娘と野人(チベットの伝説) 宮本神酒男訳 

 

 昔むかし、鬱蒼と茂る森に囲まれた、人がほとんど来ることのない山奥の谷間に静かな村がありました。この村の山の斜面に老夫婦が住んでいました。彼らはふたりとも年老いていたので、山の上にあがって柴を刈ったり牛を放牧したりすることはできず、川の水を汲んで背中に背負ってくることもできませんでした。しかし彼らには聡明でなんでもよくできる娘がいました。

 娘は18歳になり、だれもが驚くほどきれいになりました。それでいて家の中でも外でも、配りがきいていて、老夫婦は何も心配することがありませんでした。近所の人たちはみな、この夫婦はなんと幸せで運がいいのだろうかと話すほどでした。おとなたちはみなこの娘のことが大好きでした。

 この日も娘は縄と短刀をもって山に柴刈りに行きました。正午になって柴はもう十分に刈ったと思うと、おなかがすいてきました。彼女は短刀を腰に挿し、丘の上でお弁当のツァンパ(麦こがし)を食べ始めました。すると突然突風が吹き荒れ、近くから異様な声が聞こえてきました。

 振り向くと、赤身の裸の怪物が立っていました。その怪物からキノコが生えた二本の腕が伸びてきたのです。あっという間に彼女は怪物に抱きかかえられてしまいました。彼女は全身の力が抜けていくのを感じました。驚きのあまり気を失ってしまったのです。

 だんだんと意識が戻ってきました。彼女はいま汚くていろいろなものが散乱した岩の洞窟のなかに横たわっていることに気づきました。目の前に立ってこちらを見ているのは、人でもなければ魔物でもない怪物のような動物でした。

 娘は驚いて身を丸めました。しかしその怪物は彼女に襲いかかろうとはしませんでした。それどころか、怪物は彼女を軽く抱きかかえ、暖かい毛皮の敷物の上にそっと移したのです。

 そして怪物は外からたくさんの果物を採ってきました。見るも恐ろしい両腕いっぱいにかかえた果物を彼女の前にドサっと置いたのです。

 しかし彼女は驚いて叫んでしまいました。「こっちに来ないで!」

 怪物は彼女が何を言っているかわかりませんでした。ただクルミを丸ごと口に入れ、噛んで中の実を取り出し、彼女に与えました。

 そのおぞましい姿を見て、彼女は母親が言っていたことを思い出しました。深い森の奥にはしばしば野人が出没すると。女の野人は山から里に下りてきて若い人間の男をかっさらい、夫にする。一方男の野人は里に下りて若い女をさらって妻とすると話していたのです。

 娘は心の中で思いました。この野人はいまこそ親切でやさしいが、あと何日かすれば私に妻となるよう迫ってくるに違いないと。ここは家から相当離れたところのようだ。両親と会うことはもうないかもしれない。そう思うと彼女は涙をこらえることができなくなりました。

 何日か過ぎて、彼女は腹ペコでたまらないということはなくなりました。野人が採ってきた果物を食べ、石清水を飲むことができたからです。彼女は気分もよくなり、顔を洗ったり、髪をくしけずったりすることができるようになりました。野人は彼女がくつろいでいる様子を見ると、喜んで洞窟の入り口で踊って見せました。このとき以来、野人は娘にたいしてやさしい顔を見せるようになりました。いつも野人は大きな声で吼えると、猟に出かけました。

 ある日の午後、野人は大きな熊を背負って戻ってきました。彼は熊のおなかを割くと、なかから内臓を取り出しました。また熊の4つの掌(て)を切り落とし、そばに捨てました。そのおどけた様子がおかしくて、彼女は笑い転げてしまいました。

 またあるときは、外から鹿を連れて戻ってきました。野人は石で鹿の頭をたたき割り、思い切り遠くに投げ飛ばしました。

 野人はあまり細かいことは気にしませんでしたが、彼女はいろいろと気がつくほうでした。柴刈り用の短刀を取り出すと、岩の表面でよく磨き、鋭くなった刃で鹿の頭から角を切り落としました。また熊の内臓からは肝を取り出しました。

 娘はだんだんと野人の生活に慣れてきました。野人が近づいてきても、彼女は怖さを感じなくなりました。野人は昼間猟に出かけ、夕方、鹿、ノロ、熊、豹などの野獣を仕留めて戻ってきました。彼女はその獲物から鹿角、麝香、熊肝などの希少の薬材を取り出しました。

 どれだけの月日が流れたでしょうか。彼女は自分が身ごもっていることに気づきました。彼女は心の中で思いました。いったいどれだけの時間が経過したのだろうか、このおなかのなかにいる子どもはどんな外見だろうか、父親である野人と似ているのだろうか、などと。そう考えると彼女は急に恐くなりました。日々あまり食べることはできませんでしたが、どうにか命をつなぎ、おなかは大きくなってきました。

 秋がやってくると、果物が熟して落ちるように、子どもはこの世界に生まれ落ちました。ふたりがこの子どもを見ると、男の子で、母親そっくりでした。力はおそろしいほど強く、体格は父親に似て立派でした。両親はとても喜びました。

 子どもは3歳になると、母親の言葉を理解することができるようになりました。昼間は、野人は獲物を探しに外に出たので、母と子は洞窟のなかでごはんを作り、野獣の皮をなめしました。まったくもって奇妙な生活としか言いようがないのですが、このような生活でも学ぶことは多いのです。

 ある日、野人はいつものように外に出かけたのですが、二度と戻ってきませんでした。

 その夜、彼女は奇妙な夢を見ました。ひとりの仙人がやってきて、母と子に話しかけました。

「おまえの夫は狩りに出たが、不幸にも虎と出くわし、戦うはめになった。そして重傷を負い、谷底に転落して死んでしまった。おまえは子どもをつれて家に帰りなさい!」

 彼女は目が覚めたあと、悲しくてたまりませんでしたが、子どもを背負って、苦労に苦労を重ね、なんとか村里にたどりつきました。走って家の門までやってきたのですが、もう陽は沈んでいました。彼女は門をたたき、声を出しました。

 

親愛なるお父さま、お母さま。

家を離れて何年たったことでしょう、

わたしはあなたがたの娘です。

今日まで生き延びることができ、

家に戻ってきました。

お父さま、お母さま、どうか戸をあけてください。 

 

 長年音信不通だったとはいえ、わが娘の声ですから、両親はすぐにわかり、とても驚きました。母はほんの少しだけ戸をあけて言いました。

 

茫々たる闇夜はとても静かです。

娘は家を離れて音沙汰もなく 

突然の声は老いたわたしを驚かせます。 

わが子が家にもどってくるなどありえましょうか。 

 

 母親の声を聞いて彼女は心をこめて言いました。

 

お父さん、お母さん、よく聞いてください。

娘は洞窟のなかで5年を過ごしたのです。

あなたがたのことを忘れたことはありません。 

仙人のおかげでこうして戻ってまいりました。 

 

 老夫婦が戸をあけると、そこに立っていたのは見まがうことのない、5年も行方がわからなかった愛娘でいた。しかも子どもを背負っていたのです。涙はとめどなく流れ落ちました。娘がどれだけ苦労したかは、話を聞いてよくわかりました。

 のちに彼らはいっしょに娘が野人と暮らした洞窟に行ってみました。そこには鹿角、麝香、熊肝、熊掌などの薬材や熊、虎、豹などの皮がありました。これはたいへんな宝物でした。

 子どももしだいに人間の生活になれていきました。成長するにしたがって美しい若者になりました。ただ力は強く、その面では野人の父親に似ていました。

 

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