死の間際に何が起きるのか
多くの東洋の智慧の聖典は一様に、死に際に魂はもうひとつの場所へ旅立つと言う。このプロセスは魂の移住、あるいは輪廻転生と呼ばれる。そのとき体のすべての元素――身体の地、水、火、風、空――はその根源に戻る。わたしたちが一時的な「車」に乗って旅をするとき、身体の生はリサイクルされ、乗客は旅を続ける。
『バガヴァッド・ギーター』のなかでシュリー・クリシュナは死の決定的瞬間について描いている。「人が肉体を捨てるとき、彼が記憶する存在のどんな状態であれ……間違いなく彼はその状態を得られるだろう」。人の命は、人生の終わりに際しての授業の試験のようなものだ。準備をしっかりすれば、卒業するだけの能力が認められる。人生の学校は、智慧の成長のための機会を供与する。そして死は最終試験である。死の瞬間の意識の状態が魂のつぎの目的地を決定する。
これはつまり死の間際を含めて、人生を通じてわたしたちの徳望、執着、思考、言葉、行いが意識を形成するということである。そして肉体の人生の終わりの意識状態がつぎの誕生の場所を決定する。ほかの『バガヴァッド・ギーター』の一節の中でクリシュナは言う。「人生の終わりに際して、わたしを覚えている肉体を捨てようとしている人々は、すぐにわたしの本性を得るだろう。これに関しては疑いない」。もし死に際に愛をこめて至高者を思い出すなら、わたしたちは生の学校を卒業し、世俗世界にふたたび生まれることはないだろう。そして魂は精神世界へ戻るだろう。人生において、神の意識を真摯に育んでいるなら、死に際に神のことを想うのは自然なことである。
わたしたちはしばしば臨死体験の話を聞く。そのなかでまるで映画のようにその人の人生がフラッシュバックするのを見るという。ヴェーダ経典もまた、この現象を描いている。わたしたちの番がめぐってきたとき、油断せずに生きなければならない。そして人生のリプレイを見るとき、後悔していることより、精神的に結びついているものを見るだろう。意識的に生きる人生の精神的源泉から流れが生まれ、その流れはわたしたちをより高い精神的目的地へと運んでいくだろう。
死ぬとき、しばしばたいへんな苦痛が伴い、そう簡単には行かせてもらえない。利己的な人生の恐怖や野望を免れた人々にとって、あるいは心を聖なる者のほうへ向けている人々にとって、死とは解放である。死に際にあなたは目を閉じる。そしてまた開ける。するとそこは、あなたの家なのである。