カルマパ列伝 カルマ・ティンレー 宮本神酒男編訳
カルマパ2世 カルマ・パクシ
Karma pa Karma
Pakshi (1206−1283)
カルマパ2世カルマ・パクシは1206年、8世紀のダルマ王チソンデツェンの末裔の家族に生まれた。熱心な宗教実践者であった両親は息子をチューズィンと名づけた。
チューズィンは早熟な子供で、6歳になるまでに読み書きが完全にできるようになった。10歳になるまでに彼は仏教の教義の本質をつかんでいた。知的能力に加えて直感的な理解の速さがあり、心を落ち着かせることができた。このように本質的な才能を備えていたので、瞑想の師であるポムダクパは彼に心の本性を見させることができた。それによってチューズィンは自発的な洞察力を増した。
ポムダクパ自身、ドゥスム・キェンパの後継者であるドゴン・レチェンからカルマ・カギュの法統の教えを受け取っていた。チューズィンにはじめて灌頂を授けたとき、幻視の中で、ドゥスム・キェンパとその他の師たちが、その重要性を示すかのように、彼の若い生徒の住居を囲んでいる様子が見えたことをポムダクパは説明した。さらに幻視のなかで、ドゥスム・キェンパはチューズィンが彼の転生であることを明かした。このとき以来、ポムダクパはチューズィンが二代目のカルマパ・ラマであることを認定し、ダルマ大師(chos kyi bla ma チューキ・ラマ)という称号を贈った。ついで彼はカルマ・パクシに戒を授けた。
11年間、カルマ・パクシはサラハとガムポパのマハームドラーを中心として、ポムダクパから学んだ。彼は教えを受けるとすぐにそのまま会得できる高い能力を持っていた。この時期の学習の結論としてポムダクパは彼に、表面的な理解は発展させたが、なお法統の灌頂、経典解釈の伝承、他者に教えるためにシャキャムニやヴァジュラダラからの教えが必要だと言った。ポムダクパはカルマ・パクシに完全なカギュ派の教えを与え、彼の精神的父親となった。カルマ・パクシがマハーカーラの灌頂を受けたとき、彼は実際のダルマパーラの存在を体験したという。
22歳のときカルマ・パクシはカルマパ1世の弟子、カダムパ・デシェグによって創建されたカトク・ニンマ派寺院の住持であるラマ・ジャムパ・ブムから戒を授けられた。この時期の精神的修練によってカルマ・パクシはマハームドラーと組み合わせた内なる熱のヨーガに集中していた。このように彼はタントラ修行の形がある側面と形のない側面の両者を発展させた。
おりしもカム地方では治安が乱れた時代だった。カルマ・パクシは人々の希望にこたえて各地をめぐり、鎮静化をはかった。野や山、谷を含むすべてが彼には至上の幸福の場(bde mchog デムチョク、ヘールカ、勝楽)に見え、仏法が広まる可能性を秘めているように思えた。ダーカやダーキニーの踊りに縁取られたマハースカ・チャクラサムヴァラの幻視にそれは象徴されていた。のちにカルマ・カギュ派の護法神となるヴァジュラ黒衣のマハーカーラ(rdo rje ber nag can)に鼓舞されて、カルマ・パクシはカムのシャルチョク・プンリに新しい寺院を建てた。
ほかの幻視のなかでカルマ・パクシは、アヴァローキテーシュヴァラの六字真言の共同体の歌を作り、慈悲の心を表すようダーキニーに命じられた。カルマ・パクシと僧侶たちは旅回りをしながらマントラを唱和した。このとき以来六字真言(マントラ)の共同体の歌はチベットにおいて重要な、人気のある宗教的実践となった。
カルマ・パクシは瞑想修行に励みながら、新しい寺院に11年間滞在した。彼の霊的パワーの名声は遠くジャン(南詔国、とくに麗江)や中国にまで聞こえていた。四元素のエネルギーを統御することによってカルマ・パクシは状況を鎮静化することができた。この能力はカルマ・カギュ派の守護神である山神ドルジェ・パルツェクの象徴的な介在によって、より確かなものになった。
つづいてカルマ・パクシは荒廃していたカルマ・ゴン寺院を訪ねた。彼によって寺院は以前の状態に回復することができた。そしてマハーカーリーに鼓舞されてツルプ寺へ旅をし、荒廃した状況から回復させた。六年後、ナムツォ湖を経てツァン地方へ行った。そこで彼は宝物を得て、それは寺院復旧のためにできた負債を返済するのに使われた。
1251年、カルマ・パクシは、当時すでに中国・チベットの境界地域を支配していた王子時代のフビライに招待された。招請を受託したカルマ・パクシはウトク城へと向かい、1254年に到達した。その途中セルタで大規模な軍隊によって歓迎されている。
カルマ・パクシはこの訪問が将来のカギュ派にとっていかに重要であるかよく知っていた。そして彼が見たたくさんの幻視のとおりに王宮に着いた。フビライ・ハーンは丁重にカルマ・パクシをもてなし、ほかの宗教や宗派の師より優れている点を見せるように要求した。カルマ・パクシはこの要求にこたえて礼儀正しくふるまったので、すべての人がその偉大さに感服した。ハーンは彼に永久に王宮にとどまるよう要請したが、カルマ・パクシは王宮に潜在的な問題があることを見抜き、丁重に断った。
このあと中国の残りの地域は、いとこのゴディンを追放したチンギス・ハーンの孫モンケの支配下に置かれた。モンケ・ハーンはしかし弟のフビライを十分にコントロールすることができなかった。こういった時期にサキャ派は、サキャ・パンディタ(1182−1251)や甥のパクパ(1235−1284 パスパ)を通じて中国中にその教えを広めた。
アヴァローキテーシュヴァラやマハーカーラに鼓舞されたカルマ・パクシはチベット北部に旅をすることに決めた。彼が滞在を拒んだことはフビライ・ハーンの怒りを買ってしまったが、彼は中国・チベット境界のミニャクを訪ねた。到達したとき、竜巻が発生した。彼はそれがヴァジュラの黒衣のマハーカーラの顕現だと考えた。彼はまた富の守護神ヴァイシュラヴァナの幻影を見た。ヴァイシュラヴァナは彼にミニャクに滞在し、新しい寺院を立てるよう命じた。
1256年までにカルマ・パクシはチベット北東部のアムドに到達した。そこで彼はモンケ・ハーンが弟のフビライ・ハーンを抑圧し、モンゴルと中国の支配権を独り占めしようとしていることを知った。この時点でモンケ・ハーンは彼を招き、仏法を教えるよう依頼した。カルマ・パクシは申し出を受託し、ミニャクをふたたび通って、ゆっくりと中国へ戻っていこうとした。しかし幻視のなかに赤いターラーが現れ、リャンチョウ(涼洲)のモンケ・ハーンの王宮へ行くよう促された。このときまでにカルマ・パクシの仏法にかなった活動の重要性が明確になった。モンケ・ハーンの王宮へ行くまでの間に、彼の慈悲深い活動によって、状況や社会のバランスの悪さが取り除かれた。
冬のはじめにカルマ・パクシは王宮に着いた。ハーンは敬意を表して囚人を解放し、カルマ・パクシは灌頂を授け、仏典の精髄を教え、訓戒を与え、アヴァローキテーシュヴァラの慈悲の心を明らかにした。ハーンは熱心な弟子となり、カルマ・パクシは前世でカルマパ1世ドゥスム・キェンパから学んだこと、そしてカルマ・パクシとしておなじマハームドラーの覚醒を得たことを明らかにした。
仏法の卓越した技量を見せるために、カルマ・パクシは嫉妬深いシェン・シンやタオシ、エル・カオらを討論会に招待した。しかしだれもかなう者がなく、みな彼の教えを受け入れた。
アラカ王宮でカルマ・パクシはハーンとほかの弟子たちにチャクラサムヴァラの精神的実践において灌頂を授けた。モンケ・ハーンは指導通りに実践したので、イダム(個人的な守護神、本尊)を正確に思い描くことができた。のちにカルマ・パクシの瞑想の力によって、サラハや他の84のタントラの聖人(成就者)の姿が空に現れ、三日間は消えなかった。教えの力はハーンの政治との関わりに切り込み、マハームドラーの直感的理解を促進させた。
カルマ・パクシの影響力は王室におよび、中国・モンゴル文化に深い影響を与えた。サキャ・パンディタによってはじめられた文化事業を継続したのである。たとえばカルマ・パクシは月の満ち欠けの数日間、仏教徒は肉食を避けるべきだとアドバイスしている。同様に非仏教徒にもこれらの日々、彼ら自身の規律を守るよう言っている。シャキャムニ・ブッダの十善(dge ba bcu)は個人の、あるいは社会のモラルの基礎として守るべきものと強調している。
カルマ・パクシの人々の幸福を願う活動は広範囲に及んだ。たとえば13の別個の理由によって拘束されていた囚人たちが、彼に促されて幽閉先から解放された。彼自身の名声にもかかわらず、カルマ・パクシは他の宗派よりカルマパが得するように取り計らうことはなく、ハーンにも平等に支援をするよう頼んだ。
つづいてハーンはともに国中を巡察することを提案した。モンゴルの都カラコルムでカルマ・パクシは他の宗教の代表者たちと友好的に議論を交わした。一行はモンゴル・中国境界地域に入り、それからミニャクへと入った。
ここでドゥスム・キェンパのことを思い出して、カルマ・パクシはチベットに戻ることに決めた。モンケ・ハーンはグル(カルマ・パクシ)とともに満州へ行こうと計画を練っていたが、カルマ・パクシはすべての存在の不確かさを示しつつ、要求を拒んだ。ハーンは無理に引き留めようとはせず、モンゴルの勢力圏内の通行の安全を保障した。
鉄・虎の年、カルマ・パクシがチベットに戻ったとき、モンケ・ハーンが逝去し、中国では問題が勃発した。最初、ハーンの息子アラパガは叔父のフビライ・ハーンを支持する勢力があったにもかかわらず支配権を確立することができた。しかしすぐにフビライ・ハーンは権力を奪取し、アラパガはツァルパ・カギュ派のラマ・シャンの弟子の呪力によって殺害された。
このときカルマ・パクシはチベットへ戻る途中で、現地の内紛のため足止めを食らっていた。彼は仏像を造る幻視を見たが、困難な状況にあることを理解した。またそのときに見た夢には白馬が現れ、彼を救った。彼は歌をつくり、このことを祝ってつぎのように宣言した。
「この至高の馬は黄金の鳥のよう。私自身、ゴータマ・シッダールタのような至高の人である。それゆえこのように危険な時代を過ぎゆくのだ」
宮廷の陰謀に動かされたフビライ・ハーンがカルマ・パクシに対し遺恨をつのらせているという話をカルマ・パクシは耳にした。フビライ・ハーンはライバルのモンケ・ハーンの味方をするカルマ・パクシに軽んじられていると感じたのだ。フビライ・ハーンはカルマ・パクシの暗殺を決断する。
新しいハーンの兵士たちは彼をとらえ、さまざまな屈辱を味合わせ、炎で焦がしたり、毒を飲ませたり、崖から落とすなどの拷問を与えた。しかしこんなひどい目にあいながらも、彼はアヴァローキテーシュヴァラの慈悲を示し、マハーシッダの何にもとらわれない本性を明らかにした。カルマ・パクシが理解した、生まれない、何もしていない心の本性は、捕縛や拷問が彼を傷つけることはないということを意味していた。最終的に彼らに対し、カルマ・パクシは大いなる憐れみの情を表した。
こうしたできことは、フビライ・ハーンの考えをあらためさせた。暗殺よりも追放のほうがいいのではないかと彼は考えた。仏法を理解する人がほとんどいない海の近くの荒れ果てた地域に追放すれば、カルマ・パクシの健康を損ねることになるだろう。しかし数年間、カルマ・パクシはそのような状況下で文を書き、ゆっくりと健康を回復していった。そしてついにフビライ・ハーンは不憫に思うようになり、謝罪して、カルマ・パクシを近くに呼び寄せた。しかしカルマ・パクシはチベットに戻ることを希望したので、フビライ・ハーンはそれを許可し、つぎのように語った。
「朕(わたし)のことをどうかときには思い出し、祈り、祝福してください。あなたは好きなところへ行き、仏法を好きなだけ説いてください」
カルマ・パクシは長い旅路のすえ、ツルプ寺に着き、幻視で見たように、ブッダや弟子の舎利を内蔵する16米もの高さの大きな仏像を建造した。その真鍮製の仏像は「世界の飾りの大いなる聖者」(thub chen dzam gling rgyan)と名づけられた。完成したとき、仏像は傾いているように見えた。これを見たカルマ・パクシは仏像とおなじ姿勢で瞑想に入った。彼が姿勢を正すと、仏像の姿勢も正された。
1283年の死の前に、カルマ・パクシはその法統を偉大なる弟子ウルギェンパに渡した。彼はウルギェンパに、つぎの転生は西チベットに生まれると告げた。
カルマ・パクシはタントラの聖者であるとともに学者でもあった。彼の教えのエネルギーに動かされて、多くの人が霊的な旅に出た。ウルギェンパに加えて、マジャ・チャンチュブ・ツォンドゥ、ニェンレ・ゲンドゥン・ブム、モンケ・ハーンらが弟子として知られている。