ジャンボ招き猫の効験 今戸神社 

 何年か前、浅草七福神めぐりをしていたときのことです。正月特有の大行列に並んで茅の輪をくぐり、今戸神社の境内に入ると、突然巨大招き猫が姿を現しました。招き猫の神様なんて聞いたことがなかったので、心のリアクションに困ってしまいました。やはり手を合わせてお祈りすべきなのか。

 お祈りすべきなのです、たぶん。七福神の神としては福禄寿なのですが、ジャンボ招き猫は福禄寿の福もあわせもっているのでしょう。

 招き猫の発祥地が今戸ということもこのときはじめて知りました。その頃は招き猫で検索すると、世田谷の豪徳寺がまずは出てきました。彦根藩主の井伊直孝が豪徳寺の前を通り過ぎるとき、雨が降ってきたので、大木の下で雨宿りをしました。そのとき和尚の飼い猫が手招きをしたのでそのほうへ近づくと、途端に雷が大木に落ちました。猫のおかげで難をのがれた直孝は、多額の寄進をして感謝の意を示しました。のちに猫が死ぬと和尚は猫を手厚く葬ってやり、招猫堂を建てます。このことをきっかけとして、招福猫児という焼き物が作られるようになったというのです。このエピソードは人気キャラクターのひこにゃん誕生のヒントになりました。

 最近招き猫で検索すると、今戸神社のほうが先に出てくるので、こちらのほうが勢いがあるのかなと思ってしまいます。江戸末期、この界隈に住んでいた貧しいおばあさんが猫を飼っていました。しかし貧しさゆえ猫を手放すことになりました。その後猫が夢の中に現れ、「自分の姿を人形にすれば福に預かれる」と言ったのです。

これらのエピソードを比較すれば、今戸のほうが後発であることがあきらかです。しかしいまではかなりすたれてしまったものの、今戸焼は昔から有名だったのです。「序」で述べたように、淡島寒月によると、石浜は石が多いからこそその名がついたのでした。対岸の向島に石が少なかったので、石浜の人たちは腕試しも兼ねて(これを印字打ちといいます)向島のほうへ石を投げて寄越した、という伝説があるそうです。一方、石の下の土を掘ると粘土が層を成していて、それが今戸焼の好材料になったのでした。

 今戸の古い名は今津で、その名が示す通り港がありました。広重も「墨田河橋場の渡しかわら竈」(の挿絵参照)と題した浮世絵を描いていますが、そのかわら竈は今戸にあったのです。それはおそらく江戸時代よりずっと前からあったものと思われます。招き猫の発祥地といえるかどうかは微妙なところですが、瓦の生産地からはじまる焼き物の名産地としての今戸の歴史はかなり古いのです。

 今戸神社は、1063年、源頼義・義家親子が奥州討伐の際に石清水八幡宮を勧請したのがはじまりだとされます。神社の歴史も焼き物の歴史も古いのです。沖田総司終焉の地というこれまた微妙な主張をしていますが、そういったセールスポイントがなくても効験あらたかな神社のはずです。