パキスタンのケサル王 

宮本神酒男 


 2007年秋、黄色く色づいたポプラに覆われた岩の多い谷の村で、半盲の80歳の老吟遊詩人に会ったときは、うれしさのあまり涙が出そうでした。

パキスタンに英雄ケサル王の語り手がいることを聞いたのは、そのときから十年以上も前のことでした。でも写真も映像も見たことがなかったので、姿を想像することすらむつかしかったのです。語り手は仏教徒なのでしょうか。もしイスラム教徒だとしたら、仏教の守護者であるはずのケサル王は何をもってして英雄と呼ばれるのでしょうか。もしかすると、「アッラー・アクバル」とか「ジハード」などと叫んでいるのでしょうか。

 老吟遊詩人ムハンマド・チョーは、二日間にわたって「ホルとの戦い」を吟じてくれました。このパートはもっとも人気があり、またもっとも長いので6時間以上を要しますが、じつはラマザーン(ラマダーン)の期間中であり、信仰心の篤いムハンマドは一日5度の礼拝(サラート)を欠かさなかったのです。

 そもそも外観がチベット人の語り手とまったく異なっています。あの特殊な、神聖なケサル帽の出番などあろうはずがありません。節回しやリズムも違いますし、合いの手の入れ方も異なります。先に述べたように、東チベットでは聴衆が「オン・マニ・ペメ・フム」とマントラを入れるのです。

 それでも言葉がチベット語であるのはたしかです。東チベットの人はすぐには理解できないかもしれませんが、耳をすませば知っているチベット語の単語を聞き分けることができるでしょう。しかし王妃ドゥクモの名が、東ではジュクモと発音されますが、こちらではブルクモです。それは訛ったのではなく、むしろ古代音に近いのです。古い音とされるチベット北東部のアムド語よりも古いのです。

 

 なぜ彼らの言語、バルチスタン語は古いチベット語の一種なのでしょうか。

 まずわれわれは歴史の常識を一度取り払うべきです。中国に唐という王朝があった時代、チベットにも強大な国家が誕生していました。西欧の一部の歴史家はそれを「チベット帝国」と呼んでいます。中国の歴史書には吐蕃という名で登場します。現在の音では「tufan」ですが、古代においては日本語の「とばん」に近かったかもしれません。

ただしチベット人の学者のなかには「tubo」と読んでいたのではないかと言う人もいます。伝播(chuanbo)の播(bo)のように「番」を「bo」と読んだかもしれません。なぜなら古来よりチベットの自称は「bod」だからです。(*中国の「百度百科」を見ると吐蕃の読み方は「tubo」になっていました)

 7世紀から9世紀にかけてのチベットは、帝国という肩書がふさわしいほど領土を拡大しました。チベットがいつ頃国家という形を成したかについては諸説ありますが、ソンツェンガムポ王(?〜649)の時代に急速に大国化したのはまちがいありません。インド、ネパールという隣国からは文化がつねに流入していたはずで、チベット文字が創られたのはこの時期とされています。唐から嫁いできた文成公主は、さまざまな中国文化をもたらしたと考えられています。

 763年、チベット軍は安史の乱が平定されたばかりの長安を占領します。チベット軍はすぐに引き上げているので、混乱に乗じて唐の都を奪取したにすぎないと考えられがちですが、長安を長期治めるということは唐全土を治めることを意味し、割が合わないうえ、無理をすればかえって国の滅亡につながると考えたのでしょう。

 チベット軍はシルクロードに向かいます。敦煌やトルファンをはじめ、甘粛省から新疆ウイグル自治区のおもな国や地域をつぎつぎと傘下に収めていきます。敦煌文書に膨大なチベット語文献が含まれるのはそのためです。私はホータンから北へ200キロほどのタクラマカン砂漠のなかの要塞跡を訪ねたことがありますが、ここはチベットの軍事拠点のひとつでした。

 一方でチベットは、中央チベットから西方へも勢力を伸ばしました。彼らは大勃律(ボロール)であるここバルチスタンと、小勃律であるギルギット地区を版図に入れます。これらの地域は、現在パキスタンの北部なのです。チベットはアフガニスタン東部に侵入し、さらには、中央アジアへと進出しようとしました。地図で見ると、チベットが大帝国になったことがわかります。もっとも、ハビタブル(居住可能)でない地域が相当に含まれますが。

 このヤルルン朝チベットは9世紀半ばまでには滅んでしまいますが、バルチスタンなどでは、チベットから来た支配者層がしばらくは権力を維持することができました。バルチスタンの一部の王さまがチベット語のマクポン(将軍)という称号を持っているのはそのためです。ギャルポ(王)ではないのです。実際、彼らがいつ頃までチベット人という意識を持っていたかはさだかではありません。12世紀頃までには、バルチスタン人の多くがイスラム教徒になったのですが、近年まで仏教徒も存在していました。隣接しているラダックではつねに仏教徒がイスラム教徒を凌駕していましたから、仏教的な英雄ケサル王が流布しても不思議ではありません。

 しかしラダックやバルチスタンのケサルの物語は民話的で、仏教的な要素はきわめて少ないのです。こうした筋書きであれば、聴衆が仏教徒であろうとイスラム教徒であろうと受け入れやすかったのでしょう。

 

 二日目の朝、半盲の老吟遊詩人は私を連れてK2(世界第二の高峰)へとつながる岩だらけの巨大な峡谷を半時間ほど歩いていきました。しばらく探し回ってようやく大きな岩を見つけました。岩の面には白い帯状の模様が入っていました。

「これじゃ、これ。これはドゥクモの乳房から流れ落ちた乳じゃよ」

 「ホルとの戦い」の終わりに有名な場面があります。ケサルが北の魔王と戦い、策略にはまって6年間もとらわれている間に(酒池肉林の状態なので、とらわれているという感じではないのですが)ケサルの国であるリン国はホル軍に侵略され、王妃ドゥクモもさらわれてしまいます。ドゥクモは頑強に拒みますが、最終的にはホル王の妻となり、それなりに幸せを得ます。

 しかし戻ってきたケサル王は憤怒のかたまりとなってホル国を滅ぼし、王妃ドゥクモを取り返しました。じつはホル王とドゥクモの間には子どもが生まれていました。まだ乳飲み子だったので、当然乳房は張り、お乳が出やすい状態でした。

 ケサル王にとってその子は自分の子ではないし、将来自分を倒そうとする存在になるかもしれません。ケサルはドゥクモを先に帰させて、ひそかに子どもを殺しました。

 ドゥクモは、愛するわが子が殺されたことに気がついていました。もう子どもはいないのに、乳だけは無駄に出てくるのです。お乳が流れ出て地上に落ちると、涙もとめどなく流れてきました。その乳が岩の模様になったのです。

「でもどうしてここにドゥクモがいるのですか」と私はバカな質問をしました。

「ここで起きたことなのじゃ」と老吟遊詩人はきっぱりと言いました。「ケサルは天からここに降りてきたのじゃ。リンという国はここにあった。リンとホルの戦いはここで行われたのじゃ」


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80歳の吟遊詩人ムハンマド・チョー。ラマザーンの時期にもかかわらず「ホルとの戦い」を熱唱してもらった。


幼少の頃重い病気にかかったことが、吟遊詩人になるきっかけとなった。いま、遠くの崖に見えるドゥクモの花飾りについて説明している。



K2へとつながる谷間に「伝説の岩」があった。リンの国はここにあり、ホルとの戦いの現場もこの谷間である。



ドゥクモの胸から流れ落ちたお乳が岩の模様になった。お乳をやりたいホル王との間にできた乳飲み子はケサルに殺されてしまった。