信仰を妨げるもの
さてつぎは、信仰を妨げるものについて考えていこう。裏切られたという感覚の体験は深刻な信仰の試練である。すなわち、関係の裏切り、自分自身の自分自身による裏切り、あるいは病気による自分の体の裏切りなどである。
人々に信頼を置き、裏切られたとき、感情的にも、精神的にも深く傷つくことになる。これはだれにも起きることであり、同時に起きてほしくないことでもある。好意を寄せる者の受難や死としてやってくるかもしれないし、配偶者の不誠実、離婚という現状の変化、友人や家族が信頼を裏切ったときにやってくるかもしれない。私生活において、または共同体の中で、嫉妬や不親切、虐待にあったとき、あるいは精神的リーダーが不適切な行動によって失望させたときなどに、わたしたちは裏切られたと感じる。これらによって信仰心はさいなまされるのである。
人は自分の個人的失敗、能力不足、ミスに直面したとき、とりわけこのしくじりが対人関係や職業、精神的な努力に影響したとき、自分自身に裏切られたと思いがちである。
病気もまた一般的であり、ときには信仰に対して深刻な障害となる。とくに病状がよくならないときにそうなる。人は絶望的な気分になってしまうが、彼からすると納得しがたいものがある。「なぜ神はわたしが健康であることを許さないのか」。こうした裏切られた経験から誘発された感情的嵐から、わたしたちは至高者への信仰や至高者との関係(私のことをかまってくれないのか)に疑問を抱くようになり、わたしたちの苦痛に関して至高者を非難することになる。
強い信仰を持つ人々と仲間でいることによって、哲学的理解や霊的実践を通して個人的な内なる結びつきを育てることによって、わたしたちは人々やできごとや彼らが真にどのような意味があるかについて広い視点を持つことができるようになる。ほかの人々や神をさえも非難するかわりに、愛や許しの目を通じて見ることによって、心の中の明らかな矛盾を超越することを学ぶことができる。わたしはラム・ダスを訪ねたときのことを覚えている。彼は脳卒中で倒れたあとだったので、車いすに坐っていたが、その目は感謝の意を表わし輝いていた。彼は自分の状況をどう見ているか語ってくれた。「父親が愛情深く子供をやさしく撫でるように、神は私を優美なる愛の手で撫でておられるのだよ」。彼の悟りは心が温まり、かつ深遠なものだった。
スピリチュアルな道を歩むとき、明らかな矛盾や失望させるものからわたしたちの信仰を守る、美しい内面の体験が得られる。聖なる愛、すなわち魂の真の宝に触れられるとき、その愛に仕えることを誰にも邪魔されることはない。もっとも暗いときでさえ、神のやさしさの光はわたしたちを守ってくれる。
長年スピリチュアルな道を歩みながら、たくさんの人のカウンセリングをしてきたが、繰り返し耳にしたのは、ゴールからほど遠い失望した感覚、不必要な願望がいつまでも消えない感覚だった。もしあなたがこのように感じるなら、正直に、どのように道を歩んでいるか評価してほしい。瞑想、唱和、祈り、そして勉強、そういったことは、規則的で気が配られているだろうか。あなたは誠実に生きているだろうか。他人に敬意を払い、尽くしているだろうか。バクティの教えの聖者、バクティヴィノーデーは、一日の終わりに、自分自身に、その日神への愛が増しただろうか、もしそうでないなら、改善する、そういった習慣を推奨している。
無条件の愛のゴールからほど遠いとときどき感じるのは、その愛の価値を評価する触媒であり、それを保証するものではない。神へのあこがれの炎は、それぞれエゴから生まれた執着を焼き払い、本質的な理解の扉を開くことができる。真に霊的な愛の無限の価値を評価するとき、わたしたちは熱狂的に実行することができ、どれだけ時間がかかろうが、忍耐強く、小さなことからやっていかねばならない。
しかしなお、これらのことを理解したあとも、多くの人にとっては、世界で起こっていることは、信仰を保つために大きな妨げとなるだろう。できごとの多くは矛盾して、直観的に理解しがたく、わたしたちが理解しているカルマの法とも異なるのである。わたしたちは情け深い、愛すべき神が宇宙を統御していると思いたいが、そうであるなら、なぜ残量な人々に悪いことが起こるのだろうか。つぎの話はとても個人的な物語である。