北の巨人との戦い
1
2、3年後、ケサルは隠棲して過ごすため、冷たい谷へ行った。[訳注:字義通りには1、2年後] 彼はそこに1年滞在したが、王妃アネ・クル・マンモがやってきて、庵に坐っていないで北の国へ行き、悪魔と戦うべきだと言った。
「今年はケサルにとっていい年です。というのも、ケサルは水の元素に属し、悪魔は火の元素に属するからです。すなわち水は火に打ち克つことができるのです」
7日後、アネ・クル・マンモがふたたび庵の入り口にやってきて、いますぐ出発するよう促した。
「もし行かなかったら、あなたはリンの高い山々を失ってしまうでしょう。行けば、4つの大陸(大国)と8つの隅(小国)を征服することができるでしょう」
ケサルは立ち上がり、ブルクマのところに行って説明した。
「つぎのものを家から取ってきて、3回埃を払い、3回海の底で洗い、それぞれに白檀を捧げよ。[註:ラダックでは杜松のことを白檀と呼ぶ]
鞍、珊瑚を散りばめた尻繋(しりがい)、真珠を散りばめた端綱(はづな)、黄金の鐙(あぶみ)、蓮模様の鞍布、180(ルピー?)の馬の後部を覆う布、純銀のハミ、天鵞絨(ビロード)の帽子、一揃えの絹の上着、赤い腰帯、美しい肩掛け、貝殻の柄がついたナイフ、腎臓の形をした護符、石をも切る剣、空を覆う盾、鋼の火口箱、ロシア製の皮の粉袋、ロンから来たライフル、18人力の矢筒。
ケサルが挙げたのは以上のものだった。それらを運ぶのに、ブルクマは8日も費やさねばならなかった。彼女がそれを成し終えたとき、地震が起こった。
それからブルクマは悲しみの歌をうたう。その歌の中で彼女はすべての物や生き物に言及している。それらも、その栄光も北の国へ行くのである。彼女は、残された人々はだれに慰めてもらえるのかとたずねる。
☆北の国へ行く生きものと物、あるいはその光栄のリスト
(1)高い空 (2)高い氷河 (3)高い岩 (4)高い牧草地 (5)高い湖 (6)高い平原 (7)大いなる谷 (8)草原と森 (9)聖なるケサル王 (10)9つの小塔をもつリンの城 (11)純粋に野生のキャン [註:ケサルの愛馬] (12)白い脚のオスのゾ (13)口の白いロバ (14)赤い首のオス山羊 (15)黄色い頭の子羊 (16)黄色い猟犬 (17)小さな黒猫
☆出発する者たちを見て涙を流す生きものと物のリスト
(1)太陽と月 (2)トルコ石の鬣を持ったライオン (3)大きなアイベックスと老いた牛 (4)大きな茶色の野生のヤク、ドン (5)黄金の目を持った雌の魚 (6)ふさふさした尾を持つ狼 (7)隠れるのが得意な雌キツネ (9)ブルクマ婦人 (10)欠落 (11)欲の多い雌ラバ (12)曲がった角を持つ雌のゾ (13)茶色の雌ロバ (14)白い雌山羊 (15)茶色の雌羊 (16)白い腹を持った雌犬 (17)多色の雌猫
☆ブルクマの歌に対し、泣き叫ぶ動物たちに慰めとなるものがあると言ってケサルが列挙したもののリスト。
(1)鞍布の大きさの雲 (2)鏡の大きさの氷 (3)小さな岩 (4)鞍布の大きさの牧草地 (5)あちこちの井戸 (6)小さな平原 (7)鼻孔の大きさの谷 (8)少しばかりの棘 (9)赤い虫 [訳注:ミミズ] と道を示す親指(?) (10)栄光あるもの (11)レンズ豆の大きさの仔馬 (12)山羊の大きさのゾ (13)猫の大きさの小さなロバ (14)青い口の子供 (15)熱と呼ばれる子羊 (16)まだらの子犬 (17)イタチ
2
ブルクマは泣いた。ケサルは108年、離れていなければならないだろう、と語った。彼の髭は伸び、髪は白くなり、背中は曲がってしまうだろう!
アネ・クル・マンモからもう一度警告を受け、ケサルは馬に乗って北へ向かって出発するが、またブルクマと会う。彼女は別の道を進んで先回りしていたのだ。ケサルは彼女にたいし、謎解きができればいっしょに来てもいいと言った。
白い丘、赤い丘、黒い丘、緑の丘、青い丘。これらの監視の丘はだれのものか?
ブルクマは即座に答えた。白い丘はワンポ・ギャプシンの丘。赤い丘はアマ・キャプドゥンの丘。黒い丘はルギャル・ジョクポの丘。緑の丘はギャルラム・ケサルの丘。青い丘は彼女自身の丘、と。
こうしてブルクマはケサルとともに北の国へ行く許可を得た。しかしまたもアネ・クル・マン・ギャルモが夢の中に現れ、ブルクマをリンに帰すよう命じた。そうしなければ、北の国の悪魔を倒すことはできないだろうという。
それゆえケサルは魚に変身し、湖の中央まで泳いで行った。そこには一本の木が立っていた。彼はそこで僧侶に変身し、その木に登り、顔を隠して坐った。ブルクマは夫を見つけることができず、あきらめてリンに戻ることにした。彼女はアネ・クル・マンモやその他大勢の女神によって家に戻ることができた。
ケサルは3つの谷が交わるところに、そしてトンネルを抜けなければ進めない場所にやってきた。彼は恐さを感じたので、太鼓を鳴らし、360の神々、360の水の精霊に祈る儀礼を催した。9柱の神々と水の精霊たちは、ケサルと同時に生まれた。父神はケルソン・ニェンポ、母神はクルマン・ギャルモである。そしてワンポ・ギャプシン、アマ・キャプドゥン、ジョクポ王。こうしてケサルは明るい光を受け取り、安全にトンネルの反対側に出た。
7日後、ケサルは悪魔の国の境界に着いた。そこで悪魔の遊牧民たちと会った。彼らのうちの何人かは悪魔によってリンからさらわれた人々だった。彼はもっとも太った山羊と羊を殺し、その肉と脂を食べた。羊飼いたちは、もうじきケサル王がやってきて悪魔と戦うということを聞いたと言った。この人々に情報を与えるべきだろうかとケサルは迷った。彼は、ケサル王はたしかにもうすぐ来るだろう、そしてリンからの囚われ人には本来の姿をあらわすだろうと、と言った。彼らはケサル王に会えることに喜び、彼に、いまバムサブムキ(Bamzabumkyid)は城にひとりきりであること、門の前の虎と豹は藁を詰めた人形に過ぎないことを教えた。
城の前に着いたケサルはたずねた。
「この地にも空にも触れない、矢の長さのお城に住んでいるのはどなたですか?」
そしてまたケサルは、自分は9か月も放浪している者である、9年も着替えをしていない者である、と述べた。バムサブムキは彼に、門のほうへ行って小麦粉を受け取ってくださいと言った。ケサルはそれにたいし、4つの門、すなわち白(東)、青(南)、黒(西)、黄(北)の門の前に立つ警護人が恐くて近づけないとこたえた。バムサブムキは、警護人たちは彼女の兄弟、叔父、父、息子であり、彼らに話しをつけようと言った。しかしケサルが近づいても、門は閉ざされたままだった。そこで彼は歌をうたった。
もし白と呼ばれるに値するものがあるなら、それはブルクマの歯と爪である。
もし黒と呼ばれるに値するものがあるなら、それはブルクマの髪と眉である。
そのような美しい女性と知り合うために私はやってきた。私はケサル王である。
ゼモはその言葉を聞いて大いに喜び、扉をあけた。そしてふたりはお城で幸せに暮らした。
3
しばらくのちのこと、遠くからすさまじい音が聞こえた。それは次第に大きくなってきた。悪魔が城に近づいてきているのだ。ゼモはケサルに、穴に隠れることをすすめた。しかし彼はどうやって穴を掘るのか知らなかった。そこでケサルは10本の手と10本の足を生み出し、そこから10人の人間が作り出され、彼らは穴を深く掘った。[註:シェー版によればこれらを生み出したのはゼモである]
穴が完成すると、ケサルは穴の底に降りて行った。彼は1か月滞在するための食べ物、毛布、必需品などを受け取った。それから屋根が作られ、その上に鍋が置かれた。その鍋で悪魔のための食事が作られるのだ。
悪魔が帰ってきた。においで彼には、人間が来たことがわかった。ゼモは、そんなことはありえない、それは彼が担いできた100人の人間と100頭の馬の死体がにおうのではないか、と言った。彼は占いの書を見てみることにし、ゼモにその書を持ってくるよう命じた。そのときに右手でもってくるようにと悪魔は言ったが、彼女はその逆の手で持ってきた。その書から声が聞こえてきた。
「ケサルはここにやってきて、羽根と肥料と土でできた屋根のある穴の中に坐っています。その上には鍋があり、そこで食べ物が煮られています」
悪魔はこんなことはありえないと考え、占いの書を火に投げ込んでしまった。ゼモはそれを拾い出すふりをしながら、それを火にもう一度押し込んだ。
それから悪魔は軽く寝るべきか、たっぷりと寝るべきか、と聞いた。ゼモはしっかりと寝るべきだと助言した。ここはあなたのおうちでしょう、と彼女は言った。
寝息を吸い込む時、石や土くれすべてが飛んで悪魔の鼻孔に吸い込まれた。寝息を吐く時、それはすべて吹き飛ばされた。
悪魔が熟睡していたので、ケサルは穴から出た。悪魔の姿を見ただけで彼は恐怖のあまりガウガクと震えた。ゼモはしかし彼を勇気づけるために、悪魔の体の上に乗った。ケサルもまた愛馬キャンゴ・ベルパにまたがり、悪魔の体の上に乗った。悪魔は信じたために悩まされることになった、数々のウソについて、不平を漏らしていた。いま、ケサルは悪魔を殺すため、毒のついた短剣を持って前に進み出た。彼はワンポ・ギャプシン、母キャプドゥン、そしてジョクポのふりをした。悪魔は彼らの事をまったく気にしていなかった。目を覚ますのは、ケサルがここにやってきていて、自分を殺そうとしていることを知ったときだった。彼は命だけは助けてくれとケサルに懇願した。
「おれはおまえさんの召使いになるから、冬の間も過ごせる暖かい土地をおまえさんにやるから、命は助けてくれ」
ケサルは悪魔の命を助けてもいいとも思ったが、アネ・クル・マンモの命令を思い出した。悪魔は毒のついた短剣で殺され、その身体は二つに切られた。上半身は普通の墓場に置かれ、下半身はイスラム教徒の墓に置かれた。
バムサブムキはケサルに「忘却の」食べ物と飲み物を供した。ふたりとも城に残ってサイコロに興じた。ケサルの馬はひどい扱いを受けた。労働馬として働かされた。ケサルとゼモの間に娘が生まれた。ケサルはリンのことを完全に忘れていた。