4位 石浜神社の白狐たちの霊力   宮本神酒男 

年越しのときの茅の輪くぐり 

 石浜神社の縁起を見ると、聖武天皇の神亀元年(724年)9月11日に勅願によって鎮座されたとなっています。伝説性が濃く、その真偽をたしかめることはできませんが、古来より戦略上重要な場所であり、交通の要所でもあったためか、このあたりに石浜城が築かれ、同時に石浜神社が作られたであろうと想像できます。

 『台東区史』によると、室町時代に成立した『義経記』から12世紀頃の石浜の様子を探ることができます。石浜港は数千艘の西国舟が停泊できるほどの大きな港でした。治承四年(1180年)に頼朝が東北地方へ攻めていくとき、この隅田の渡し(橋場の渡し)で隅田川を渡ったことはよく知られています。このとき石浜城を拠点としていたのが江戸太郎重長でした。重長は鎌倉幕府の重鎮となります。

 足利尊氏も一時的に石浜城を拠点としました。暦応元年(1338年)に尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、尊氏・直義兄弟の二頭体制が始まります。しかしじきに分裂し、感応の擾乱という抗争に発展しました。それは尊氏が直義を毒殺した感応三年(1352年)までつづいたのです。しかし終息したと思ったのも束の間、新田義貞の息子たちが率いる新田軍が反旗を翻します。この時期に尊氏は石浜城を拠点とし、体制を整えたのです。
*石浜城の場所は現在の石浜神社かその近辺とする説が有力ですが、ほかに待乳山説、今戸神社説、橋場総泉寺説などがあります。

 その後、下総国を中心とした房総地方に勢力をもっていた千葉氏が分裂し、千葉自胤(これたね)が石浜城に入り(1455年以降)武蔵千葉氏と呼ばれるようになりました。(ウィキペディアでは兄弟が逆になっています)

 16世紀には、千葉氏の家臣木内氏(木内上野、木内宮内少輔)が石浜城の主となり、勢力をふるいました(拠点は待乳山の可能性があります)。しかし木内氏の家臣と千葉氏の家臣が差し違えるという事件が起き、そのことを知った北条氏政は石浜領を没収しました。その後、豊臣秀吉の小田原征伐によって石浜城はすたれていきます。

 こうした複雑な歴史を反映してか、石浜神社にはいくつかの神社が合流し、さまざまな神が祀られています。

江戸神社の祭神は素戔雄尊(すさのおのみこと)で、もとは江戸太郎重長が天文年間(15321555)に勧請した牛頭天王であると神社のHPに書かれています。ただし江戸太郎重長は1180年頃に生きていたので、この情報は何かが間違っているようです。牛頭天王が素戔雄尊に変わったのは明治初期のことでしょう。

北野神社の祭神は菅原道真公、妙義八幡神社の祭神は日本武尊と誉田別命(ほんだわけのみこと)です。

 麁香(あらか)神社の祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)、真先稲荷神社の祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)です。招来(おいで)稲荷神社の祭神も豊受姫神です。

 

 しかし私が石浜神社に惹かれる最大のポイントは、それら中心となる神社や神々ではなく、白狐祠の白狐たちでした。白狐といえば対岸の三囲(みめぐり)神社の白狐ですが、それらのように大きくはなく、小ぶりながらも、すさまじい霊力を発揮しているように思えてならないのです。

「叶う」絵巻で願いをかなえたい 



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