実践:我欲のない行為、霊的調和の中に生きる 

 愛するとは奉仕するということだ。魂の本来の性質は、利他的な愛で至高者に奉仕することである。この自身の性質による愛のこもった奉仕は、ちょうど胃に食べ物を与えることで体のすべての器官が栄養を得るように、神のすべての子供たちは恩恵をこうむることになるのだ。わたしたちの大いなる満足は、我欲のない奉仕の喜びだろう。

 一般的に下僕は卑しい、憐れむべき仕事をする人々と考えられている。ほとんどの人は下僕になろうとは思わない。しかしこのありふれたイメージとは真逆に、聖典は、神の下僕という地位、ならびに他者を思いやるそのありかたは、多くの人から尊敬されていると断じている。バクティの道を選んでからすぐにわたしはシカゴにいる母に手紙を書き、その文末に「あなたの下僕、リチャード」と記した。驚いた母は返事をよこした。「いったい何があったの? なぜあなたは自分自身を下僕と呼んで卑しめるの?」。つぎの手紙の末尾にわたしはつぎのように記した。「あなたの下僕の下僕、リチャード」。それを見て、母はそれ以上この話題には触れないよう決めたようだった。想像するに、母が何か言えば言うほど、わたしが自分の身を卑しくみなすようになるのではないかと恐れたのだろう。しかし時がたつと、下僕の気持ちを持つことは気高い決意であると、評価してくれるようになった。実際、無我的な愛の奉仕についてわたしが人生の中で学んだのは、母と父からであり、彼らが模範を示してくれたのである。東洋への長い旅のあと、最終的に家に戻ったとき、わたしは家族のために料理を作るのが好きだった母親が、ベジタリアンの料理本のミニ・ライブラリーを作ったことを知ったのである。1972年当時、菜食主義は過激思想と考えられていたが(母には理解できないことだった)、母はわたしを愛していたので、わたしが食べたいものを作ろうとしたのである。そのささやかな表現によってわたしの心は母のぬくもりを感じた。

 バクティ・ヨーガの教えによれば、至高の存在に奉仕することは、すべての魂にとってのダルマ(正しいおこない)である。真の自己利益が何であるか忘れ、わたしたちは自分を満足させることができない、あるいはけっして満足させられない俗世のことにかまけるもとよりの傾向がある。

 しかしなお、私欲のない奉仕は、わたしたちの愛の表現である。両親は子供たちへの愛を信じがたいほどの自己犠牲や何年にもわたって尽力することで表現する。友人や兄弟はいつでも必要な時に、互いにすべてに関して役立つように愛を伝えるだろう。おそらく運転したり、相談にのったり、勇気づけたり、互いに子供たちを見守ったり、いろんな方法で助け合ったりするだろう。夫婦は生涯のゴールを分かち合い、互いに達成するよう助け合い、友人のように互いに誠実にサポートしあうだろう。しばしばともに子供を育て、夫婦がいっしょでないときも、互いに子供の世話をすることになるだろう。ギブ・アンド・テイクの関係があり、それゆえ絆は深まるだろう。人類への愛は必要とする人々に仕えることで表現される。そして愛はさらに広がり、わたしたちの社会や種を超える存在にまで仕えさせるのである。

 奉仕の精神はわたしたちが素行の存在への愛を表現することに決めたとき、頂点に達する。神との関係はほかのすべての関係の精髄であり、起源である。奉仕したがる傾向を生かして至高者を喜ばせるのは、ヨーガの充足した生き方であり、すべての愛の表現を含んでいるのである。

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