インド
カーラチャクラがインドに導入される時、われわれははじめて西欧スタイルの歴史科学によって規定された歴史と接することになる。この時期以前にアビブッダ、あるいはカーラチャクラ・タントラがインドで知られていたかどうかは議論の余地があるだろう。しかし実践的に使われたかどうかという観点でみるなら、カーラチャクラの教義は11世紀はじめに現れたのである。
この時期は2つの事実によって特徴づけられる。
1 インド人たちによって使用されてきたカーラチャクラの教義の基本テキストは、シュリー・カーラチャクラとヴィマラプラバであり、計算上1012年という年が含まれていた。カーラチャクラ・ラグカラナムでは、この年が天文学の基本となっている。テキストが作られるときにこの日時が正確でなければならないということではないが、カーラチャクラ天文学の数学とその他の証拠によって、これらのテキストが編集されたのがこの年の前後であるとみてまちがいないだろう。
2 初期においてカーラチャクラを布教したのは、インドのヴァジュラーチャーリヤたちであり、日時が確かめられるものはすべて11世紀はじめであることを示している。そのことは以下に示したい。
ヴァジュラヤーナのほかの教えと違って、カーラチャクラを導入し、広めるために、とても狭い同時代的な枠組みを作ることができる。しかしながらこうしたことがどのようにおこなわれてきたか、はっきりしていない。われわれがソースとしているチベットの歴史家たちは、膨大なインドの説明を提示するけれども、それらは互いに矛盾していることもある。あるチベットの歴史家は外交官のように述べる。
「概して言うなら、インドの伝説も不確かである」
異なるチベットの歴史を比較すればどうなるかといえば、混乱にさらに拍車がかかるということである。
インドの伝説の混乱のもとをたどると、インドの一部のヴァジュラーチャーリヤが複数の名を持っていることがある。一方で、2、3人のグルがひとつの名で呼ばれているケースがある。一般的な原則としてこのことはチベット、西欧、両者の歴史家から受け入れられてきた。
インドにさまざまな伝説が生じたのは、伝承の仕方がいくつも存在したからである。あとで述べるように、カーラチャクラはインドからじつに多くのグルの法統を通してチベットにやってきた。このように、もともとインドで、自分たち自身がさまざまなステージ(段階)のカーラチャクラを会得した多くのインド人大師のもとでチベット人は学んだ。ずっとのちにチベット人が書き留めるまで、こうした教えが口承で伝えられてきたので、さまざまなバージョンのインド起源のカーラチャクラがあったとしても不思議ではない。
つぎに示すのは、インドのカーラチャクラの歴史の重要な文献の翻訳である。私が知る限り、プトン・リンチェンドゥプは1329年に、これをもっとも古いものとみなした。これはプトンのつくり話ではない。おそらくそれは失われてしまった古い口承の伝説をもとにしているのだろう。
プトンによればインド起源の伝承には2種類ある。ひとつはラ(Rwa)の伝承。それはネパールのパンディット、サマンタシュリバドラとチベットの翻訳官ラ・チューラプによってチベットにもたらされた系統。もうひとつはド(Bro)の伝承。カシミールのパンディット、サマナタとチベットの翻訳官ド・シェーラプダクによってチベットにもたらされた系統。ラ氏とド氏はチベットの部族名である。翻訳につづいてほかの文献から情報を示し、論じ、翻訳上曖昧だった点に光を当てたい。
ラ系統の伝承によると、三王統治時代のインドに、カーラチャクラとボーディサットヴァ経典として知られる論考集が現れた。三王というのは、東の象の王デーハパラ、南の人間の王ジャウガンガパ、西の馬の王カナウジのことで、現在のボドガヤであるヴァジュラサナを中心とする地域を支配していた。当時、すべての仏法を理解したとされる偉大なるパンディットのチル(Tsi lu)が東インド五か国のひとつ、オリッサに生まれた。ツィルはラトナギリ・ヴィハーラ(オリッサ州のチュッタク)やヴィクラマシーラ、ナーランダですべての仏典を学んだ。
チルはとくにラトナギリ・ヴィハーラで学ぶことが多かったが、それはトルコ人の攻撃によるダメージが少なかったからだった。チルは一回の人生で悟りを得るためにはマントラヤーナを学ぶ必要があることを、とくにボーディサットヴァ経典に含まれる教義をあきらかにする必要があると理解した。これらの教えがシャンバラにあることを知っていたので、また神からのお告げがあったので、彼は大海で宝石を探す交易商人の隊商に参加した。海を航行する交易商人の隊商に同行したあと、6か月後、袂を分かった。
チルは旅をつづけ、そしてついに山を登っているとき、ひとりの男と会った。男はたずねた。
「どこへ行こうとしているのだ?」
「ボーディサットヴァ経典を探しにシャンバラへ向かっているところです」
「そこへ到達するのは非常に困難である。そのことを理解するなら、あなたはここでさえそれを聞くことができるだろう」
チルはこの男がマンジュシュリーの化身であることがわかったので、身を投げ出して礼拝し、マンダラを捧げ、教えを請うた。男はすべてのイニシエーション儀礼を施し、タントラの秘密の論考を披露し、口承の教えを伝授した。彼はチルをつかむと、頭の上に花を置いた。そして祝福をしながら言った。
「これがボーディサットヴァ経典のすべてであると理解せよ」
このように、水がひとつの器から別の器に移されるように、チルはボーディサットヴァ経典全体を会得した。彼はもと来た道にもどると交易商人たちと会い、ともに東インドに帰還した。
もうひとつの伝承によると、といってもおそらくラの系統だが、パンディットのチルはヨーギ(行者)の息子で、父が彼をシャンバラへ連れて行ったという。そこで彼は容姿のうるわしい僧侶と会ったが、彼はアヴァローキテーシュヴァラの化身だった。僧侶の祝福を受けると、チルは毎日千の頌を覚えることができるようになった。タントラの秘密の論考すべてを記憶したので、彼はインドにもどると、出家したときの名前チルパで有名になった。
のちにチルパはカタカの国王の都(現在のオリッサ州チュッタク)に住んだ。彼には3人の弟子がいた。弟子たちにタントラの論考を一巻にまとめて書いてほしいと請われて、彼はそのとおりにした。弟子のひとりは凡庸だったが、第二の弟子ジーナカラグプタ(ギャルワイ・チュンネ・ベーパ)は成就者となった。もうひとりの弟子、ベンガル生まれのピド・アーチャーリヤはボーディサットヴァ経典全体を理解し、経験的に学んだ学者となった。
その頃もうひとりの王がカタカに戦争を仕掛けたので、大師と弟子たちはタントラ経典を穴に隠し、逃げた。戦闘が収まり、彼らが隠した経典を探すと、サムヴァラ経典の論考の後半とヘーヴァジュラ経典がなくなっていることに気づいた。弟子たちはチルパに失われた部分を再度書くよう頼んだが、彼は拒んだ。ダーキニーがそれらを隠したのに、ふたたび書くのは適切ではないと考えたのだ。チルパはそれから東インドへ帰っていった。
のちにピンダ・アーチャーリヤは、ボーディサットヴァ経典を、ヴァレーンドラ(北ベンガル)生まれのアーチャーリヤ・大カーラチャクラパダに教えた。大カーラチャクラパダはすぐ理解し、先代大師のように教えが経験としてわかった。
カーラチャクラパダはターラー女神のヴィジョンによって、望んだものすべてを請うことができるといわれた。そしてターラーの命令によってシャンバラへ行ったという。その途中、彼はアヴァローキテーシュヴァラと出会った。アヴァローキテーシュヴァラは彼をカラパの白檀の森のなかにあるマンダラの家へといざなった。そこで彼はイニシエーション儀礼を受け、経典を授かり、タントラの論考の説明を与えられた。カーラチャクラパダはそれから東インドにもどり、プッラハリ(メトクキム)で暮らした。数多い弟子のなかでも4大弟子がよく知られる。それは小カーラチャクラパダ(ドゥシャプ・チュンワ)、ヴィナヤカラマティ(ドゥワ・チュンネ・ロドゥ)、シンハドヴァジャ(センゲ・ギャルツェン)、アナンタ(タイェ)である。
小カーラチャクラパダはマンジュハ地区(北ベンガル?)の東に生まれた。彼はボーディパ、あるいはナレーンドラパとも呼ばれた。彼がダルマカラと同一人物とする説もあるが、肯定しがたい。というのもダルマカラはサドゥプトラの弟子であり、あきらかに後代の人物だからである。ラ系統の伝承によると、小カーラチャクラパダはラトナカラにボーディサットヴァ経典を教えたという。ラトナカラはナーランダでそれを広めた。しかしふたりは師弟関係にあったのではなく、友人同士であったと主張するラマたちがいた。小カーラチャクラパダはナーランダにカーラチャクラ寺を建て、たくさんのパンディタを引き寄せた。彼らは弟子となった。ラマたちはこれがほかの系統と関係があり、ラトナカラに言及する必要はないと主張する。
小カーラチャクラパダは、もしカーラチャクラがマガダ国で教えられたら、インド全体に広がるだろうと考えた。この「木の座を持つ者」(シン・テン・ツェン)がマガダを統治し、センダパ人がオータナプリ・ヴィハーラを統括している時期に、小カーラチャクラパダはナーランダへ行った。彼はヴィハーラの扉の上部に、「10の面に力を持つ者」(ダサカラヴァシ、ナムチュワンデン)というマントラを書き、その下につぎのように書いた。
パラマディブッダを知らない者たちは、ナマサムギティを知らない。ナマサムギティを知らない者たちは、ヴァジュラダーラの叡智の身体を知らない。叡智の身体を知らない者たちは、マントラヤーナを知らない。マントラヤーナを知らない者たちはすべてサムサーラから脱することができない。彼らはバガヴァン・ヴァジュラダーラの道からはずれてしまっている。
ナーランダで生活するおよそ500名のパンディットたちはこれを見て気分を害した。そして小カーラチャクラパダと論じ合った。彼はカーラチャクラの教義の深遠さとはかりしれない本質を示して彼らを打ち負かし、パンディットたちは弟子となった。とくにマンジュキルティ、アビユクタ、パンディット・パルヴァタ(リボパ)、ダ・ボーディサットヴァ(ダチャン・チュブセンパ)、アバヤ、マハープニヤ(プニヤ・チェンポ)、カシミール人ガムビラ、サンタグプタ、グナラクシタ、サマナタ、ツァミ(サンギャ・ダクパ、あるいはミニャクのブッダキルティ)らがよく知られている。王室の者やクシャトリヤ、商人までもがこの教えを信仰し、テキストを書写し、彼らの将来の教義の悟りの「因」を創り出すことになった。このようにしてカーラチャクラは大いに広まった。のち、ネパールのパタン(イェラン)生まれのパンディット・サマンタシュリーバドラは5人の大師が教えるカーラチャクラを聞いた。とくにマンジュキルティに帰依した。
ド(’Bro)系統の伝承によると、カーラチャクラはカルキ・シュリーパラの統治時代にインドへもたらされた。夫婦がヤマンタカ・タントラに記される儀礼のとおりに、きっちりと子宝を願うヤマンタカのヨーガを実践していると、息子を授かった。息子は成長し、北でボーディサットヴァたちが仏法を教えていることを知ると、彼らのもとへ行った。カルキ・シュリーパラはその超常的な力によって、若者の純粋な動機と深奥な仏法を求める熱意を感知した。カルキはもし若者がシャンバラへ来ようとするなら、命が危険にさらされることを知っていた。というのも、シャンバラに到達する前に4か月ものあいだ水のない荒涼とした地域を歩かねばならなかったからだ。シュリーパラは若者に会うべく砂漠の入り口で化身の姿に身を変えた。
カルキは若者にたずねた。
「おまえはどういった理由で、どこへ行こうとしているのか」
若者が意図を説明しようとしたところ、カルキが先に言った。
「この先の道は大変困難だ。しかしもし理解できるなら、ここで私の言うことに耳を傾けてもらえるだろうか」
若者はこの人がカルキの化身であることがわかったので、指示を求めた。カルキはその場で若者にイニシエーション儀礼を授け、4か月のあいだアヌッタラ・タントラ、とくに3種の内ボーディサットヴァ経典の論考を教えた。水瓶の縁まで満たされるように、若者は理解し、すべてのタントラを覚えた。インドに戻ると彼はマンジュシュリーの化身として有名になり、カーラチャクラパダと呼ばれた。
その頃インドに愚鈍な僧侶がいて、知性を高めたいと思っていた。夢の中で守護神からもらった命令にしたがって、珊瑚から女神クルクッラの像を作り、女の遺体の口に詰めこんだ。遺体の背中の上に足を組んで座り、7日間、サーダナ(行)を励んだ。すると遺体の顔が見上げて、口を開いた。
「あなたは何をお望みですか」
彼は読んだものすべてを記憶する能力を得たいと思ったが、生来愚鈍ゆえ、書いたものすべてを記憶したいと言ってしまった。遺体は言った。
「ならば、そうあれ」
このとき以来彼はパンディット・ヴァギシュヴァラキルティ(ンガクギ・ワンチュク・ダクパ。有名な言葉の神の意)と呼ばれるようになった。彼はカサルパナのヴィハーラに住んだ。あるとき彼はアーチャーリヤ・カーラチャクラパダにたずねた。
「いくつのタントラをご存じですか」
アーチャーリヤは「このタントラ、あのタントラ」と具体的にタントラを挙げたが、パンディットは名前をひとつも覚えることができなかった。
カーラチャクラパダにはたくさんの弟子がいた。そのうち何人かはヨーギとなった。弟子のなかで教えを受け継いだのはナレーンドラパだった。彼は小カーラチャクラパダと呼ばれた。彼はグルとおなじくらいの能力を持っていたといわれる。カーラチャクラパダとナレーンドラパは別人物で、師弟の関係にあったと主張する人もいる。
その頃、カシミールに頭のいいバラモンの息子、ソーマナタが生まれた。12年間、彼は父親の異教徒の法を学んだ。しかし母親は仏教徒だったので、息子に仏教を学ぶようにと言った。彼女は息子をカシミールのパンディット、ブラフマナパダ(ダム・セ・シャブ)のもとへと送った。ソーマナタはとてもきれいな顔をしていたので、パンディットの娘は彼にたいして言った。
「仏法を聞くためには、私と性的に交わらなければなりません」
ソーマナタはその提案を受け入れ、仏法をたくさん聞くことができた。
当時大カーラチャクラパダの弟子ヴィナヤカラ・マティ(ドゥバイ・ロドゥ)は、セーコーッデーサとセーカプラクリヤの論考をブラフマナパダに送った。ブラフマナパダはそれらをソーマナタに見せた。彼はそれらを読んで賞賛した。ソーマナタはマガダ国へ行き、大小カーラチャクラパダと会い、3つのボーディサットヴァ経典の論考に関する教えを受け取った。
その頃ソーマナタはカシミールの学者ラトナヴァジュラ(リンチェン・ドルジェ)とのあいだで論議になり、ソーマナタが勝った。ラトナヴァジュラは彼にほかの地へ行くべきだと言った。そうでなければ彼が弟子からの信頼を失ってしまうというのである。ソーマナタはチベットにカーラチャクラの教えを広めたいと考えていたので、しぶしぶではあるが同意した。
ラ(Rwa)系統とド(’Bro)系統はカーラチャクラのインド起源にたいし、異なる説を唱えている。とりわけラ系統はカーラチャクラがいかにインドにもたらされたかに関し、いくつもの見解に分かれている。それにもかかわらず、われわれはラ系統とド系統を単純化し、つぎのような表にまとめることができる。
先にラ系統を見ると、特筆すべきは、時系列のなかにそれがマンジュシュリーであろうとアヴァローキテーシュヴァラであろうと、化身としてカルキ王の名が現れないことであ
同様にチルは、個人の存在としてはとくに曖昧である。チベットのタンジュル(大蔵経)には、彼の著作とされるものが2つ含まれる。すなわち『グヒヤサマージャに対する論考』(北京#2709)と『サダンガヨーガの短い訓戒』(北京#2090)。しかし両者ともカーラチャクラやボーディサットヴァ経典には本質的に関係ない。
時系列上のピンドーのところまで来ると、事情は変わってくる。アティーシャ(982−1054)としてよく知られるベンガル人グル、ディパンカラシュリージュニャーナは、有名な著作『ボーディパタプラディパ』(菩提道灯論)のなかで「偉大なるアビブッダ・タントラ」に言及しているのだ。『ボーディパタプラディパ』の自序のなかで彼は、パラマディブッダは彼の師匠(グル)、ピンドー(bSod snyoms pa)の口伝の伝承から引用したものだと述べている。アティーシャはまた、グル・ピンドーが僧侶であり、スヴァルナドヴィパ(gSer gling)すなわちジャワ(Yava dripa ;
Ya ba di pa)から来たとも述べている。この情報は、『シュリー・カーラチャクラガルバランカラ・ナマ・サーダナ』(北京#2081)の注釈とも見事に照応している。このサーダナは、チベットのタンジュル(大蔵経)のなかでカーラチャクラ関連の翻訳においてもっとも古いもので、南海の国に生まれた偉大なる学者、バラモンのピンドー(bSod snyoms pa)によって著されたという。
思うに、ピンドーが南海の国ジャワに生まれたとされているのは、ド系統のカーラチャクラの祈祷文のなかに現れるきわめて奇妙な箇所を説明するためである。プトンによって記録されたこの祈祷文は「南海のはてにおけるカルキ・シュリーパラの祝福」を求めている。このことから、カルキ・シュリーパラがピンドーの別名であることが推測できる。
カルキ・シュリーパラとピンドーが同一人物であることは、ターラナータの『印度仏教史』の主張と軌を一にする。そこには「マヒパラの後半生のとき、ピンドー・アーチャーリヤがカーラチャクラをもたらした」と書かれている。ターラナータが言及するマヒパラとは、パタ王マヒパラ1世(在位988−1038)のことにちがいない。私には、シャンバラ王朝において、カルキ・ドリパラがカルキ・マヒパラの後継者であるのは、たんなる偶然とは思えない。(補遺参照)私が信じるように、もしピンドーがマヒパラ治世の時代にカーラチャクラをインドにもたらしたとするなら、シャンバラを統治するカルキと東インドを統治する王侯の名をおなじにするのは、天才的なひらめきである。
ラ系統とド系統の翻訳からはっきりとわかるのは、カーラチャクラの教義の体系はボーディサットヴァ経典(Byang chub sems dpa’i skor)とともにインドにもたらされたことです。この3つのタントラの論考はつぎのとおり。
(1)カルキ・プンダリーカの『ヴィマラプラバ』
(2)ボーディサットヴァ・ヴァジュラ・ガルバによる『ヘーヴァジュラピンダルタティカ』(北京#2310)
(3)ボーディサットヴァ・ヴァジュラパーニ(金剛手菩薩)による、『Laksabhidhanaduddhrtalaghutantrapindarthavivarana
nama』(北京#2117)
これらのテキストは、カーラチャクラ、ヘーヴァジュラ、サムヴァラの短縮版タントラ(laghutantra)の注釈である。また(2)(3)の注釈はカーラチャクラの特別な考えにしたがってタントラを説明したものである。3つの注釈とも、逐語的な文を含み、文体や教義に特徴がある。これらはどれもパラマディブッダに言及している、あるいは引用している。(2)(3)の注釈はピンダルタチカ、ピンダルタヴィヴァルナと呼ばれる。チベット人翻訳官が示したように、これらは「凝縮した意味の注釈」を意味している。それらはおそらく「ピンドーの考え方にしたがった注釈」と翻訳することも可能だろう。
もしカルキ・シュリーパラとピンドーを同一と認定するなら、ラ系統もド系統も彼が大カーラチャクラパダの師であることに同意するだろう。さらに私は踏み込んで、カーラチャクラパダがピンドーの別名であるという考えを提示しよう。私は歴史的に重要な文献であるプンダリーカの『カーラチャクラ・タントラ(ガルバ)・ヴリッティ・ヴィマラプラバ・ナマ』(北京#4608)への翻訳者の注釈をもとにしている。この注釈は、インドのパンディット、シュリー・バドラボーディの指導のもと、ギジョ・ダパイ・ウーセルが書いたものである。私はその翻訳を以下に掲げたい。
カーラチャクラ(Dus kyi ’khor lo pa)と呼ばれる者はシャンバラという国へ行き、超常的な力を得た。ナドー(Na ro pa)と呼ばれる者は、カーストはバラモンだが、ウッディヤーナに生まれ、彼(カーラチャクラ)の法統の後継者となった。彼はシャクティから生まれ、神によって権威づけられた。グル(シュリー・バドラボーディ)は彼(ナドー)とおなじカーストだった。彼はタントラを聞き、天神から学んだ。彼が説くのを聞き、この注釈を翻訳しようと試み、恐れのない至福の状態に至ることができた。
チベット人ではじめてカーラチャクラのテキストを翻訳したのは、ギジョ・ダワイ・ウーセルである。彼は11世紀半ば、アティーシャの指揮のもと翻訳事業に携わっていた。ギジョのカーラチャクラの法統を図にするとつぎのようである。
ナーローパの名で知られるナドーは1030年に逝去した。ナドーがカーラチャクラの師匠であったことをわれわれは知っている。これはセーコーデサについて書いた厖大な注釈からもあきらかである。しかしこのとおりだとするなら、なぜラ系統やド系統に先立つカーラチャクラの法統のなかに彼の名が登場しないのだろうか。
じつは彼の名は登場している。プトンが語るように、ギジョ・ダワイ・ウーセルのグル、シュリー・バドラボーディはカーラチャクラパダ(Dus zhabs)の弟子なのである。このように、インドの初期のカーラチャクラ信仰において、ナドーは小カーラチャクラパダ、あるいはナレーンドラパ(ナーランダの人)と呼ばれた。前者の名は十分にありえるだろう、というのもギジョが言うように、ナドーはカーラチャクラをシャンバラからインドへもたらしたカーラチャクラの法統の継承者だからである。後者の名もナドーに適合している。ナドーは同時代のナーランダのヴァジュラーチャーリヤの至宝だったのだから。
これまでの議論をまとめて、自分自身の見方を入れて、インドの初期のカーラチャクラの伝承をつぎのように図表化したい。
年代記から見たこの理論に障害はない。なぜならアティーシャはピンドーとナドー両者の同時代の仲間であり、年下だからである。またマヒパラ王統治の後期にピンドーがカーラチャクラをもたらし、偉大なるナドーはこの極度に特別な教義を導入したグル本人から直接学んだというターラナータの主張を私は受け入れる。
もしこの理論が正しいなら、これがありうる唯一のインドにおけるカーラチャクラの伝播である。タンジュルに納められたカーラチャクラ文学を読めば、これが学派が息づいていることの証しである。ひとりやふたりの個人の創作物ではないのだ。
この点を明確にするために一例を挙げたい。アヌパマラクシタは、カーラチャクラ・サダンガヨーガの警句の源泉として、多くのチベット人ラマから尊敬されるインド人僧である。しかし少なくともこの名では、カーラチャクラの法統のなかに出てこない。アヌパマラクシタはカーラチャクラの初期の大師のひとりであることはまちがいない。なぜならナドーがその名を権威として引用しているからだ。またアヌパマラクシタの『サダンガヨーガ』(北京#2102)は24の詩頌を含むが、それらはヴィマラプラバの最初の注釈なのである。どうやらインドのカーラチャクラ史について定義するとき、さらなるリサーチが必要になりそうである。
インドのカーラチャクラ史は、インド後期のヴァジュラヤーナ仏教史と分離することはできない。そして西欧の歴史科学の視点からみて、インドのヴァジュラヤーナ仏教史は十分に書かれてはいないのだ。しかし一つの点ははっきりしている。11世紀はじめにボーディサットヴァ経典がもたらされて以降、組織化された宗教としての仏教が13、4世紀、中央アジアの野蛮な勢力に駆逐されるまで、カーラチャクラが北インドのヴァジュラヤーナ仏教徒のイマジネーションをとらえてきたのである。名高いヴァジュラーチャーリヤたちはカーラチャクラをテーマとした文学を生み出した。たしかにカーラチャクラは、インドのヴァジュラヤーナ仏教の全盛期を作り出した。
またカーラチャクラが国際的な宗教現象になったのもこの時代だった。マガダ、ベンガル、オリッサの偉大なる寺院大学から東へ、南へ、ビルマへ、インドネシアの島々まで、それは広がった。同時にカーラチャクラは北へ、カシミール、ネパール、チベットへ、そしてチベットからモンゴル、中国へと伝播していったのである。