カルガーの大仏に大接近

宮本神酒男

 私はカルガーの大仏の真下に立った。ほかに、だれもいない。秋めいた風が吹き抜けていくだけだ。

 突然私の頭はボッとし、変性意識状態にでも入ったかのように、無意識のうちに岩壁を登りはじめていた。ひとりでなかったら、危険だと諌められ、断念していただろう。上れば上るほど、大仏の表情が変わっていくのが奇異に感じられた。なんとカルガーの大仏はタラコ唇でおわす。

 近くで見ると、その彫り方は、繊細というよりも棟方志功の版画のように大胆で荒削りだった。大仏はアバヤ・ムドラー(無施畏印)のポーズを取っているが、問題は左手に何を持っているか、だ。ビッドルフらは、長い剣のようなものを下げていると考えた。下から見ると、それはダマル(でんでん太鼓)なのだった。ダマルを持つ神といえばシヴァではないか! 大仏はシヴァ化したブッダなのか。

 と色めきたったのであるが、残念ながらあとで遠くから撮った正面の写真を拡大したところ、ダマルでないことだけは確認できた。では何なのか。残念ながら今のところ結論は出ていない……。

 シンプルな彫り方が行き過ぎて、下半身が曖昧な描き方をされているため、この仏像は本当に男なのか、という疑念がのちの地元民のあいだに起こった。19世紀に訪れたジョン・ビッドゥルフによると、現地の伝承では、カルガーの大仏はブッダどころか魔女ということになっていた。昔、峡谷に旅人を喰らう魔女がいた。魔女は一日にふたりの旅人を捕らえると、ひとりだけ喰い、ひとり捕まえた場合、体の半分を喰った。あるときひとりの聖人が村人を救おうと立ち上がった。いつものように人間を喰おうと聖人に襲いかかると、逆に聖人のパワーによって魔女は石に閉じ込められてしまったのである。その後聖人は村を去ることになり、その際、「岩に閉じ込めた魔女を復活させないため、もし私が死んだら、どこで死んだとしても遺体をもちかえって、岩の下に埋めてほしい」と言い残した。ところがいざ聖人が死んでその遺体を運び、埋めるという段になって、一ヶ所に決めることができなかった。隙間から魔女が逃げ出しそうに思えたのである。そのため村人は聖人の遺体をばらばらにして、岩のまわりに埋めたという。

 奇妙な伝承である。ある時期から仏教徒が消え、ヒンドゥー教徒の時期をへて、イスラム教徒ばかりになったとはいえ、仏像であることぐらいはわかりそうなものである。もしかすると股間に性別を示すものがなかったため、ヒンドゥー教徒からすれば女としか思えなかったのかもしれない。

 また大仏が崖のはるか上のほうに彫られていて、人間業とは思えないことも、伝承が生じた要因のひとつといえる。ビッドゥルフはかつて崖の下の地面が大仏のあたりまで迫っていたが、浸食作用によって地面が下がったのだろうと推測している。千数百年の時間はそこまで地形を変化させるものなのだろうか。この大仏は7世紀頃に彫られたのだろうと言われている。顔のやわらかい雰囲気、やや粗いタッチは、ラダックの石仏を彷彿とさせるものがある。また私自身目で見ていないのだが、ギルギットの奥の谷、プニヤルの石仏(8世紀頃)もなんとなく似ている。あとで述べるバルチスタン、スカルドゥ郊外のマンタルの大仏も同類である。とすればこれらはチベット人によって彫られたのだろうか。ただし吐蕃に仏教が伝わったのは遅くともソンツェンガムポ王の時代(7世紀前半)とはいえ、国是として仏教を推進したのはサムエ寺建立の8世紀後半以降である。ダルド人やトルコ系の可能性も十分にある。

向かいの道路からカルガーの大仏を撮る。懸度と同様の穴が13個あいている。足場を作ったのか。

ギルギット郊外、カルガーの大仏。右足の下近くまで上ってみた。

近づいてみると、タラコ唇であることが判明。

マントと右足のアップ。どのように彫られているか、わかるだろう。

左手のアップ。この角度だとダマル(でんでん太鼓)のように見えた。

ダマル(でんでん太鼓)とそこから垂れる飾りひものように見える。

遠くから撮った写真を拡大。ダマルではない。サーベルのようなものだろうか。