わたしは誰を愛すべきか、いかに愛すべきか 

ダルマは、何かの本質を維持するものとして定義される。ダルマは、人の霊的性質と機能の永遠の本質である。魂のダルマとは、無限の至高者への純粋な霊的な愛のことである。言葉をかえるなら、魂のダルマとはバクティ、すなわち愛をこめた献身的な奉仕のことである。

   バクティヴィンノーデー・タークル 

 

 バクティ、すなわち至高者を愛することは、もっとも深い内なる体験である。そして人はこの世界で、献身的な奉仕と他者への慈愛を通して表現することができる。

 上述のように、ヴェーダ哲学にもいきつかの学派があり、絶対的な真理をさまざまな角度から見ている。バクティ派は至高者との魂の関係における親密な、個別な性質に焦点を置いている。

 この関係性は、しばしば類推によって描かれる。太陽光が太陽から発せられる光線から構成されているように、それぞれの魂は、至高者から発せられる霊的エネルギーの個別の閃光である。太陽と光線それぞれも、おなじクオリティ(それぞれ熱と光からできている)なので、魂は至高者とおなじクオリティからできている。至高者のように、わたしたちはサット(sat)、すなわち「永遠の」、チット(chit)、すなわち「十分な知識」であり、アーナンダ(ananda)、すなわち「至福の」ものである。この意味でわたしたちは至高者とそれほど変わらない。しかしながら、それぞれの太陽光線が太陽の実際のパワーの極微の部分なので、量的に、わたしたちは絶対なるものの極微の部分に過ぎない。魂は同時に、至高者とクオリティ的にひとつであり、量的に異なるものである。

 『カタ・ウパニシャッド』(2.2.13)に言う。「あまたの永遠の存在の中にひとつの永遠の存在がある。ひとつの永遠の存在はいつまでも多くの永遠的存在(魂)を維持する。それは彼らの根源である」。

 純粋で、親しい、誠実な永遠の関係の忘我を楽しむために、魂と至高者は両者とも「人格」であり、両者とも永遠である。バクティ・ヨーガが目指すのは、もともとの自我のない愛を基本としたすべての関係において、もとの健全な状況の意識をあらためて認識することである。

 しばしば言われるのは、もしふたりの人間が深く愛し合うなら、彼らはひとつになるのである。バクティの神学で完全に「神とひとつになること」とは、恍惚として愛(プレーマ)に浸ることである。あなたの心は神の愛と結合し、愛が生み出す幸福のなかにあなたは自分を見失う。もちろん、実際に自我が失われることはない。消えるものがあるとすれば、いとしい至高者から切り離されているという幻覚である。

 

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