実践1 聖なる空間に生きること(そして神の愛を感じとること) 

無知を破壊する智慧で人が輝くとき、この知識はすべてのものを明るく灯す。明け方、太陽が世界を明らかにするように。

    バガヴァッド・ギーター 5.16

 

 わたしたちが内なる旅をつづけるとき、周囲の影響に気づくことは助けになる。現実的な目には見えないけれど、いたるところにスピリチュアルなエネルギーにあふれている。わたしたちはほかのエネルギー、たとえば電磁場エネルギーに囲まれている。こうした微細な物質的なエネルギーはつねにそこにあるのだ。わたしたちが見ることも、感じることも、聞くこともできないとしても。これらの力を発見し、利用するようになるまで実際何世紀もかかっているのだが。

 スピリチュアルなエネルギーを感じとるのは、概念的に、見えない物質的なエネルギーを感じとるのとそれほど変わらない。もしあなたがテレビのリモコンのボタンを押してチャンネルが選べるなら、おそらく頻繁にテキサスのフットボールの試合かバクダッドのニュースを選ぶだろう。より広い文脈では、リモコンのボタンは物理的なものと精神的なものから選ぶことができる。どの周波数を選ぶかはあなたの人生の選択であり、心の状態なのである。どちらもあなたの欲求次第と言える。

 わたしたち人間は自由意志にしたがって「意識波」を受け取り、転移させる力を持っている。わたしたちから出た小波は遠くまで広がり、世界のほかの人たちに影響を与える。またわたしたちは古典的なヨーガの聖典から学ぶことができる。すなわち意識は創造のときのもっともパワフルなエネルギーのひとつであることを。わたしたちが何を考え、感じ、欲し、話し、おこなおうとも、わたしたちのまわりの環境や生きているものに影響を与えるのである。同様に、わたしたちはほかの人たちのエネルギーに影響されている。ある人たちはポジティブな波を発し、ほかの人たちはネガティブな波を発す。もし注意深くポジティブな波――たとえば親切、思いやりなど――を吸収したなら、わたしたちはそれを他者に伝達することができる。そして世界が健全なエネルギーであふれるために貢献することができるだろう。もしネガティブなエネルギーに屈したなら、それを世界に伝達してしまうだろう。もし人々がおなじ周波数を分かち合うなら、崇高であろうと、傲慢であろうと、あるいは無私であろうと自分勝手であろうと、集合的意識は世界に力強い影響を与えることだろう。

 わたしたちは誠実に祈り、瞑想し、意味のある儀礼をおこない、聖なるマントラを唱えることでエネルギーを高め、スピリチュアルなものへと送ることができる。異なる超越論者たちは至高なる者の異なるエネルギーに焦点を当てている。バクティ・ヨーギたちはとりわけプレーマ、精神的愛を目覚めさせ、育む神の愛、すなわち聖なるエネルギーに注意を払っている。聖なる愛は感覚器でとらえることができないが、つねにわたしたちとともに、そしてわたしたちのまわりにあり、正確に周波数を合わせれば接触することも可能なのだ。

 バクティ・ヨーガの師たちはすべての起源が至高の者に発していると教えている。考え、話し、動くための体やポワーでさえそうである。バクティの実践者は至高なる者への奉仕ができたのは、神の御業のおかげであるとして、感謝の意を表したいと考えている。バクティとは、つまるところ、シンプルに神を愛し、知りたいという欲望なのである。そしてその欲望が強いとき、あとにつづくすべての行為が心のこもった献身となるのである。

 バガヴァッド・ギーター(7.3)の中でクリシュナはわたしたちに言う。「何千もの魂の中でひとつは完全に到達するかもしれない。しかしながら完全を獲得した者のなかで真実のわたしを知っている者はほとんどいない」。絶対なる者の理解された知識、すなわち神はギーターの中で「秘密中の最たる秘密」と呼ばれる。そしてきわめてまれなものの特権と考えられる。

 なぜ神の知識はそんなにも秘密なのか。なぜすべての魂は至高の魂を見ることができないのか。神についての知識を見つけるのがむつかしいから、というわけではないだろう。ギーターや聖書、コーラン、その他の聖典が何億冊も印刷されて、世界中に出回っているではないか。識字率が高まり、それが低い地域でさえ宣教師たちが神についての情報を供与している。よりたくさんの人々が聖典と接するようになり、読むための教育も受けられるようになった。それなのにどうして神を理解する人がほとんどいないなんてことになるのだろうか。

 理由のひとつは、ほとんどの人が宗教の外側しか見ることができず、本質的な目的に入っていく道を見つけることができないからである。人々は神を赦しの卸業者(罪の贖い主)として見るように教えられる。多くの人は神と値段交渉でもしているかのように祈っている。「もし私に成功を授けてくれたら、私はあなたを信じます」とか、「この人が私を好きになるようにしてください。そしたらもうお酒は飲みません」「いい点がもらえるようにはからってください。そしたら毎日あなたをあがめます」「私の病気を治してください。そしたらたくさん寄付します」など。

 バクティ派によると、嘆願者と赦しの卸業者とのこの種の関係は神への第一歩であり、人を宗教的実践および倫理的生活へと向かわせる役目がある。しかしそれは低レベルの関係であり、もし求めていたものが得られなければ、その人にはフラストレーションがたまり、信仰を捨ててしまうだろう。

 信仰が篤くなれば、わたしたちは神と交渉しようとするのをやめ、より深い「交換」を探すことになるだろう。その「交換」のなかでわたしたちは彼をもっとも親しい友人とみなし、彼の指導を信頼するようになる。もしこの道を進み続けるなら、やがて信頼は愛に変わるだろう。真の愛の目覚めのためにわたしたちは高みに達しないといけない。そこでわたしたちは、利己主義や世俗的な期待によって汚されていない愛のために至高なる者に近づくのだ。イエスは祈りの言葉のなかでこの信仰の篤い魂について強調している。「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(私の意志ではなく、あなたの意志でなさってください)

 わたしたちの信仰のモチベーションが世俗的な欲望を上回るとき、すべての秘密のなかの最たる秘密を見いだすだろう。無条件に愛に身をゆだねるとき、至高なる者があきらかにする深奥の真実である。この時点で神はパワフルであり、同時に親しい最高の友人であることを知っている。そして彼がいつもわたしたちのことを思いやっていると信じている。この認識によってごく自然にわたしたちは恐怖から解放される。そして魂の中に恍惚とした愛を目覚めさせるのである。

 厳しく、恐怖を駆り立てる存在としての神の概念と対照的に、バクティの聖典はおもに至高なる者を、愛情あふれる、思いやりのある存在として描いている。神はすべての魂の安寧と幸福について深く気配りをしているのである。そしてすべての魂が自身の力の不可分の部分であるなら、どうしたらほかのものでないことがありえようか。わたしたちが神のこの美しい、愛すべき神の概念を受け入れるとき、自分自身の直観的な愛情あふれる本性が現れる。そしていとしい至高なる者との関係をより深く、より親しいものへと駆り立てるのだ。

 この種の精神的成長のためには、神のいつくしみは本質的である。わたしたち自身の努力だけでは聖なる愛を得ることはできない。わたしたちには助けが必要なのである。神のいつくしみなしでも、わたしたちは主について、また創造について、多くのことを学ぶかもしれない。しかしわたしたちは知っていることを実践することはできない。有限の者にとって無限の者のことを感ぜんに知ることはできない。しかし神のいつくしみによって、無限の者は自分自身が知られることを許すだろう。精神的進歩を遂げ、誠実に性格特性、とりわけ慎み深さと奉仕の態度――これが成長へと導く――を育もうとするとき、わたしたちは神のいつくしみを引き寄せる。

 定義によれば、神のいつくしみとは、わたしたちがそれに値しないとしても、神の手が差し伸べられるということである。それは聖なる愛の並外れた、永遠に存在する表現である。そして太陽のように公平に四方八方に光線を広げる。それはわたしたちひとりひとりのために輝いてくれるのだ。わたしたちにいつくしみを引き寄せるそのやり方で、それを受け取るために心を開くとき、至高なる者はそれを授ける。それというのもわたしたちが無限の愛の甘みを味見するのは、神自身の望みだからだ。

 神のいつくしみによって、わたしたちは人生の障害を切り抜け、超越することができる。そしてかなり高い満足が得られるので、すべての世俗的な喜びが恥辱に感じられてしまうほどである。このいつくしみに原因はないのだけれど、それを十分に受け取りたいのであれば、受け取る準備をする必要がある。わたしたちの自由意志によってエゴの大洞窟から思い切って抜け出し、愛情あふれるつつましやかな奉仕の光の中へ入るとき、いつくしみの光の中に自分自身を解放し、すべての秘密中の秘密、神の愛を理解するのである。わがグル、プラブパーダは、聖なる愛(プレーマ)はたいへん貴重であり、至高の人、クリシュナはいとも簡単にほかの何よりも誠実に欲しがっている人々にそれを授けてくれるのである。

 

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