カルマと輪廻転生
イエスは輪廻転生について教えたのか
エリヤはすでに来ている。彼らはそのことを認めようとしなかった。それどころか彼に対して好き勝手なことをしていた」そして弟子たちは彼がバプテスマのヨハネについて話していることを理解した。(マタイによる福音書17章)
イエスはたしかに前節に見たように、カルマの概念については教えていた。では輪廻転生についてはどうだろうか。聖書とほかの初期のキリスト教文書もイエスおよび信徒たちが教えていたという説得力に富む証拠を提供してくれる。
第一の証拠は盲目で生まれた男に関するエピソード。イエスと弟子たちが盲目の男のそばを通ったとき、弟子が尋ねた。「師よ、この男が盲目に生まれたのはだれが罪を犯したからなのか、この男なのか、両親なのか」と。彼らは盲目になるための二つの可能な要因を挙げている。彼らは盲目になった原因は両親の罪のせいなのかと尋ねた。というのも旧約聖書の法によれば、「父の罪の影響が三代か四代のちの子どもにふりかかる」というのである。しかし彼らはまた盲目は男自身の罪の結果なのかどうかとも尋ねている。男は盲目で生まれたので、生まれる前に罪を犯すということは、前世で罪を犯したということなのである。
イエスが問いに答えたとき、みなが驚かされた。
「本人が罪を犯したのでなく、両親が犯したのでもない。神の御業が彼の上に現れたのである」(ヨハネによる福音書9章)
男が罪を犯したのではなく、彼の両親が犯したのでもなかった。自由意志によって彼はこの状態で生まれたのであり、それゆえイエスは彼を癒すことができた。つまり神の御業が彼に示されたのである。
もしイエスがカルマや輪廻転生を信じていなかったら、この教義を否定することができたが、しなかった。実際のところ、福音書にも、使徒が書いたものにも、黙示録にも、ほかのキリスト教文書にも、イエスがカルマや輪廻転生を否定したという記録はいっさいないのである。
こうした描写からイエスと弟子たちはなおもカルマや輪廻転生について語り続けたようである。イエスは弟子たちの質問を軽んじることはなかったし、彼らが与えた選択肢に関して説明しすぎるということはなかった。イエスにとって弟子たちがすでに知っていることを繰り返す必要はなかった。そのかわりに普遍的な法には例外があること、またこれがそのひとつであることを示すいい機会だった。
イエスが輪廻転生について教えた例は、「キリストの変容」の山から弟子たちとイエスが歩いて下りるときに起きた。山上で彼らはモーセとエリヤがイエスと話をしているのを見た。弟子たちはイエスに尋ねた。「なぜ書記たちはエリヤが最初に来たに違いないといわないのでしょうか」と。言い換えるなら、もしエリヤがあなたより前に来ていたなら、彼は天国で何をしているのか、そしてなぜ地上で彼を見ることができないか、ということである。
イエスは答えた。「たしかにエリヤはやってきて、すべて元通りにするだろう。しかしあなたがたに言っておく。エリヤはすでにやってきたのだ。しかし人々は彼を認識できず、自分勝手に彼をあしらったのだ」。マタイによる福音書では、つぎの一節がつづく。
「そのとき弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネについて話しているのだと理解した」。
イエスはエリヤがバプテスマのヨハネに転生したことを明かしたのである。ヨハネは刑務所に入れられ、ヘロドによって首を切られるという悲劇を味わうことになる。
イエスの時代のユダヤ人の間には、メシアの先駆けとして預言者エリヤがふたたびやってくるというよく知られた俗信があった。マラキはかつて預言した。「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたにつかわそう」。(マラキ書4章)
この一節に輪廻転生の信仰が含まれているという考え方は、今世紀になって生まれたのではない。4世紀の教父ヒエロニムスは、一部のキリスト教徒はイエスと弟子たちが輪廻転生の概念を受け入れたか、少なくとも気がついていると信じているが、マタイによる福音書の一節が輪廻転生を支持していると解釈すべきではないとはっきりと論じている。
キリスト教徒のなかには、聖書の中に輪廻転生の教えと理解されるものが含まれていないので、キリスト教徒はこの考えを信じるべきではないと主張する人たちがいる。もしこれが正当であるなら、キリスト教徒は三位一体や原罪の教義を信じるべきではないということになる。なぜならそれらは聖書に登場しないのだから。
わたしたちはまたイエスのオリジナルの教えがすべて残っているわけではないことを知っている。『使徒言行録』は、復活のあと、イエスが弟子たちに40日間にわたって「神の王国に関すること」を教えたと述べている。彼が何を語ったかという記録はなく、ヨハネは自分の福音書をつぎのように腹蔵なく語って終えている。
「イエスのなさったことはほかにもまだたくさんある。もしいちいち書きしるすならば、世界も書かれた書物を収めきれないだろう」
さらに付け加えると、イエスが輪廻転生という考え方に否定的でなかったのは、賞賛すべきことだろう。彼の時代、ギリシアの考え方がユダヤ人の思考に浸透していた。多くの学者は、イエスは多くの1世紀のユダヤ人と同様、ギリシア語を話し、ギリシアの考え方に接することができた。ギリシアの宗教の大きな潮流となっているのは輪廻転生の信仰だった。
イエスと同時代人であるローマ帝国の政治家キケロ、そして偉大なるローマの詩人ウェルギリウスは輪廻転生を信奉していた。パレスチナの多様文化の風土の中にいて、東へ伸びる貿易ルートがあり、イエスは輪廻転生というインドの考え方に接しやすかっただろう。さらには根本的な証拠として、『イエスの失われた歳月』で再吟味したように、12歳と30歳の間にイエスは自身インドを訪ねているのである。
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