活仏とのスキャンダラスな関係
宮本神酒男
ある活仏の死の時
1989年5月10日、インドのソーナダの寺で、偉大なる魂がこの世界を去ろうとしていた。
その名はカル・リンポチェ(Kalu Rinpoche)。
カル・リンポチェの最期の数日間の苦闘を、弟子であったヒュー・レスリー・トンプソンが詳しく描いている。カル・リンポチェは古代日本の密教僧が即身仏になったときのように、禅定の姿勢のまま入定しようとしていた。
「(横たわった姿勢からリンポチェは)上半身を起こしたが、それはあまりにも苦痛だった。それから身体をやや持ち上げた姿勢に戻し、激しく息をつき、また上半身を起こそうとした。点滴の管が腕から滑り落ちたが、だれもそれを拾いあげようとはしなかった」(トンプソン)
死後二日たっても、リンポチェは禅定の姿勢を保っていた。呼吸も心拍も停まっていたが、肌は柔らかく、まるで眠っているかのようだった。三日目の朝、トゥクダム(禅定)が終わり、入滅したとみなされた。
トンプソン氏はこの偉大な僧の寂滅に立ち会うことができたのである。
私はチベットで、禅定の姿勢のまま亡くなった高僧の話をチベット人の友人から聞いたことがある。その高僧は坐して死んだだけでなく、床から数センチ浮いていたという。
「そんなことありえんでしょう、いくらなんでも」と私が不審そうにいうと、チベット人の友人は必死の形相で、
「いえ本当ですよ、絶対!ぼくがこの目で見たんですから」と答えた。
高僧はこのあと虹と化し、その肉体を地上に残さない。チベットでは高僧の死はそのように語られるのだ。
カル・リンポチェはチベットの転生ラマ(トゥルク)なのだが、われわれに馴染み深い転生ラマとはすこし違っていた。19世紀、カム地方(中国四川省)にジャムゴン・コントゥル・ロドゥ・タエ(Jamgon Kongtrul Lodro Taye 1813-1899)という改革者がいた。その5人の転生ラマのひとりだったのだ。通常転生ラマといえばひとりと決まっているのに、5人もいたのである。
ジャムゴン・コントゥルはジャムヤン・ケンツェ・オンポ(1820-1892)とともに、リメ(Rimed)という超宗派運動の旗手だった。彼はボン教の家族に生まれたが、15歳のときにパルプン寺に入ったカギュ・カルマ派の僧でもあった。彼はチョナン派の他性空の論を高く評価し、すべての宗派をつなぐ触媒になると考えた。ちなみにジャムヤン・ケンツェはサキャ派の僧だったが、ニンマ派のゾクチェンを、宗派を超えた哲学として評価した。
このようにカル・リンポチェは、19世紀後半のチベットに起こったリメ運動の旗手の転生ラマと認定されたのだった。彼はカルマパ1世の後裔の家族に生まれただけでなく、父はカルマパ15世そのひとであり、15世はジャムゴン・コントゥルの弟子だった。このような環境下では、リメ運動的な広い視野を持つことができたのは当然だといえる。
同時に、ヒュー・レスリー・トンプソンによれば、カル・リンポチェは「3年3ヶ月の修行」や「隔絶された場所での20年の修行」などをこなした修行者でもあった。
カル・リンポチェの最大の功績は、1959年に難民としてインドに逃れて以来、数多くの西洋人の信者を増やしたことだろう。このヒュー・レスリー・トンプソンやリチャード・バロン、フランソワ・ジャクマールらは代表的な西洋人の高弟である。彼らはカル・リンポチェの通訳を務めながら、多くのチベット語の経典や著作を翻訳してきた。
こうしてカル・リンポチェはチベット人だけでなく、欧米の数多くの弟子や仏教徒から、高僧として尊敬され、崇拝されるようになった。ところが1996年、ジューン・キャンベルの『空中の旅人』(June Campbell"Traveller in Space")が出版されると、事態は一変する。彼女はカル・リンポチェが彼女を明妃(性的パートナー)という名のもとに利用したとして糾弾したのである。
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