争っている間に、このおとなしい、愛すべき女性の体に無数の銃弾が撃ち込まれた。いとしい神の名を唇に唱えながら、彼女は地面に横たわった。その魂は永遠の家へと去っていった。

 フラーディニと解放された若い女性はすべてを見ていた。そしてのちにわたしの友人のひとりに起こったことをすべて語った。フラーディニは知っていた、永遠の魂として、肉体のはかなさを超えることを。そして彼女を必要とする人々のために喜んで生を捨てることができると。彼女はいかなる勲章を与えられるでもなく、ヒーローとして祝われることもなかった――アフリカでも、アメリカでも。そして彼女はそんなことは望んでいなかった。彼女が望んでいたのは、神に身を捧げることだけだった。わたしの耳にはまだ彼女の声が残っている。「ほんとうに感謝の念でいっぱいです」

 フラーディニは身を捧げた、アフリカ人の五人の生徒だけでなく、すべての人類のために。彼女は理想を抱き、個人的な関心事にかかりきりの人生ではなく、思いやりのある人生を送った。そうした人生を送りながら彼女は神とつながっているという感覚を持つことができた。神のやりかたはミステリアスだった。わたしたちはときに大きな構図を見ることができない。あきらかに不公平に思えることがあり、困惑するばかりだ。

 フラーディニは生まれながらに幸福に満ちていた。彼女はこの世の人生を、そしてこの生を超えてすでに生き始めている人生を愛していた。彼女が人生の終わりにしたことは、ごく自然に自分自身のためにしたことだった。もし今おなじシチュエーションに直面したら、おなじことをするだろうとわたしは考える。というのも彼女はいちずに、魂(こころ)から、力強く、心(マインド)から、真に神を愛していた。そして自分自身として仲間を愛していたからである。

 フラーディニのような人々をまねるべきだとは誰も言わない。しかし自分たちの生活で、、家で、仕事場で、社会的な、あるいは精神的なサークルで、わたしたちはバクティを、すなわち純粋な愛を、もっとも高い理想として実践することができる。そしてその理想をできるだけ誠実に生きることができる。フラーディニはもしわたしたちのひとりでもそうした生き方ができるなら、それを人生の栄光ととらえることだろう。

 

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