冥途へ導く道引長太郎地蔵   宮本神酒男 

 江戸末期文政嘉永の頃、浅草寺に長太郎という者がいました。長太郎は浅草寺によく仕え、生涯のすべてを浅草寺と町のために尽くし、長寿を全うしました。そのことを聞いた浅草寺住職であった上野輪王寺門跡の宮様である慈性法親王が、浅草寺別当大僧正に長太郎地蔵尊の祠堂を建てるよう命じ、長太郎の忠義を記念しました。道引とは引導のことであり、地蔵を信仰すれば浄土へ行けることを表しています。

 説明書きには以上のことが記されているのですが、さらに俗説として、浅草寺馬屋番世話役男衆の弔い地蔵説を挙げています。こちらのほうが具体性があり、より真実味があるように思われます。近くの靴屋さんのための沓履地蔵のように、一定の職業のためのお地蔵様なのかもしれません。ただ靴屋さんと違い、馬屋番世話役は現存しないのです。

  

 少し根本的なところに話を戻しますと、日本のお地蔵様というのはよく知られているように、独自の発展をとげてきました。地蔵の梵名はクシュティ・ガルバ(Ksitigarbha)で、クシュティは地、ガルバは母胎を意味します。インドでは仏教に取り入れられる前は原始母神のひとつだったのです。インドやネパールではそれほど目立つ神様ではありません。

 中国で発展したのは、地獄の発展と無関係ではないでしょう。インドにも地獄はありますが、中国の地獄の多様化、複雑化、体系化にはまったくかないません。地獄は中国の民衆文化の根幹になったのです。

 経典としては「地蔵三経」と呼ばれる『地蔵菩薩本願経』『大乗大集地蔵十輪経』『占察善悪業報経』をはじめおよそ10のものが知られ、地蔵宝巻などの民間文芸もたくさん作られました。地蔵菩薩の像や地蔵堂も各地に建てられました。



 日本の地蔵は基本的に中国で発達したものが伝わってきたのです。お地蔵様は右手に錫杖、左手に宝珠を持っていますが、中国の地蔵も大半はそのスタイルです。

 地蔵の基本的な役目は、地獄に落ちている者を救い、冥途へ送り届けることです。ですから、中国では「冥途路引」と書かれたお札をよく目にします。

 道引長太郎の道引とは、つまり、路引のことなのです。その意味でこの道引長太郎地蔵は本来の(中国の)地蔵に近いのです。

 お寺にある立派な地蔵菩薩像などは、中国の地蔵菩薩と同様であるといってもいいでしょう。しかしいままで紹介してきた町中のお地蔵様は、本来の姿から逸脱し、日本独自のものとなっています。

 工事現場から出てきた昔の像は、そのまま地蔵認定されることが多いのです。それが観音菩薩像であったり、大日如来像であったり、弥勒仏像であったりしても、お地蔵様として他の地蔵といっしょに並べられることもあるのです。出自はなんであるにせよ、ひとたびお地蔵様認定されると、人々の健康を守り、長寿を願い、子どもたちの成長を見守る役目を喜んで引き受けるのです。