神々:偶像崇拝か聖なる崇拝か
人は至高者の神の形象を崇拝すべきだ。至高なる存在が人の心に、そして他者の心にもあることを理解するまで。
バーガヴァタ・プラーナ3.29.25
おそらく理解できるもうひとつの複雑なバクティの実践は、神の礼拝だろう。それは寺院のなかでも、ヨーギの家の中でも実行可能だ。サンスクリット語では神はアルチャ・ヴィグラハ、文字通りには「輝くかたち」と呼ばれる。わが師プラブパーダは偶像と区別するためにこの至高者の聖なるかたちに言及するとき、英語では神(ディーアティ deity)を用いた。
欧米人の中には、ヒンドゥー教やジャイナ教、仏教、その他の東洋の宗教に一般的な神の崇拝の実践に関して混乱し、恐れている人さえいる。それというのも彼らはそれを偶像崇拝と勘違いしているからだ。しかしながら多くの東洋の宗教は神崇拝をヨーガ科学のきわめて高度な尊敬すべき側面ととらえているのである。インドの霊的宗教のすべてがこの点に関しては同意する。すなわち至高の存在は制限がなく、独立している、だから彼が選ぶいかなる方法によっても、つまり石や金属、土、木、あるいは絵画という形式によっても、そのおだやかな意志によって現れる。
世界のほかの聖典のように、バクティの聖典は偶像崇拝、すなわちイマジネーションや純粋に霊的な意図のないアプローチによって作られた恣意的なかたちの崇拝を推奨することはない。一方で承認された神々の聖典に規定された信仰は、非常に尊重されている。もし神が承認されたガイドラインに従い作られ、神の存在が覚醒したグルによって呼び出されるとしたら、至高の存在は信仰する人の祈りや捧げものを受けとるかたちで現れるだろう。そして彼あるいは彼女の瞑想を助けるだろう。至高者は信仰者の意図の純粋さで報いるだろう。あなたは神を政府容認の郵便受けととらえることだってできる。ただの箱ではない。手紙は目的地に届くために、郵便配達によって配られ、郵便受けに入れられる必要がある。
「わたしは精神的、物質的世界のすべての根源である」とクリシュナはバガヴァッド・ギーター(10.8)の中で宣言している。すべてのものは至高者から現れる。そして彼が選ぶなら、彼をわたしたちに思い出させるため、神としてエネルギーから彼が現れる。電流が光のバルブに流れて光が発せられるように、至高者は神の中にその存在をあらわにする。電気は見えない。しかしそれが電球にエネルギーを注ぎ込むとき、それを見ることができる。同様に、主は神の存在が見えるように、感じられるように助けながら、触れられるような紙のかたちで現れるかもしれない。
いくつかの宗教では信者は祈り、儀礼、特定の対象への奉仕活動に集中する。カトリックは十字架やマリアと幼子イエスの母子像を利用して、神との交流をはかる。東方教会はイコンを利用する。アッシジの聖フランシスは、サン・ドミンゴ聖堂で人生の十字路において方向性を聞くためにイエスに祈った。聖壇から垂れ下がる十字架上の彩色された木でできたイエスは言った。「フランシスよ、わが教会は廃墟となっている。すぐに修繕せよ」と。これは聖フランシスにとって完全な変容の瞬間だった。そしてこのことが豊かな商人の息子としての人生を捨てさせ、彼の教会の奉仕の精神を蘇らせたのだった。この力強い歴史的事件によって、世俗的な世界においても、神が真摯な信仰に対していかに報いるかの好例となった。
愛する家族の写真を飾るとき、わたしたちにとってそれはたんなる感光紙以上のものである。そして写真を見ていると、愛情が湧きおこってくるものである。神に対する気持ちもそれほど変わらない。バクティにおいてこうした内なるミステリーは信仰が深まるにつれて明らかになっていく。