キュンルン銀城
古代の文献にキュンルン谷の銀の王宮(rngul mkhar)という名が現れるが、正確な綴りは銀でできた王宮を意味するdngul mkharであろう。
『カイラス山へのガイド』にはこう書かれている。(30;5)
キュンルン・ギャルワニェ(Khyung lung rgyal ba mnyes)の国に3人の王が住んでいた。3人とは、角のついた宝石の光の王冠(rin chen ’od kyi bya ru can)を冠ったレタ・グゲ(Slas kra
gu ge)、角のついた虹の光の王冠(gzha’ tshon ’od kyi bya ru
can)を冠ったギュンヤル・ムクー(Gyung yar mu khod)、角のついた法螺貝の王冠(un chen
dung gi bya ru can)を冠ったキレ・グゲ(Kyi le gu ge)である。
このことはシェンラプ・ミウォチェの時代か、そのすこしあとにこれら3人の王が生きていたことを示している。シェンラプ・ミウォチェの時代とは、シャンシュン国の都キュンルン銀城が建てられた頃のことである。
『ニェルコイ・ナンバ(Nyer mkho’i snang ba)』(7b;2)にはこう書かれている。
カイラス山から一日のところにキュンルン銀城がある。そこは大師テンパ・ナムカが修行した場所である。
このことからキュンルン銀城に、シャンシュンの有名な大師テンパ・ナムカが住んでいたことがわかる。
敦煌文書からも同様のことがわかる。(75、2)
王妃はつぎの歌をうたった。
この国の重みが私の上に降りかかってきます。キュンルンの城は埃でいっぱいです。
このことからキュンルン銀城がシャンシュン国最後の統治者リクミキャ王の居城であったことがわかる。
ここがまた歴代シャンシュン国王の居城であったこと、そして18人の角のついた国王のリストに名を連ねる3人の王の時代以降も、なお居城であったことを信じるだけの理由がある。文献からも、論理的な思考からも、ここがシャンシュンの最後の国王たちによって選ばれた都であるという考え方が導かれ、反対意見はない。
ボン教の歴史を研究する者のなかには、キュンルン銀城が古代ボン教の宗教的中心地であったとする意見が根強い。近代にいたっては、仏教徒もボン教徒もキュンルン銀城に寺院を築いた。こうして多くの人がここを聖地とみなすようになった。そして多くのチベット人が銀城に巡礼するようになった。インド人や西欧人もまたここに旅をして、キュンルン・ゴンパの写真を撮るようになった。しかしながらここがシャンシュン国王の居城であったという知識をもって訪ねる人はほとんどいない。シャンシュンの文化はまさにここから光を放っていたのに。
キュンルン銀城の実際の形状を調べると、なぜ「銀」という言葉が名前に含まれているかがよくわかる。銀色に近い白色の層を成す岩の塊でできた崖の上に建てられた城なのである。
ボン教の伝承によれば、王宮はチョク(lcog)、つまり塔と呼ばれる。銀城と名づけられた理由のひとつは、層を成す岩の上に建てられたキュンルン銀城がチョクの形をしていたからでもあった。
キュンルン銀城の王宮はあきらかに国王とその家族のための私的空間として、3層の構築物が建てられた。王宮の前には3つの窓をもった1層の広い建物があった。ただし屋根の一部がかろうじて原形をとどめるにすぎない。ここは王の客をもてなす応接間だったのだろう。その下には屋根が跡形もなくなっている巨大な1層の建築物があった。ここは王や大臣たちの集会場だったのだろう。また王宮の前やまわりには百を超す大小さまざまの洞窟があった。これらには重要な高官が住んでいたと思われる。
一般的に、古代文明の都はさまざまなタイプの石から成り、土台もいくつもの種類を重ね合わせて造られる。シャンシュンは極端なほど遊牧民的な人々の国なので、王宮(lcog mkhar)さえもがさまざまなサイズの洞窟が集合した砂っぽい岩のフォーメーションにすぎないように見えてしまう。
キュンルン銀城やその周辺の洞窟にはさまざまな形が見られる。それぞれの洞窟の入り口にはチベットのガウ(ga’u 遺物を入れる容器)の形をしたものが置かれる。あるいは神仏像(lha khri)のための壁龕がある。洞窟の内側には火床があり、その後ろに人ひとり座れる場所がある。またその近くにやはり神仏像のためのスペースがある。ほとんどの洞窟には2つの内側からの扉がある。ひとつは右側、もうひとつは左側にあり、やや広めの寝室へとつながる。中央の居住スペースにはたくさんの棚があり、そこには食糧や日用品が置かれていた。また段がたくさんある梯子が立てかけられていた。こうした構造はほとんどの洞窟に見られるものだ。
キュンルン地区は火山が多く、したがって美しく澄んだ温泉も数多い。白、赤、青の砂がきれいで、薬用成分が入ったチュガン(石灰)、ツォンシ(方解石)、シェーギャプ(赤鉄鉱)などの岩が層を成している。このあたりは独特の地形が多く、成分もまた特徴的である。さらには有名な大師テンパ・ナムカやメリ(me ri)の霊的法統につらなる力のあるシャンシュ国王たちの聖なる居城でもあった。
こうした理由から、7世紀にソンツェン・ガムポ国王がシャンシュンを征服したあとも、たとえキュンルンを統治したシャンシュン国王の王統が途絶えていたとしても、ボン教の大師たちはさまたげられることなくその教えを守ってきた。そしてキュンルン銀城はボン教にとってかけがえのない聖地となった。このことは、洞窟のなかにスワスティカやボン教のマントラが描かれていることからも認識される。古いボン教のテキストもそこにばらまかれた古文書のなかから取り戻すことができた。
チベットの最後の王たちが西チベットのシャンシュンの中心部を征服し、ンガリ(mNga’
ris)という地名を与えてからそれほど時間がたっていない頃、偉大なる学者で翻訳官のリンチェン・サンポ(Rin chen bzang po 958−1055)がグゲのトリン(Tho ling)に現れ、チベットの王室の後裔であるラ・ラマ・イェシェウー(Lha bla ma
Ye shes ’od)がインドから高僧アティーシャ(982−1054)を呼んだ。アティーシャは仏教を広く伝えることになった。こうしたことから、ンガリでは仏教が普及していく状況が見られた。そしてブッダの教えを広めようとする者たちもキュンルン銀城にやってきて、居を構え、仏法を護持し、発展させた。
この結果、キュンルン銀城の前にたくさんのストゥーパが建てられ、二つのマニ石の山が築かれた。キュンルンの多くの洞窟の外側に柱が建てられ、梁が作られ、寺のようになった。寺の中の壁にはトリンとおなじような壁画が描かれた。一部はいまも痕跡を見ることができる。キュンルン銀城の頂や稜線に沿っても多くの寺が建てられた。
またいくつかの洞窟からは古代の経典が発見された。それにはリンチェン・サンポの時代に普及した厖大なヴァイローチャナ浄化経(rnam snang mngon byang)も含まれていた。この地域にはサキャ派とゲルク派が広まったので、多くの発見された経典はこの二派のものだった。
また地元のインフォーマントによれば、そこにゲルク派の僧院があったが、文革より前に破壊されたという。されは最近になってキュンルン銀城の前を流れる川の向かいの土手に再築された。この再建はキュンルン谷の銀の王宮に大いなる変化をもたらした。
ナムカイ・ノルブ・リンポチェが主張するキュンルン銀城。200以上の洞窟を擁する自然型要塞はシャンシュン国特有のものであり、私も異論はない。ここは強烈なパワースポットでもあり、都であり聖地でもあった。
しかし手元にある『阿里歴史宝典』(チベット文)を見ると、このカルドン(mkhar
gdong)を当然のごとくキュンルン銀城と認定している。山全体が大規模な山城であったことがわかる。山の大きな頂の中央部が陥没していて、太古の昔、宮殿として使われた大空間(大洞窟)があったのではないかと私は推測している。