霊的導師から話を聞く 

 古代に遡ると、グルという言葉は霊的な導師、あるいは大師、すなわち他者が永遠の自我に目覚めるよう導くことのできる人物のことを指す。「グ」は「暗闇」、「ル」は「取り除くこと」を意味するという。授業が始まる前に祈祷文としてヨーガ教師が唱える詩篇がある。それはこの意味を捉えている。

 

オーム アジュナーナ ティミランダシヤ 

ジュナーナンジャラ シャラカヤ 

チャクシュル ウンミリタム イェーナ 

タスマイ シュリー グラヴェー ナマー 

私は無知の闇の中に生まれた。そしてわが精神的導師(グル)は知識の灯によって私の目を開けてくれた。私は彼に敬意と感謝の念を捧げたい。

  バーガヴァタ・プラーナ 8.1.11, 8.3.25

 

 バクティの教えに沿った伝統的なグルと弟子の関係において、グルの果たすべき役目には、生徒に教えを講ずること、生徒の精神的な幸せを思いやること、束縛や苦悩から解放するための道に彼や彼女を導くことが含まれる。弟子の果たすべき役目には、彼や彼女の精神的進歩のために真摯に質問すること、誠実な献身によってグルの教えを応用すること、そして奉仕をおこなうことで導師を助けることが含まれる。グルは聖典に通暁し、聖典が教えるものの生きた教材にならなければいけない。そして生徒はまじめに信仰生活の教えを受け取らなければならない。もしグルも弟子もこのように熟達していけば、知識の伝達は効果があるといえるだろう。

 もし本格的に何かの分野を探求したいなら、それが医学、音楽、格闘技、物理学、ほかの何であれ、その分野の経験を積んだ教師がいれば大いに助かるだろう。唯心論者になるのであれば、なおいっそう精神性の原理と実践はほかの分野と比べてもより深く、より微妙になるのである。適切な案内役なしで精神的な修業を実践すれば、わたしたちは過剰なまでの哲学や実践のなかで自分を見失ってしまう。本質的な進歩を遂げるのはむつかしくなってしまうだろう。

 バクティの教えによればわたしたちはみな至高者と個人的な関係を持っていて、その関係をよみがえらせることが人生の究極的な目的である。しかし目下のところ、わたしたちは自分自身に関して誤解している。わたしたちは体と心(マインド)と社会的地位でもって自己認識をしがちだ。そして根の深い恐怖や欲望を抱いてきた。これらは血小板が動脈をブロックし、血が心臓に流れるのを制限するように、これらがその関係の自然の流れをブロックする。わたしたちは魂から心へ、さらに外界の至高者や世界への愛の流れをブロックする間違ったエゴという血小板に悩まされている。スピリチュアルな心の医師のように、グルたちは弟子たちを、血小板を取り除くように案内し、訓練する。このように彼らは真正なる愛との明白な連結器として働く。

 もっとも重要なことは、グルたちが真正なる言葉で、そして彼ら自身の真正なる行為で、無限の教えを示すことである。彼らは精神的、道徳的な誠実さと思いやりを持たなければならない。そのようにグルの定義される特徴とは、奇跡をおこなったり超人的な離れ業を見せたりすることではなく、すべての状況において、無私無欲の献身的で模範的な生活を送り、彼のあるいは彼女の弟子たちに同じことをするよう勇気づけ、力を与えることである。

 バクティの純粋にスピリチュアルな導師の重要な条件は、彼ら自身が古代から連綿とつづく師から弟子の血統の弟子であるということである。この系譜に沿って歴史を通じて知識が伝授されてきた。ヴェーダの伝統にはそのような信仰の系譜が四つある。これは音楽、自然医学、武道など東洋の多くの学派における師の系譜を通して伝えられた伝統とそれほどの違いはない。この師の系譜はパランパラ(parampara)と呼ばれる。インドにおいては、パランパラの所属がつねにスピリチュアルな運動の基本だった。ギーター(4.2)もつぎのように言う。「この至高の魂の科学は、弟子の系譜(パランパラ)の継承を通して受容される」。

 グル・弟子の継承の原理はじつに多くの宗教において見いだされる。インドではいくつかの継承は創造の夜明けとともにはじまったとされる。ほかの系譜は化身が地上に現れたり、聖人の教えが明確に与えられたりしてはじまった。系統のそれぞれのグルは彼、あるいは彼女の教えを保存し、布教する責任を負っている。壊れることのない系統の師から学び、もともとの啓示を受け取り、師に奉仕することでわたしたちは系譜上の、あるいはほかの真の系統のすべての聖人に敬意を表することになるのだ。

 パランパラ・システムは、あやまった理解や不純な考えから知識を守ることが意図されている。マンゴの木のてっぺんから熟したマンゴの果実を受け取るという比喩で表される。数人の人が列をなして木に登っている。一番上の人はマンゴの果実をすぐ下の人に渡す。その人はまたすぐ下の人に渡す。そうして最後には無傷で地上に果実が届く。

 グルは霊的知識の三つの補い合う源泉のひとつだ。霊的知識はうまく調和しながら生徒を導くだろう。グルのほかに、過去と現在の聖人にふさわしい導師たちと誠実な実践者たちがいる。そして聖典群がある。グルは聖典の中を流れる真実の潮流にわたしたちを導いてくれる。その間にバクティの共同体は霊的に生きる真実を確信する。そしてこれら三者は、霊的な教えの純粋性を維持し、守り抜く。もし導師が、聖典の教えや系統の聖人が提示した手本と異なったふるまいをしたり、教えたりすれば、その人は真実の流れを示すことができなくなってしまう。

 バクティ派は、至高なる者をグルの始祖、すなわち知識と思いやりの永遠の源泉と考える。ほかの真の霊的導師は究極のグル、すなわち心の中に座する至高の愛される者を代表する。古代のバクティの系譜のなかで、人間のグルは喜んで自分自身を至高者のつつましやかな下僕とみなし、自身が至高者とは主張しない。グルは誠実に至高者を代表することで社会に尽くし、弟子たちに適切と思われるやり方で霊的な教えを何度も示す。そして模範的な人生を送り、霊的な導師は智慧と思いやりの永遠の流れに導いていく。

 グルには基本的に二つのタイプがある。シクシャ、すなわち教育するグル。またディクシャ、すなわちイニシエーションを授けるグル。シクシャ・グルは指令を与えたり、模範的なライフスタイルを示したりすることでわたしたちを鼓舞し、導く。ひとりの人生あたり数人の教育グルと出会うかもしれない。ディクシャ・グルは生徒にパランパラに入るイニシエーション儀礼を授けるだろう。この場合生徒はすでにある程度実践を経験していて、道を進むために関りを深め、正式なものとしようとする。一般的には、イニシエーションのグルは個人あたりひとりである。

 つねにバクティ派においては、真の源から聖なる経典を聞くことがとても重要だった。バガヴァッド・ギーターに対しては、とくに崇敬の念が抱かれてきた。その普遍的なメッセージから、インスピレーションや信仰、あらゆる状況で至高者といかに結びついて生きていくかの実践的ガイダンスが生まれた。

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