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 彼らのもとを訪ねると、ヴァルシャはよく泣いていた。彼女の小さな丸い顔は、おそらく母親にしかわからない苦痛に歪んでいた。赤ん坊は無力で、泣き叫ぶ以外に自分を表現することができなかった。そして赤ん坊はけっしてそうすることはなかった。母親はそれにもかかわらずとても穏やかで、愛情をたっぷりと注いだ。彼女は赤ん坊を抱きかかえて、できるだけやさしく揺らしながら、おでこに接吻し、甘いマントラと歌を耳元にささやきかけた。彼女の娘の状態があまりよくないのはもちろん知っていた。

「結婚した友人たちに子供ができたとき」とブラジェーシュワリは想起する。「彼らは自分たちの赤ん坊の話を楽しそうにします。赤ん坊が最初に発した言葉とか、はじめて歩いたときのこととか、遊び方を学んだこととか。でもヴァルシャのMRIを見たとき、私たちにはそういう瞬間が訪れないことを知りました。ヴァルシャの人生はおそらく短いものになるでしょう。歩くことも、話すことも、遊ぶこともないでしょう。悲しみと向かい合うことができるまでに時間がかかりました。状況はとても極端でした。信仰と祈りのなかに慰めを見いだそうと闘いました。自分ではどうしようもない悲しい事態に直面して、より高い知を得ようと闘いました。私は自分がとても弱く、何も準備ができていないと感じました。しかし結果的にとてもはっきりしました。まず、私たちは魂を信じていました。つまりこの世俗世界でこれがヴァルシャの最後の誕生となることを知っていました。この子は体が不自由です。それはいかなるカルマも生み出さないことを意味します。この世界にこの子をつなぎ留めておくものは何もないのです。それからこの子が特別な子である証拠を見てきました。まわりの誰もがいつもこの子のために歌っているのです。いつも祝福の言葉をこの子に捧げるのです。そしてこの子が大きくなると、キールタンがあり、歌がうたわれ、多くの信者がこの子のまわりに集まってくるようになったのです」

 15歳のルーパは母親の感覚を分かち合った。「妹といっしょに遊び、いっしょに歩き、走り、いっしょに楽しめると思っていた。でもそれが不可能であることを今はよく知っています。妹が長く生きられないかもしれないことも知っています。妹といっしょに活動をして楽しみたいという望みは捨てました。できるだけ尽くしたいと思っています。できるだけ幸せになってほしいのです。楽しみを期待するというより、精神的に支えていきたいと思っています」

 ルーパは、彼女が鳥の鳴き声をまねたとき、妹が喜んでいることに気づいた。そこで彼女を喜ばせるために、定期的に森へ行ってさまざまな鳥の歌を学ぶようになった。彼女の誠実さを見て、主はたんに鳥のように歌うだけでなく、信仰心あふれる歌をうたい、彼女の歌声を聴くすべての人の心を溶かした。

「ある意味、この体験を知らない人からすれば、なぜ私たちが特権を持っているのか理解できないかもしれません」とヴィシュワルパは言った。「ヴァルシャがこんな受難を負っているのに、うまく切り抜けられると信じているのか、と言われます。もちろん、できません。でも信仰のコミュニティは医学ができなかったことを成し遂げることがあるのです。それらは彼女に幸せをもたらします。どうやったら不完全な体の向こう側の内なる意識の生気を見ることができるのでしょうか。そして彼らは妹とつながっています。そのレベルでわたしたちは妹とつながっているのです。わたしは同様の状態にある、でもヴァルシャのようにサポートを行けていない子供たちを知っています。わたしは彼らを感じることができるのです。ヴァルシャは祝福を受けていますが、わたしたちもまたそうなんです」

 わたしは極端な逆境に直面している家族と会うことで、また彼らが思っているよりもずっと深い洞察とあふれる愛で、彼らの人生を受け入れることで、自分が勇気づけられていることに気づいた。人生の状況を通じて、わたしたちはみな、自分たちの限界を超えた力と接することができる。至高者の恩寵といつでも接することができるという真理をわたしたちは抱くのである。この家族は逆境を、残酷で目的のない世界の帰結ではなく、無我の愛を捧げる機会と見たのである。悲劇に襲われることは珍しくない。しかし恩寵もまたありふれているのだ。あなたが人生を見るとき、それがどんなに悲劇に見えようとも、至高者への感謝の美しい表現に変えることができる。ヴィシュワルパとブラジェーシュワリは娘としてヴァルシャが与えられたことに感謝するようになった。ルーパも小さな妹が与えられたことを感謝した。家族が一体になり、彼女に奉仕することにいかに喜びを感じるかを見るのはすばらしいことだった。ここに無我を与える喜びがある。

 

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