シャンシュン王国
チャールズ・アレン 宮本神酒男訳
ボン教を理解するためにその起源に戻る必要がある。
はじめのはじめ、父チシェル・カルポは5つの原因の本質を身体に持ち、音「ハ!」を呼吸した。そしてそれは冷たい風になった。風は渦巻いて速くなり、光の輪を形成した。そしてそれから火があらわれた。火の熱と風の冷たさから露の滴が生まれた。それは群がって原子になった。これらは風によってかき乱され、吹き飛ばされて、物質の塊となり、山ほどの大きさになった。
露と冷たい風は合一して鏡のような湖になった。湖から膜が現れ、それ自体が卵の形をとった。卵から2羽の鷲がかえった。一羽は白く、もう一羽は黒かった。最初の鷲は「輝く光を分け与える者」、他方は「暗闇と苦悩を分け与える者」と呼ばれた。
鳥たちはつがいとなり、3つの卵が生まれた。白と黒とまだらの卵である。白い卵の黄身から光の領域が現れた。おなじ卵の白身から白いドゥ(ヤクと牛の雑種。ゾ?)が現れた。卵の殻から白い光の神に率いられた三層の神々が現れた。黒い卵からは黒い高慢な男と黒の塊が現れた。まだらな卵からはハンサムな願いを請う男が生まれた。
願いを請う男には想像力以外の感覚が欠けていた。それにもかかわらず彼は自分を世界の神サンポ・ブムトリと呼んだ。彼はそれから黄金の山とトルコ石の谷をチャ族のために、法螺貝の山と紅玉髄の谷をム族のために、水晶の山と鉄の谷をツク族のために創造した。ツク族は進化して動物になり、チャ族は黒頭の人間に、ム族は覚醒したボン教徒になった。
ここに挙げたのはボン教徒によって語られたチベットの宇宙開闢神話のひとつの要約である。イランの影響を探している人々にとっては、まさにここにその証拠がある。原初の光と火の過度なほどの強調(ミトラ主義の要素)、二元論的要素(後期ゾロアスター教とマニ教の特徴)、宇宙卵(早期イランの神話のように)を産みだすための、創造の行為における二つの敵対する、対極の勢力の結合(マニ教のもうひとつの反響)、そして美しいサンポ・ブムティ(これも早期イラン神話の宇宙卵から生まれた原初の人間、輝かしき者イマ王と関係深い)など。
ボンという言葉さえ、建設を意味するイラン語のブン(bun)から派生したのかもしれない。ボン教徒はそれを確固とした、保護しているといった意味に解釈し、サンスクリット語のダルマ(仏法)に相当するチベット語のチュー(chos)とおなじ語としている。
ボン教を創立した父はシェンラブ・ミボチェ、知識の教師、トンパ・シェンラブのほうがよく知られている。ボン教伝記作家が語るには、チソンデツェン王によってボン教が弾圧される2500年前に生まれた。つまり紀元前1720年である(別の説では15000年前という)。彼の生地はオルモルンリンという国の都バルポ・ソギェである。オルモルンリンはタジクと呼ばれる大国の一部か、タジクの別名という説もある。「オル」はいまだに生まれていない、という意味で、「モ」は不変の、「ルン」はトンパ・シェンラブの予言的な言葉、「リン」は永続する思いやりを意味する。つまりオルモルンリンは「永遠の思いやりをもったトンパ・シェンラブの生まれていない、普遍の、予言的な言葉」ということになる。タジクが地上にありそうな一方で、オルモルンリンは物理的な場所というより抽象的な名前である。そうだとしてもオルモルンリンは、蓮の花弁8枚の形をしていて、チベットの西のほうにあると言われてきた。その中央にはリボ・ユンドゥン・グツェグ、すなわち9つの重なったスワスティカの山、と呼ばれる大きな山が、東西南北にそれぞれ小さな山を従えてそびえている。
オルモルンリン(タジク)の南西ある程度の距離のところにあるのがシャンシュンの国である。その中央には9つの重なったスワスティカの山とそっくりの山があった。10世紀後半にテルマとして発見された、3種のトンパ・シェンラブの伝記のなかでもっとも古い「ドンドゥ(Mdo-dus)」というボン教経典は、オルモルンリンとシャンシュンの両方の位置をはっきりと記している。それによるとオルモルンリンはシャンシュンの何倍も大きい。
「それはパクシュ(Pag-shu)川とシティ(Si-ti)川によって区切られている。9つの暗い山によって区切られている。西にはムの国、東には中国、南にはモンの国、南西にはジャンの国があった。北にあるのはリ(ホータン)、バル、プロムである。北東にはホルと雪の多いチベット(ガン・チェン・ブー)の国があった」
この見方だと、あきらかにオルモルンリンはシャンシュンの北西のどこかという設定になり、4つの国、すなわちム(?)、バルフ、ホータン、トゥルキスタンに囲まれていることになる。それは9つの暗い山に区分されているという。つまり夏の雪や氷河のない9つの山脈を示している。またパクシュ川とシティ川に区分されている。
ダン・マーティンらチベット学者は、もっとも納得できる地理学的結論を導き出そうとしている。これまでのところは十分に成功しているとは言い難いが。地理学的正確さはボン教の特徴ではない。あるテキストに書かれていることは、他のテキストに書かれていることと矛盾するのはしょっちゅうだ。ボン教と敵対する人々はなぜそうなるかと言えば、それらがチュー(仏法)のテキストから盗用されているか、いくつか組み合わせて捏造しているからだと主張する。しかし私に言わせれば、それらはいくつかのソースから採っていっしょにしているからである。そのソースというのは、古いシャンシュン語で口承によって伝えられたものだが、チベット語に翻訳され、記録された。私の解釈では、ドンドゥ経典のオルモルンリン地理学が描くパクシュ川とシティ川は、アムル・ダリア川とタリム川である。このようにオルモルンリンの心臓部は、ペルシアとチベットの間のパミール高原やカラコルム山脈である。
ボン教の源泉に関するより多くの情報は、シャンシュン語から導き出せる。中世の敦煌から出た文書以上のシャンシュン語で書かれた文献はまだ見つかっていない。しかし十分なチベット語でないシャンシュン語の語彙が残存しているボン教テキストのなかから得ることができる。それらはチベット・ビルマ語族に属する言語で、チベットの南や西の境界の方言なのである。
ボン教経典『マギュ』によれば、シャンシュンには4つの言語があった。最初の言語は、小さい神々の言語で、最内部の地域で話されていた。これはカピタ語と呼ばれていた。2番目の言語は、中間の地域、すなわちチベットの北西部で話されていた。3番目の言語は入り口の地域、すなわち西ヒマラヤに沿ってレーからガルワルまでのインダス川地域で話されていた。4番目の言語は、グゲやプランを含むチベットのもっとも西の地域の5つの地区で話されていた。
「カピタの言語」といえば、カブール郊外にあったクシャン朝ガンダーラの都カピシャを思い起こす。これは最内部の言語がバクトリア語で、中間の地域の言語がサンスクリット語であったことを示しているようだ。これらの言語は、最初のボン教の教えがシャンシュンで受け取られたときの言語だったということである。同様に仏教の最初の経典も理解されずにヤルルンやラサで受け取られた。そしてもし本当にカピシャがカピタなら、ここがボン教の祖師トンパ・シェンラブが生まれたバルポ・ソギェではないだろうか。
バルポ・ソギェの所在地がどこであれ、トンパ・シェンラブがムリグトゥルの王統の王子として生まれたのはここである。しばしば彼はゴータマ・シャキャムニのカーボン・コピーと批判されてきた。しかし彼の伝記を読むかぎり、それは言われのない中傷であることがわかる。
トンパ・シェンラブは1歳のときに王座に就いた。彼は30年間国を統治し、そのあいだ広く、遠く旅をして、ボン教の布教につとめた。そしてボン教の基本的な儀礼を各所でおこなった。彼は数えきれないほどのチョルテン(仏塔)と小寺院を建てた。しかし禁欲生活をするには理想的な、僧侶ばかりがひとつの大きな施設のなかに集まる大僧院は建てなかった。そうした動きがボン教の主流となるのは、11世紀、チベット仏教徒が大僧院を建てるようになってから以降のことである。
実際、トンパ・シェンラブには10人の妻があり、8人の息子と2人の娘をもうけた。息子たちは彼の筆頭弟子となり、成長すると、それぞれ特別な手練で武装し、教えを広めた。
トンパ・シェンラブは31歳のときに苦行者となった。この段階にいたってはじめて彼の偉大なる敵、魔王キャブパ・ラグリンと対抗するだけの徳を積んだ。ふたりのあいだの延々とつづく闘いは、グル・リンポチェがチベットの悪魔を制圧していく物語に匹敵するものとしてボン教徒に描かれてきた。
しかし類似しているのはごく表面上のことにすぎない。グル・リンポチェはチベット中を移動しながら地方の精霊を鎮圧し、仏教徒に転向させた。この物語はチベットに仏教が広がったことのたとえ話なのである。シェンラブとキャブパが衝突し、戦いを繰り広げるのは、ゾロアスター教、マニ教の善と悪の戦いなのである。
トンパ・シェンラブによってなされた世界中の善行をだいなしにするために、キャブパ・ラグリンは居城である魔城を出て、あの手この手を使ってシェンラブを自殺させようとした。これが失敗に終わると、彼はシェンラブの娘を誘惑し、魔城に連れ込んだ。そこで娘は双子の子供を生んだ。シェンラブは単身魔城に乗り込み、娘と双子を救出してオルモルンリンに連れ帰った。
チベットがはじめて姿を現すのは、魔王がシェンラブの7頭の馬を奪い、チベット東部のコンポ地方に行ったときである。トンパ・シェンラブは奪われた馬を奪還するために出発する。魔王と悪魔の家来たちは、行く先々で針路を妨げた。ザホル(西ヒマラヤのジャランドラ)では、彼らは雪によって彼が進めないようにした。シェンラブはそれにたいし、「呪文のボン」がザホル、カシミール、ギルギットのボン教徒にわからないように工作した。
タジクとシャンシュンの国境地帯では、火によってシェンラブの針路が妨害された。山々のあいだに道を切り開く弓を撃つ前に、「爆弾のボン」がボン教徒にわからないように工作した。この「切り開く弓の道」はシャンシュンとオルモルンリンを結ぶ路線と関係しているのだろう。
シェンラブはシャンシュンのなかの4つの大河の源がある地域へと進んだ。キャブパ・ラグリンはこれらの川を広大な湖に変えた。彼は最終的に砂に変身して砂漠となったキャブパ・ラグリンを倒してシャンシュンに入った。この神話のプロセスから、シェンの教師はガンダーラ地方のどこかを出発し、インダス川上流かサトレジ川上流を通って西チベットに入ったことがわかる。
トンパ・シェンラブはシャンシュンに到着したとき、祝福されたガルダに乗っていたという。このもっとも奇妙なハイブリッドの鳥は、シャンシュン文化では重要な役割をもっている。その頭部と翼は鷲、肢体は人間、顔は白く、曲がった角が生えている。これは鳥の王であり、すべての蛇にとって敵である。生まれたときはあまりにも輝いていたので、火の神かと思われたほどである。ガルダは生命の水アムリタを盗みに行ったが、ガルダがインドラの雷を砕くことになる激しい戦いのあと、インドラ神だけが生命の水を回復することができた。
ガルダの像は仏教寺院の庇の上に「守護者」として描かれていることが多い。なぜならヒンドゥー教の神ヴィシュヌと関係が深いからである、と説明される。しかしガルダはボン教を通してはるかに昔からチベットと関係があった。そのルーツはメソポタミアのズー、あるいはイムドゥグドゥと呼ばれる獅子頭の鳥にたどれるかもしれない。この鳥はエンリ神から運命のテーブルを盗み出す。シャンシュンの古い言語には、ガルダを表わすのはシャンだという。ということはシャンシュンとは、通常「神々の入り口」の意味だとされるが、より正確には「ガルダの入り口」ということになる。
チベット語では、ガルダはキュンである。ボン教経典にもガルダはキュンとして現れる。キュンはシャンシュン国の守護神である。それは「火と水のように、静止しているものと動いているものの王子たちを破壊する」。そして「シャンシュンの5氏族とボンの5つの智慧を守る長い存在」である。それは両者に名を与える。ひとつはシャンシュンの最内部で、キュンルン、つまりガルダの谷という名を。そしてその谷のなかにあるシャンシュンの都にキュンルン・ングルカル・カルポ、すなわちガルダの谷の銀城という名を。
シャンシュン王は王室のシンボルを身に着けていた。すなわちチュム(byum)、鳥の冠を冠っていた。それには二つの角に似たものがついていた。ササン朝ペルシアはおなじような冠をかぶっていたという。肖像画を見ると、初期のモンゴルのハーンが同様の角付き冠をかぶっていた。
シャンシュンでトンパ・シェンラブはしばらく何もなく過ごし、それから9つの重なったスワスティカの山の正面に坐った。そこはいまギャンダクのゲルク派の寺院が建っている場所である。ここで祖師は基本的なボン教儀礼を地元の苦行者に授けた。
「シェンラブはボン教徒たちに、ボン教の教義として、神々にささげる祈祷と悪魔を駆逐するすばらしい教えを授けた。儀礼の道具として、彼はさまざまな香りのいい薬草、供儀用の大麦の使用法、チャン(大麦から醸造した酒)の御酒を示した。ボン教の方法によって神々や魔物を呼び出し、ボン教徒たちはそれらによる守護を獲得することができた。彼らは神々や悪魔を崇拝しながらその使命のために送りだし、ときには彼らを攻撃し、従わせた」
トンパ・シェンラブはシャンシュンからずっと東方へ、魔王と盗まれた馬を追ってチベットに入った。さらにいくつかの試練を耐えて、彼は馬を取り戻し、キャブパ・ラグリンを服従させた。降参したふりをして油断したシェンラブを襲おうとしたが、最終的に魔王も敗北を認め、転向して勝者の側につくことにした。
しかしチベット高原はまだシェンラブの言葉を受け入れるだけの準備ができていなかったので、すべての教えを授けるのはやめ、予言だけにとどめることにした。その予言によれば、時が熟すれば、シャンシュンやチベットでシェンラブの教えは花開くだろうという。彼はそれからオルモルンリンにもどり、82歳で亡くなった。
ボン教徒自身は、発展の歴史のなかに3つの段階があったことを認めている。そのはじまりは未発展のボンで、ドゥド・ボン、すなわち魔のボン、ツェン・ボン、すなわち精霊のボンが含まれる。これらはその儀礼において動物の生贄がおこなわれる。シェンラブ・ミボチェがシャンシュンに来たとき、血の犠牲のかわりにドゥ(Dos)すなわち代替品を用いる方法をもたらした。動物のかわりに小像をもちいて儀礼をおこなうのである。またイェー(yas)という方法でケーキをかわりに献じる。彼は直接伝授したわけではないが、ユンドゥン・ボン(永遠のボン、スワスティカのボン)に発展するための地盤を整えたということができる。
サムテン・カルメイの『吉祥の言葉の宝典』の翻訳によると、トンパ・シェンラブの教えの完全版がシャンシュンにもたらされたのは、2世代あとのチデ・ウーポ(Krilde Odpo)によってであった。チデ・ウーポはトンパ・シェンラブの直弟子、ムチョ・デムドゥクの弟子だった。
タジクの聖者チデ・ウーポは自ら変身してハゲタカになり、ネテン・リンポチェ宮殿にいる聖なる尊師ウーキ・ムサンのもとに飛んでいった。宮殿はザンズン(シャンシュン)のティセ山(カイラス山)の中腹にあった。それゆえティセ山の左側にあったアティ・サンバ・ユンドゥン洞窟に16000人の修行者があつまり、宗教的な共同体を形成していた。当時、当地を治めていたのは、黄金の角状の冠の保持者、ザンズン(シャンシュン)王チウェル・ラジェ(k’ri-wer La-rje)だった。王はティセ山の前にあったガジャン・ユロ(Ga-ljan Yu-lo)城に居住していた。
チデ・ウーポの弟子デンバ・イデンは「9つ重なったスワスティカの山」の南に位置したランガク・ツォ湖の島に2番目の共同体を創設した。彼の弟子はまた違う場所に3番目の共同体を創った。このようにしてボン教の教えはシェンからシェンへ、共同体から共同体へと伝えられていった。はじめてシャンシュン中に、西方へ、そしてチベットへと教えは広がった。何世代にもわたって、2千年のちまで伝えられたのである。
「ザンズン(シャンシュン)ではこの2千年のあいだ、大師は長寿を享受してきた。支配する王たちは霊的力と富を増し、聖なる教義はあまねく広がった」
『吉祥の言葉の宝典』はシャンシュンの大師の王朝のリストとともに、王たちの名を挙げている。18の国王は、内、中、外シャンシュンの18王国を形成する18大国を統治していた。
内シャンシュンの領域には3つの地域があり、8人の王が治めていた。3つの地域とは、「9つ重なったスワスティカの山」のすぐ南に位置するギャンリの丘、40マイル西方のキュンルンの谷、そして2つの大きな湖の南にあるプラン。
中シャンシュンの領域には3つの地域があり、6人の王が支配していた。3つの地域とは、ツィナ、タロク、タゴである。
そして外シャンシュンの領域には4つの国があり、4人の王が支配していた。4地域とは、カキョル、カユク、ラダック、ルトクである。
「これらの王が存命していた時代は」と『宝典』は付け加える。「ザンズン(シャンシュン)の18の地区は18大国のほとんどの領域に及んでいた。ユンドゥン・ボンの聖なる教義はいたるところに広がった。人の寿命は2千年に達した。物理的な肉体を残すことなく、至高の覚醒が得られた」
キュンルン銀城。シャンシュン国の都 Photo by M. Miyamoto